45.
火は、落ちる。落ちるまでの間だけ、ちゃんと生きているみたいに光る。それを私は知らなかった。この夜、名瀬くんの隣で、初めて知った。
*
河川敷の草は、昼の熱をまだ大事に抱えているみたいだった。踏むと、土が小さく鳴る。昨日はここに何千人もいたのに、今日は私たちしかいない。
川の音って、こんなに大きいんだ。――ちょっと、うるさいくらい。
私は袋と鞄を抱えたまま、少しだけ呆然と立っていた。
肩には、名瀬くんのブレザー。私には大きくて、袖が指先に触れるたび、くすぐったい。でも、その重さが不思議と落ち着く。
汚したくなくて、風が吹くたびにそっと押さえた。自分の体温で温まっていくのが怖いのに、離したくなくて、襟元を指でつまんでいた。布越しに、名瀬くんの優しい気配がする気がして。私が名瀬くんのことを『優しい人だ』って思ったのは、たぶん、あの夜のせいだ。
アパートの前。ふらふら歩いていたおばあさんに、名瀬くんが寄り添っていた。抱えるみたいに、急がせないで。怒鳴らない。乱暴に引っ張らない。ただ、同じ速さで歩いて、ちゃんと玄関まで送っていく。……あの姿を見た瞬間、私は変な息をした。
不良だって聞いていたのに。怖いって、みんな言うのに。優しいところがあるなんて、私のほうが知ってしまった。だから私は、屋上で授業をサボる名瀬くんに近づいた。名瀬くんに興味があったから。変だ。でも、あの時の私は、それしかできなかった。
そんなことを考えながら、胸の奥がまだ熱いことに気付く。泣きすぎて喉が痛いのに、息を吸うたび、変な甘さが残る。泣いたのに、苦しいだけじゃなかった。
――夏休みになったら、二人で町を出よう。名瀬くんが言った。
私は頷いて、泣きながら、急いで答えた。
「うん、二人で行こう」
言った瞬間、世界がすごく軽くなった。
軽くなったから、怖かった。軽くなったぶんだけ、ふわっと飛んでいきそうで。名瀬くんは私の顔を見ていた。いつもみたいに笑わない。怖い顔もしない。ただ、まっすぐ。
その視線が、私の背中を支えてくれるみたいだった。私の中で、何かが決まった。帰りたくない、ずっとここにいたい、そう思っていたのに。今は、ここから先に行きたい。名瀬くんと。
「暗くなってきたな」
名瀬くんが小さく言った。私は頷いて、肩のブレザーの襟を握り直した。それから、勇気を出して名瀬くんのほうへ差し出す。
「……これ、返すよ。名瀬くん」
名瀬くんが、一瞬だけ眉を動かした。
「今さら返すのか」
責める声じゃない。ただ、確かめるみたいな声。
「だってさ……ずっと借りっぱなしって、なんか、ずるいじゃん」
自分でも変な言い訳だと思って、笑いそうになる。笑ったら泣きそうになる。だから、口の端を噛んだ。返したい。でも、返したくない。私の中の二つが、同じ場所でぶつかって、ちくちく痛む。
名瀬くんは、私の肩を見た。ブレザーの下。
「お前、自分のは」
その一言で、胸の奥がひゅっと冷えた。そうだ。私のブレザーは、学校に置いてきた。あの場所に、置き去りにした。
「あはは、置いてきたね。忘れちゃった」
「忘れたっつーか……そもそも濡れてただろ」
名瀬くんは短く息を吐いた。それから、私の手からブレザーを取らなかった。取らないまま、少し目を逸らして言う。
「それ着てろ」
私は、黙ってしまう。名瀬くんは、少しだけ間を置いて、続けた。
「必要なら、それで隠しとけばいい」
隠す。その言葉が、優しかった。優しいのに、鋭い。隠すものがあるって、名瀬くんは知っていたと思う。そして、隠しているものも、名瀬くんはすべて知っていたと思う。たぶん、出会った時から。
知ってるのに、決めつけない。私が言えないことを、勝手に剥がさない。私は小さく頷いた。ブレザーの裾を握り直して、肩に掛け直す。布が、私の腕を隠す。自分の体の輪郭が、少しだけ消えていく。消えるのに、安心してしまう。安心してしまうことが、少しだけ悲しい。
……でも。今は、それでいいって思った。
私は袋を開けた。ビニールの音が、夜の中でやけに大きく響く。線香花火の箱。薄い紙の匂い。硫黄っぽい匂いが、ほんの少しだけ鼻の奥を刺した。
「これ、どうやってやるのかな」
私は、もう一度聞いた。さっき聞いたのに。理由は分かっている。この時間を、もう少しだけ引き延ばしたかった。
「火をつけるだけだろ」
名瀬くんはぶっきらぼうに言った。でも、その声は乱暴じゃなかった。
私は箱の中から一本取り出して、名瀬くんに見せる。細い。折れそう。
「折れたら、どうなるの」
「……終わるんじゃねえの」
終わる。その言葉が、胸の奥を小さく叩いた。終わりたくない。終わってほしくない。
……あ、でも。終わるから、綺麗なのかもしれない。そう思えた自分が、ちょっとだけ誇らしかった。ライターは名瀬くんが持ってきてくれた。
どこで手に入れたのかは分からない。聞かなかった。聞かないほうがいい気がした。名瀬くんは優しいけれど、不良だし。
「やるぞ、天海」
名瀬くんが言う。私は頷いた。
ライターの火が点く。青い芯。その周りのオレンジ。小さな火。小さいのに、はっきり熱い。名瀬くんは線香花火の先端を、その火に近づけた。
一瞬。何も起きない。
次の瞬間。じゅっ。小さな音。湿った音。火が生まれる音。先端に、丸い光ができた。小さな玉。金色。揺れている。
「……できた」
私の声が、子供みたいに上ずってしまう。恥ずかしくて、笑いそうになって、でも笑えない。
「落とすなよ、天海」
「うん、落とさないよ。名瀬くん」
風が吹いて、火がかすかに揺れた。反射的に私は肩をすぼめる。名瀬くんの腕が、ほんの少しだけ私の肩に触れた。触れたのに、すぐ離れない。真夏なのに。汗が滲むくらい暑いのに。
私たちは、線香花火の小さな火を守るみたいに、自然と身を寄せ合っていた。近い。近いのに、怖くない。むしろ、やっと息ができる気がした。すごく安心した。
私はその火を見つめた。見つめるしかなかった。瞬きをしたら、消えてしまいそうだった。玉は、静かに膨らんでいく。膨らむというより、形を整えていく。まるで、小さく息をしているみたい。
私は気づいた。こういうのが、幸せなのかもしれない。誰かと並んで、同じ火を見る。ただそれだけ。
火花が、初めて落ちた。ぱち。小さな音。小さな光。落ちた火花は、石の上で消えた。消える瞬間が、妙に綺麗だった。私は笑いそうになった。でも笑うと火が揺れる。揺れたら落ちる。落ちたら終わる。終わりたくない。
私はそっと唇を噛んだ。痛い。痛いから、私はここにいる。
「……すごいね」
私が小さく呟く。名瀬くんは返事をしなかった。返事をしないのに、隣にいる。それが、すごく良かった。
火花が増えていく。ぱち、ぱち、ぱち。小さな世界が、私の手の中で弾けている。私は名瀬くんの横顔を見た。暗くて、よく見えない。でも、分かった。
名瀬くんは今、ちゃんと見ている。火を。私を。この時間を。
夏休みになったら、町を出る。もうこの町には戻らない、遠い場所。学校もやめて、二人で生きる。ここよりも、ずっと遠い場所には、何があるんだろう。
海。名瀬くんが言った。海の匂い。波の音。潮風。
私は海を見たことがない。見たことがないから、怖い。怖いのに、見たい。名瀬くんとなら。火花が落ちるたび、私はその言葉を心の中で繰り返した。名瀬くんとなら。
夏が終われば、秋が来る。秋が終われば、冬。冬の次は春。そうやって季節は巡る。名瀬くんと季節を過ごしたい。名瀬くんに季節を教えてあげたい。いや、季節だけじゃない。もっと、この世界の、いろんなこと。
そして玉が少しずつ小さくなる。光が弱くなる。落ちそう。落ちないで。そう思う。でも、落ちる。落ちるって分かっている。落ちるまで、見なきゃいけない。
私は息を止めて、線香花火を見つめた。最後の火花が、ひとつだけ落ちた。ぱち。それで、玉が消えた。闇が戻る。手が空っぽになったみたいで、少しだけ怖くなった。
「終わっちゃった」
私が言う。名瀬くんが、私のほうを見た。暗いのに、目が見える気がした。
「もう一本やるか」
その言葉が、胸に落ちた。終わっても、また点けられる。消えても、また火が生まれる。私は頷いた。
「うん」
なぜか、声が震えた。名瀬くんと過ごすのが嬉しいのか、暗闇が怖いのか、分からない。でも、どっちでもよかった。
名瀬くんが隣にいる。それだけで、私は生きていける気がした。二本目の線香花火を手に取る。名瀬くんのライターの火が、また青い芯を作る。小さな火。落ちそうで、落ちない火。
今度は、落ちる前に言おうと思った。言わなきゃいけない。
「名瀬くん」
名瀬くんが、こちらを見る。
「ありがとう」
それだけ言って、私は火を見た。
じゅっ。玉ができる。私は思った。この火が落ちるまで。この町を出る日が来るまで。私は、幸せでいていい。そう思った。
火は、落ちる。落ちるまでの間だけ、ちゃんと生きているみたいに光る。その光を、私は見届けた。
――名瀬くんの隣で。
名瀬くんと出会えたから、私は幸せになれた。
そして、これが私のいちばん幸せな夜になるんだと、なぜだか思った。




