表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
44/45

44.


 天海が死んでから、何日経ったのか分からない。数えるのをやめた。数えたところで、天海は戻らない。日付は紙の上だけを進む。


 ニュースも、食事の香りも、駅前の雑踏も、全部いつも通りに回っている。俺の中だけが止まっている。止まっているというより、腐っている。腐ったものは、動かない。動いたら臭いが広がるだけだ。


 季節だけがゆっくり進む。夏休みは過ぎた。そして、夏休みが終わると同時に学校を辞めた。蝉の声が少しずつ弱くなり、夕方の風にわずかな冷たさが混じる。夏は終わりに向かっているのに、俺の中はずっと同じ場所で腐っている。


 俺はまだ、この町にいる。逃げたくてたまらないのに、逃げる資格がない。天海と交わした約束だけが、俺の足首に巻きついたまま、ほどけない。


 ――夏休みになったら、二人で町を出よう。

 あの一言が、今でも喉の奥に残っている。残って、腐って、俺の息を汚している。俺が言った。俺が言ったから、天海が言った。天海が言ったから、あの男が。


 そういう順番が、頭の中で勝手に完成してしまう。完成してしまうから、俺は何をしても無駄だ。祈っても、殴っても、泣いても、完成した順番は崩れない。一生、清算が続く。


 それを思った瞬間から、死にたいという願いは願いじゃなく罰になった。死ねない。死んでも終わらない。終わらないから、生きるしかない。生きるというだけで、清算が続く。


 街灯の下は白くて、影は黒い。白と黒の境目が、やけにくっきりしている。俺の目がもう色を拾えなくなっているだけかもしれない。


 裏路地のアスファルトは昼の熱を捨てきれず、生ぬるい匂いを残していた。湿ったコンクリの匂い。排気ガスの残り香。ゴミ袋が破れて、酸っぱい汁が乾いた異臭。

 誰も通らない場所。人が通らないから、声も届かない。届かないから、ここは昔から俺たちの場所だった。俺は壁に背中を預けて立っている。


 背中に伝わるコンクリのざらつきが、妙に現実的だ。汗が冷えて、シャツが背中に貼りついている。皮膚が引っ張られて痛い。痛いのに、その痛みが生きていることに繋がらない。


 気配がある。足音は軽いのに、空気が重くなる。笑い声が混ざる。低い声と高い声が重なって、どれが誰の喉から出たのか分からない。分からないほうがいい。こいつらは名前じゃない。俺の過去の集合体だ。


「……お前さ」

 声が一つじゃない。二つでもない。複数の声が重なって、一つの塊みたいに俺の周りで蠢く。顔は暗くて見えない。見えない方がいい。見えてしまえば、殺したくなる。


「勝手に終わったと思ってんの?」

 終わってない。終わるわけがない。終わらせてもらえない。俺は両腕をだらんと垂らしたまま、立っている。抵抗しない。抵抗する意味がない。


 最初の一撃は、腹だった。拳じゃない。たぶん膝だ。鈍い衝撃が内臓を横にずらして、息が勝手に抜けた。喉が鳴る。空気が肺から漏れる音が情けない。声は出なかった。出なくて良かった。出したところで、ここには誰も来ない。


 二発目は同じ場所だった。今度は足。靴底。硬いものが腹を押し込んで、胃の奥が持ち上がる。吐き気が喉まで来る。でも吐かない。吐いたら、あの部屋の臭いが戻る。腐った生ゴミと、乾いた血の臭いが。


 三発目は頬。骨に当たる音がした。視界が一瞬、白く弾ける。歯がガチンと噛み合って、舌を噛んだ。口の中に熱い鉄の味が広がる。血だ。唾液と混ざって、生ぬるい。


 次は肩。肋。膝。太腿。どれも雑だ。雑な暴力は怒りじゃない。処理だ。俺を、俺の過去を、捨てきれないゴミとして再利用するための手つき。

 痛い。痛いのに、感情が動かない。痛いのに『やめろ』と思わない。『やめろ』と思うより先に、『もっと』と思ってしまう。


 もっと。もっと殴れ。もっと蹴れ。もっと潰せ。そう思った瞬間、自分が一番気持ち悪くなる。


「こいつ、少し前まで人みてえな顔してたよな」

「ああ、確かに。人が変わったみたいだった」

「穏やかな顔しちまってた」

「今は死んだ魚みてえな顔してるけど」

 笑い声。湿った笑い声。煙草と酒と汗の臭いが混じった笑い声。人みてえな顔。


 天海の顔が浮かんだ。花火の光に照らされていた横顔。イチゴミルクのストローを咥えて笑っていた口元。「名瀬くん」と呼ぶ時の、柔らかい声。穏やかな顔で、線香花火を見つめる天海。

 それを思い出した瞬間、俺は吐きそうになった。


 胃が、痛みとは別の方向で痙攣する。吐き気じゃない。自分の中の何かが戻ってくる感覚だ。戻ってきてほしくない。戻ってきたら、天海が死んだことが現実になる。


「何だよ。今さら吐くなよ」

 腹を蹴られる。今度は上から踏み潰すような蹴り。内臓が潰れる感覚。息が潰れる。肺が空気を吐くのを拒否する。喉がひゅっと鳴って、みっともない音が漏れる。


 天海は冷たかった。冷たいという事実だけが、まだ俺の指先に残っている。指の腹が、あの冷たさを覚えている。覚えているせいで、俺は今ここで生きている。


「……殺せ」

 自分の口から言葉が落ちた。落ちた瞬間に、全身が恥ずかしくなる。殺してほしい。殺されれば終わる。


 そう思った。でも本当は、終わらない。俺が死んでも、天海は戻らない。俺が死んでも、俺の言葉は天海の死に刺さったままだ。


 ――夏休みになったら、二人で町を出よう。

 あの一言。あの一言が、天海の首に縄をかけたんじゃないか。天海を殺したのは俺なんじゃないか。

 俺が希望を渡した。渡したふりをした。天海はそれを握った。握ったから、あの男に見せた。見せたから、あの男は怖くなった。怖くなったから、殴った。殴ったから、死んだ。


 頭の中で、その順番が何度でも再生される。再生されるたびに、俺は少しずつ楽になる。楽になるのは、責任が自分に戻ってくるからだ。責任が自分に戻れば、世界は単純になる。世界が単純になれば、俺は罰を受ければいい。


 ――俺が悪い。天海を殺したのは、俺だ。

 そう言えたら、救われる。救われたい。救われたくない。どっちも同時に欲しい。欲しいから、また殴られる。


「は?」

 空気が一瞬止まる。次の瞬間、笑い声が爆ぜた。


「こわ」

「ヒロイン死んで、主人公も死にたいってか」

「キモチワル」

 ヒロイン。その単語が俺の鼓膜を裂いた。天海は物語じゃない。天海は、天海だ。――俺がそう言えたら、どれだけ良かった。


 言えない。俺が言う資格がない。天海を物語にしたのは、俺だ。天海を救えると思った。救えるふりをした。救えなかった。救えなかったのに、まだ生きている。


「殺してほしいならさ」

「楽に死ねると思うなよ」

 足が腹の上に乗る。体重が落ちてくる。胃が潰れて、喉が焼ける。あばらが悲鳴を上げる。息が潰れる。視界の端が黒くなる。


 痛い。痛いのに、安心する。安心してしまう自分が一番気持ち悪い。天海と出会う前の俺は、ずっとこうだった。殴って。殴られて。その中だけが俺の居場所だった。天海と出会ったせいで、俺は一瞬だけ勘違いした。


 俺にも、別の生き方があるかもしれないって。勘違いしたのが罪だ。天海に季節を教わった。天海に夜空の色を教わった。天海に未来を教わった。教わったせいで、天海に希望を渡した。だから天海は死んだ。


 残酷だ。残酷なのに、俺はその残酷さにしがみついている。しがみつかないと、天海が俺の中から消えてしまう。消えたら、俺はただの暴力に戻る。戻ったら、天海が見ていた俺まで死ぬ。


 でも天海はもう死んでいる。

 ――じゃあ、何を守ってるんだ。どうして俺は、人を殴れないんだ。


 その問いが頭を殴る。殴るのは拳じゃない。言葉だ。俺は答えられない。答えられないから、また蹴りが来る。

 脇腹。あばらが軋む。折れたかどうか分からない。分からないけれど、息を吸うたびに針が刺さる。吸うと痛い。吐くと痛い。生きているだけで痛い。生きているだけで痛いのに、死ねない。


「……俺が悪い」

 声がかすれた。誰かが舌打ちする。


「いい子ちゃんかよ」

 いい子。違う。俺はただ、罰を欲しがっているだけだ。罰を欲しがることでしか、自分を保てないだけだ。天海は、俺に罰を与えなかった。天海は俺を裁かなかった。それが一番、痛い。


 天海は俺を「名瀬くん」と呼んだ。怖いのに、優しいと言った。優しいなんて言葉で俺を縛った。縛って、俺を変えようとした。変わろうとした俺のせいで、天海は死んだ。残酷だ。残酷すぎて、笑いそうになる。泣きそうになる。


 息が詰まって、視界が白くなった。白い街灯が輪郭を失って、滲んだ円になる。その中心に、赤い点だけが残る。信号機か、車のテールランプか、俺の目の裏側か。落ちそうで、落ちない火。腹の上に靴が落ちる。


 一度。二度。


 体重を確かめるみたいに踏み込まれて、胃が潰れて、喉が焼けた。息が漏れる。声じゃない。壊れた空気だ。笑い声が近い。鼻の奥に煙草の臭いが刺さる。酒と汗の臭いが重なって、夜の湿気と混ざる。


 衝撃が頬に当たる。頭の中で花火が散る。花火は綺麗じゃない。白い痛みだ。


「終わったと思ってんじゃねーぞ」

 終わってない。終わるわけがない。終わらせてもらえない。終わってほしい。


 天海が死んだ。俺は生きている。生きているから、殴られる。殴られるから、生きている。俺がいなければ。その一文が、殴られるたびに整っていく。言葉が形になるほど、俺は楽になる。楽になるほど、残酷になる。


 夏休みになったら、二人で町を出よう。それで天海の首に縄をかけた。俺の舌が。俺の声が。俺の未来が。


「……殺してくれよ」

 声が出た。唇が裂けて、血の味が濃くなる。笑い声。


「殺すわけねーだろ。捕まりたくねーもん、あの父親みたいにな」

 殺されない。終わらない。靴がもう一度、腹に落ちる。呼吸が潰れる。世界が遠くなる。遠くなるのに、赤い点だけが残る。


 天海と線香花火をした夜。あの小さな火が、落ちるのを俺は見ていた。落ちるまで、ちゃんと見ていた。なのに、天海の火は落ちた。戻らない。俺の清算は落ちない。落ちないまま、ずっと燃える。


 赤い点が揺れる。揺れながら、消えない。殴られる。蹴られる。また殴られる。俺は自分の過去に殴られている。


 俺は目を閉じた。閉じても、線香花火の煌めきは残った。落ちそうで、落ちない火だった。


 俺は地獄に落ちてもいい。

 ただ、天海は、天海だけには、幸せになってほしかった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ