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43.


 天海は死んでいる。そういう言葉を、頭の中で何度も繰り返した。繰り返すたび、意味だけが薄くなる。天海の形をした塊が床にあって、俺のブレザーが肩に掛かっている。それだけが、現実として目に入ってくる。血の色も、痣の色も、匂いも、全部見えているのに、どこにも触れていない。俺の中に入ってこない。


 俺は呼吸をしている。しているはずなのに、肺が動いている感じがない。耳の奥が、遠い。

「どうして」

 自分の声が出た。出たことだけが分かった。声が床に落ちて、ゴミに吸われた。


 俺はもう一度、天海の頬に手を当てた。冷たい。その冷たさは生命に繋がらない。ただ、冷たい。この部屋の匂いが喉を焼いている。腐った生ゴミの匂い。酸っぱい。カビ。そして、乾いた血の匂い。どれも嫌なのに、吐くことすらできない。


 天海の身体に残った痣の色。乾いた血。腐った匂い。それ全部が、誰かの手の形に見えた。


 俺の掌が、ゆっくり握られていく。指の関節が鳴る。爪が皮膚に食い込む。血が出そうなほど強く握って、やっと『ここにいる』感覚が戻ってきた。


 殺意は熱じゃなかった。冷たい。水のように澄んで、底が見えない。澄んでいるのに、確かにどす黒い。どす黒いのに澄んでいる。俺の、その殺意は、さらさらとしていた。


 一歩で届く。喉を掴める。息を止められる。そう思うだけで、身体が正しい場所に戻るみたいだった。


 俺は天海から目を離さないまま、ゆっくり立ち上がった。膝が鳴った。床のゴミが、靴底に潰れる感触がした。

 すぐ近くにいる。天海を殺した、天海の父親が。呼び方なんて、どうでもいい。ただの男だ。天海を殺した手の持ち主。


 俺は男の方を向いて、一歩近づいた。もう一歩。視界の端で、天海の制服の白さが滲む。その白さが、俺の中の冷たいものをさらに尖らせる。距離が詰まるほど、呼吸が静かになる。


 この男を、終わらせる。それだけが、はっきりしていく。

 男が、壁にもたれたまま、こちらを向いた。目は開いている。でも焦点が合っていない。俺を見ているのに、俺を見ていない。それでも、俺の中の刃だけは届いた。


 男の唇が動く。生き物みたいに。乾いた舌が歯の裏に張りついて、言葉を引きずり出す。

「出るって……家、出るって……言ったから」

 かすれた声が落ちた。言い訳。弁解。自分の命乞いに一番近い音。男の喉が小さく鳴る。


「……カッとなって……」

 言った瞬間、肩がほんの少し跳ねた。自分で出した言葉に、自分が怯えたみたいに。


「殴った……殺す気は……なかった……」

 なかったの部分だけが妙に強くて、すぐに崩れた。


「……俺のせいじゃ……」

 男は続きが言えない。否定したいのに、否定の言葉さえ形にならない。


 俺は、この男の喉元だけを見た。そして未来が見えた。そこに指を掛ける映像じゃない。もう指は動き、首を潰している映像だ。次の瞬間、その映像をなぞるために俺の身体が跳ねた。


 一歩。足が床のゴミを蹴って、缶が転がる音がした。俺の腕が伸びる。伸びた手が、空気を裂く。喉だ。掴める。指先が、男の首に触れる寸前で止まった。


 天海の肩に掛かった俺のブレザーが、視界の端で揺れた。それだけで、俺の手が固まった。掴んだら、天海の前で、俺は『また同じこと』をする。


 ――駄目だ。


 それでも喉の奥から、獣みたいな息が漏れた。噛み殺しても、止まらない。俺は指を丸めて、拳にした。握りしめた骨が鳴る。それでも手は震えている。


 この男を殺せる。今すぐ殺せる。そういう確信だけが、身体の中で暴れていた。男の喉が、ひゅ、と鳴った。俺の指先の近さを思い出したみたいに、遅れて息が詰まる。


 男は笑った。声にならない、唇だけの笑い。怖がってるのか、安心してるのか、自分でも分かっていない顔。

「……ちがう」

 さっきまでの言葉を、もう一度だけ引きずり出す。言い訳を言えば助かると思っている。言い訳を言わないと壊れると思っている。


「……殺す気は……なかった……」

 なかったを噛んだ。歯の隙間から、唾と一緒に漏れる。


「家を出るって……言ったから……」

 その次に、男の唇が妙に速く動いた。焦りだけが先に口から漏れる。


「きっと警察に……言うつもりで……」

 小さく、濁った声。怒鳴り声じゃない。怯えた声だ。


「……捕まる……」

 男はそこで息を吸い損ねて、喉の奥でひゅっと鳴った。


「俺が……悪いんじゃ……」

 途切れた音が、床に落ちる。


「……あいつが……言い出した…………俺だって……怖かった……」

 怖かった。その言葉の薄さに、吐き気がした。日常的に自分の子供に暴力を振るい、傷つけて――。同じ断片を吐くたび、男の目が少しずつ俺に寄ってくる。焦点が合いかけて、またずれる。


 警察。捕まる。俺が悪いんじゃない。この男の世界は、そこしかない。天海じゃない。命じゃない。ただ、自分だけ。自分の子供なのに。床に倒れているのは自分の子供なのに。


 殺してやりたい、の次に、もっと黒いものが来た。逃がすな。喋らせるな。息をさせるな。ここで終わらせろ。


 俺は、こいつの、その揺れる目を見てしまって、さらに殺したくなった。俺は奥歯を噛んだ。噛みしめた歯の根が痛い。痛みだけが、俺を繋ぎ止める。でも殺意は消えない。消えるどころか、形を覚えていく。


 天海の肩に掛かった俺のブレザーが、やけに綺麗に見えた。袖口の糸。ボタン。俺が雑に扱ってきた布。それが今、天海の身体を覆っている。覆っているだけ。何も守れていない。


「立て」

 俺は、自分が何を言っているのか分からない。立て。誰に。何を。


「立てよ」

 そう言って、俺は唇を強く噛んだ。噛んだのに、痛くない。


「……やめ……」

 男は、また口を動かす。言葉になりきらない。やめろ。誰に。何を。


 やめろと言う口で、こいつは天海を殴ったんだ。俺の中で、何かが古い扉を開ける。ぎし、と音がする。暗い部屋の匂い。湿った床。拳の重さ。殴る前の、あの静けさ。


 俺は昔から知っている。人を壊すのは、簡単だ。声を荒げなくてもいい。理由なんて要らない。ただ、手を出せばいい。この男の声が、俺の中の暴力を呼び戻す。


 男が、怯えたまま笑う。唇だけが、気持ち悪く震える。

「ちがう……」

 違う。何が。


「……捕まる……」

 その言葉だけが、こいつの心臓。天海の名前は出ない。死んだ身体は見えない。見えているのは、自分の首に掛かった縄だけ。


 俺の中の黒い衝動が、殺意を押し広げる。殴るだけじゃ足りない。黙らせたい。止めたい。息を奪いたい。男の喉仏が上下する。それを見て、俺の手が勝手に動こうとする。骨の内側が、ぞわ、と鳴る。俺は、男の前にしゃがんだ。距離を詰める。逃げ道を消す。視線を合わせる。


「見ろ」

 声が低く出た。


「見ろよ」

 俺は顎で、床を示した。天海を。


 男は見ない。見ようともしない。目だけが泳いで、俺の手と、俺の肩の向こうを行き来する。言い訳が、また滲む。


「……俺は……悪く……」

 その途中で、俺の中の暴力が、はっきり形になった。拳じゃない。指だ。喉を塞ぐ指。息を止める指。音を奪う指。


 だから俺は、息を吐いた。吐き出すみたいに。


「もう二度と喋るな」

 言いながら、俺の手はもう、男の首に影を落としていく。





「名瀬くんは優しい人」

「一番私に優しくしてくれた人」

 声が、頭の奥で響く。今ここにない声。もう二度と返ってこない声。

 俺は息を吸った。吸ったはずなのに、胸に入らない。でもその声だけは、骨の奥まで入ってきた。


 天海の言葉が、俺の指の形を少しだけ崩す。喉を塞ぐために揃っていた指先が、ほんのわずかにほどける。天海が見ていたのは、殴る俺じゃない。抱えて歩いた俺だ。黙らせる俺じゃない。


 天海は俺に微笑みかけた。季節を教えてくれようとした。俺は天海を、守りたいと思った。殴って黙らせる手じゃなく。壊す手じゃなく。今、俺の手は何をしようとしている。


 天海の声が、もう一度だけ重なる。

「名瀬くん」


 指が震えた。怒りの震えじゃない。戻れなくなるのが怖い震えだ。


 俺は手を引いた。引いた瞬間、空気が冷たくなった。喉を塞ぐはずだった指が、ただ宙に浮いている。

 男はまだ、何か言おうとして口を動かしている。でも俺はもう聞かない。聞けばまた戻る。俺は床のほうを見た。天海を。


 この男を殺して、天海の無念を晴らしたい。天海の味わった苦しみを、この男に味わわせたい。でも、今ここで俺が暴力に戻ったら、今ここで人を殺したら、天海が見ていた俺まで死ぬ。


 枯れていたと、思っていたはずの涙が俺の頬を伝う。苦しいし、悔しかった。昔の俺のままだったら、この男を簡単に殺せたのに。簡単に殺せたら、良かったのに。


 天海がどんな気持ちで、この男から暴力を受けていたのか。実の父親から殴られて、蹴られて、そして――。涙が止まらなかった。この男を殺してしまいたい。身体にも心にも、キズを抱えたまま、天海は明るく振舞っていたんだ。


 天海は俺とは違う。人に迷惑をかけ続けてきた俺とは。俺と同じように親から虐待を受け続けていたのに、天海は違った。それなのに、どうして天海は死んだ。どうして俺は生きている。優しいのは俺じゃない。本当に優しいのは天海だ。死ぬべきなのは俺だ。


 俺は天海の身体のそばに膝をついた。床の冷たさが、制服越しに骨へ染みる。呼吸が、壊れた。吸って、吐いて、その間に声が混じる。喉の奥が勝手に鳴って、息が引きつる。


 涙が止まらない。止めようとしたら、もっと溢れた。視界が滲んで、天海の輪郭が壊れて、また現れて、また壊れる。


「天海……」

 声が出た。出た瞬間、胃の奥がひっくり返って、俺は前に折れた。嗚咽が胸を叩く。息が入らない。入らないのに、泣く音だけが続く。天海の肩に掛かった俺のブレザーに、指が触れた。


 濡れる。布が、涙を吸う。俺は何度も名前を呼んだ。声にならない。唇だけが動く。喉の奥で、潰れて、砕けて、息に混じって消える。泣きながら、謝った。謝っても、何も戻らない。戻らないことだけが、はっきりしていく。俺の涙が天海の頬に落ちた。落ちて、転がって、そこで止まった。


 天海は動かない。拭わない。瞬きもしない。俺は声を出して泣いた。息を吐くたび、喉が裂ける。胸が痛い。腹が痛い。


 それでも止まらない。止まったら、天海が本当にいなくなる気がした。だから俺は、泣いた。ただ泣いた。この部屋の臭いも、男の気配も、全部の上に、涙だけを落とし続ける。


「――うん、二人で行こう」

 天海の声が、また頭の奥で響いた。


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