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42.


 脚が鉛みたいに重い。ふくらはぎが引きつりそうで、膝が笑っている。汗はとっくに冷えて、背中に貼りついたシャツが気持ち悪い。喉は乾いているのに唾が飲み込めない。目の奥が熱いのに、泣く力はもう残っていなかった。


 日は落ちたが、夏の夜はまだ完全に黒くない。空の底に薄い青が残っていて、街灯の光が早すぎるみたいに浮いている。俺の中だけが先に真夜中になっていた。


 自販機の白い光。住宅街の端。古いアパートへ続く道。何度も通った場所だった。

 夜中、徘徊する認知症の老婆を見つけては、この辺りのアパートへ送り届ける。その繰り返しを、俺は何度もやってきた。面倒で、厄介で、暴れて、爪を立ててくる。毎回うざったいと思いながら、それでも放っておけなくて、結局ここまで連れて来る。


 このアパートの壁の剥がれ具合も、階段の影も、玄関前のコンクリの段差も、俺は知っている。知らないはずの場所に、知っている輪郭がある。その事実が、今夜の俺には怖かった。


「……君」

 背中に声が当たった。知らない声だ。近い。

 俺は反射的に肩を強張らせた。こんな時間に、こんな場所で、知らない誰かに声を掛けられるだけで、身体が職員室での反応を思い出す。俺は今も、教師たちの視線の延長線上にいる。そう思ってしまう。


 振り返るのが億劫で、首だけを動かす。作業着の上着を肩に引っかけた男が立っていた。中年。仕事を終えて帰ってきたところらしく、額と首筋に汗が残っている。

 俺は一瞬、言葉を失った。誰だ。なんで俺に。男は俺の顔を見て、眉を寄せた。警戒じゃない。叱る顔でもない。


「悪い、驚かせたかな。ここ、うちのアパートでさ」

 男は建物を親指で示してから、少しだけ頭を下げた。


「ここの大家だよ。顔色が相当悪いけど、大丈夫かい」

 俺は返事ができなかった。声を出せば、そこで膝が折れそうだった。男は俺の足元を一度見て、また俺の顔を見る。


「……君さ、何度か見かけたんだよ。あの婆さんのことで」

 大家の声は、責める響きじゃなかった。確かめるみたいな、気遣うみたいな声だった。


「あの人、夜中にふらっと出ちゃうだろ。住んでる人に迷惑かけたり、車にひかれそうになったりもする。正直、俺ひとりじゃ追いかけきれない日もあるんだ」

 一息置いて、大家は苦笑いを浮かべた。


「そんな中でさ。君が、何度もここまで連れてきてくれてた。怒鳴るわけでもなく、乱暴するわけでもなく、ちゃんと……家までな。あれ、誰にでもできることじゃないよ」

 褒められている。そう理解するまでに時間がかかった。


「いつも、ありがとうな」

 俺は、こういう言葉を受け取る場所を持っていない。疑われて、裁かれて、見下される言葉ばかり浴びてきたから、褒め言葉の形がわからない。


「……すみません」

 反射で謝ってしまう。大家は小さく首を横に振った。

「謝るなって。……君、高校生だろ。制服、よく見かけた」

 俺は頷けなかった。喉が乾きすぎて、声が出ない。大家は続けた。


「ここにさ、君と同じ高校の子が住んでるんだ。女の子。その子も、君が婆さんを送り届けてるのを見たって」

 女の子。胸の奥がひくつく。知らない誰かの話のはずなのに、俺の身体が先に反応する。血の気が引くのと、逆に耳の奥が熱くなるのが同時に来る。


 大家は、俺の反応に気づいていないふりをした。

「その子がこの前、俺に言ってたよ。『彼、すごいんです。実は同じクラスで』って」

 大家は思い出すみたいに、微笑んだ。


「笑いながら『怖そうなのに、とても優しいんです』ってさ。……君のこと、すごく褒めてた」

 俺は息を吸った。でも、途中で喉に引っかかって、うまく胸まで落ちてこなかった。褒められる。俺が。そんな現実が、頭の中で形にならない。


 俺が知っているのは、疑いの目だけだ。危ない奴だって顔。何をするかわからないって距離。職員室で浴びたのも、その種類の視線だった。

 なのに今、ここでは違う。俺が見てきた『夜の俺』を、誰かが見ていて、言葉にしている。しかも、その誰かは、同じ高校の女の子。そんなふうに俺のことを言う彼女が、このアパートにいる。俺の同級生。


 ――天海。


 彼女の笑顔が頭に思い浮かんだ。あいつが俺に声をかけてきたのは、気まぐれでも、暇つぶしでもなかった。俺が知らないところで、俺を見ていた。殴る手じゃなく、抱えて歩く手を。それを知っていたから、天海は最初から俺に近づいた。


 俺が一番隠したい部分――優しいなんて言葉で呼ばれたくない部分を、わざわざ掘り当てて。胸の奥が、苦い。優しいなんて言葉で俺を括られるのは、気持ち悪い。腹の底がむず痒くなる。殴って黙らせたくなる衝動が、反射みたいに浮かぶ。

 でも――同じくらい強く、別のものが胸を押した。軽い衝撃じゃない。骨の奥に、じわじわと染み込むみたいな圧だ。誰にも見られていないと思っていた夜の俺を、天海が見ていた。


 怒鳴らずに、殴らずに、ただ抱えて歩いたその瞬間を。俺がやったのは、ただ面倒を片づけただけだ。そう言い聞かせてきた。優しいなんて、俺には似合わない。似合わないから、言われたくない。なのに天海は、それを見て、拾って、覚えていた。


 喉の奥が熱くなった。息が詰まって、目の奥が痛い。泣きたいわけじゃないのに、涙の出方だけを身体が思い出そうとする。嬉しい、と言えば嘘になる気がした。でも、今夜だけは、嘘じゃない何かが胸の中に残っている。


 褒められるとか、認められるとか、そういう類のものを、俺は受け取る訓練をしてこなかった。それでも、確かにそこに何かがあった。折れかけた骨の内側に、細い針が一本だけ残っているみたいな、情けないほど小さな温度。

 天海が、俺の『やったこと』を知っていた。


「……その子」

 俺はやっと言葉を作った。


「天海、ですか」

 大家は俺の顔をじっと見て、それから小さく頷いた。


「ああ、そうだよ。天海さんちの子だね」

 耳の奥が熱くなって、同時に冷えた。ここにいる。ここに、いる。大家は続けた。


「その子な。君のこと、ちょっとどころじゃなく気に入ってたよ」

 気に入ってた。その言い方が、胸に刺さった。

「怖いけど優しいって言い方じゃ足りないくらいだ。……名瀬くんみたいな人が同じ学校にいて良かったって、そう言ってた」

 俺は息を吸った。でも、空気は胸の手前で散って、腹の底まで届かない。この町のどこにも届かなかったはずの俺が、天海には届いていた。その事実が、今夜の俺を立たせるのか、逆に膝を折らせるのか、わからない。


「……俺」

 声がかすれて、途中で折れる。今夜、天海を探してる。二日欠席してる。身体にキズがある。教師には信じてもらえない。全部言いたい。


「天海が学校を休んでて心配で、だから俺……天海の住んでる場所を探してて」

 言葉がそこで途切れた。続きがあるのに、舌が動かない。頭の中にあるのは焦りと疲労だけで、ちゃんとした言葉にならない。職員室で必死に喋ったはずなのに、あの時より今のほうが声が出ない。俺は一度、唾を飲み込もうとして失敗した。喉が乾きすぎて、飲み込むものがない。


「……会いたい」

 やっと出たのは、それだけだった。


 会いたい。心配。無事かどうか。確認したい。助けたい。守りたい。

 全部同じ場所に詰まって、言葉の形にできない。俺は恥ずかしくなって、視線を落とした。


「違う、あの……会いたいっていうか」

 訂正しようとして、さらにぐちゃぐちゃになる。


「会いたい、のも……そうだけど。今日来てなくて、昨日も来てなくて。俺、何も知らなくて。だから……」

 だから。だから何だ。言葉が続かない。頭の中の線が切れていく。走り続けて擦り切れたのは脚だけじゃない。大家は急かさなかった。ただ、俺の拙い言葉を最後まで待つみたいに、黙っていた。


「……すみません」

 結局、また謝ってしまう。


「俺、変なことするつもりじゃなくて」

 言いながら、自分の声の頼りなさに腹が立つ。俺はいつも、殴る時だけは迷わなかったのに。大家は、疑う顔をしなかった。探る目もしなかった。老婆に寄り添う俺を、この人は何度も見ている。そして天海が俺のことをどう思っているかも、聞いている。だからこの人は、最初から俺を『危ないヤツ』として扱わなかった。


「うん」

 大家が、柔らかく頷いた。

「分かった。……案内するよ」

 言い切る声が、軽い。俺を裁く声じゃない。助ける時の声だった。


「天海さんちまで案内するよ」

 大家は笑った。作り笑いじゃない。気が抜けた笑い方だった。


「大丈夫。君が婆さんを家まで送ってきてくれたの、俺はちゃんと見てる。天海さんちの子も、君のことをちゃんと見てた。君は変なことをするような子じゃないって知ってるさ」

 胸の奥が、ぎゅっと縮んで、次の瞬間ふっと緩む。信じる。その言葉だけが、今夜の俺には眩しかった。瞬きをした拍子に、目の端が熱くなった。慌てて誤魔化す間もなく、滲んだものが一筋だけ頬を落ちる。汗のせいにするには、遅かった。


「……ありがとうございます」


 声が震えて、情けない。でも、嘘じゃない。大家は先に歩き出した。アパートの入口へ向かいながら、振り返りもせずに手だけで「こっちだ」と合図する。


 俺は一歩遅れて、その背中を追った。薄暗い共用廊下。壁に貼られた注意書き。少し湿ったコンクリの匂い。遠くの部屋からテレビの音。足音がやけに響く。大家の足音と、少し遅れる俺の足音。脚はまだ重い。息はまだ浅い。それでも今は、ちゃんと前に進んでいる。


 階段の踊り場に差しかかる。外より少しだけ、ぬるい空気が肺に入って、喉がひりつく。壁の塗装はところどころ剥げ、蛍光灯は一本だけ妙に白く光っている。俺はその光を見上げるのが怖くて、床の染みを見て歩いた。


 大家は慣れた足取りで先に上がっていく。俺はその背中から目を逸らさないようにした。逸らした瞬間、足が止まりそうだった。ただ階段を上がるたび、胸の中の痛みが別の形に変わっていくのがわかった。恐怖じゃない。不安でもない。

 廊下の奥、薄く明かりが漏れている部屋の前で、大家が立ち止まった。


「ここだ」

 大家は表札もない扉を見た。俺は自分の靴先を見たまま、そこへ並んだ。胸が痛い。息が浅い。手のひらが汗で濡れている。


「天海……」

 無意識に自然と声が漏れていた。大家がチャイムを押す。呼び鈴が鳴るも、反応は無い。もう一度。


 反応がない。


 大家がノックする。低い音が廊下に広がる。

「天海さーん。いますか」

 返事はない。廊下の静けさだけが、じわじわと濃くなる。遠くの部屋のテレビの音が一瞬大きく聞こえて、すぐに遠のく。大家がドアノブに手をかけた。


「……鍵」

 回る。ドアは、抵抗なく開いた。俺の胃がひっくり返りそうになる。


「おい」

 大家が小さく言って、ドアを開け広げる。部屋の中の空気が、廊下へ漏れ出した。生ぬるい。湿っている。それだけじゃない。


 腐った生ゴミと、酸っぱくなった飲み残しと、カビた布の匂いが、喉の奥に貼りつく。


 その下に、もっと嫌な匂いが混じっていた。鉄みたいに生臭い匂い。時間が経って乾いた血の匂い。俺は息を吸い込んだ瞬間にむせて、咳を噛み殺した。目の奥が痛い。


「入りますよー」

 大家が声をかける。返事はない。俺たちは玄関で立ち止まった。靴を脱ぐ。床に上がる一歩が、妙に重い。大家が後に脱いで、黙って俺の靴を端へ寄せた。玄関の三和土(たたき)に、黒い染みがいくつもある。何がこぼれたのか分からない。粘ついた跡だけが残っている。


 床には空き缶。弁当の空。潰れた紙パック。汁の乾いたコンビニ袋。吸い殻の山。黒いゴミ袋が膨れて、口が半分開いたままになっている。中からハエが一匹、ふらふらと出てきて、すぐ壁にぶつかった。


「天海さーん」

 大家がもう一度呼ぶ。返事はない。奥の部屋から、かすかな物音がした。俺の身体が固まった。大家が先に進む。俺も遅れてついていく。廊下は狭く、壁紙が湿気で波打っている。床には何かを引きずった跡がある。踏むたびに、ぺたり、と嫌な音がした。


 廊下の先の居間。照明は点いていないのに、薄い明かりが残っている。テレビの砂嵐みたいな光が、部屋全体を白く塗っていた。


 顔立ちは整ったスウェット姿の男がいた。床に座り込んでいる。背中を壁にもたせ、膝を抱えたまま、虚空だけを見ている。


「……天海さん」

 大家の声が、さっきまでより低い。男は瞬きもしない。生きているのに、もう壊れている。俺は視線をずらして、床を見た。


 そこには、仰向けに倒れる天海がいた。


 大家が息を呑む。喉が鳴って、短い言葉が落ちる。聞き取れない。聞き取れる余裕がない。男――父親は、まだ壁にもたれたまま、虚空を見ている。俺の背後で、足音が一歩だけ下がる。


「おい……天海さん。……救急だ。警察もだ」

 大家の声は震えていた。怒鳴る震えじゃない。現実に触れてしまった震えだ。大家は一度だけ俺を見て、すぐ玄関のほうへ視線を戻した。


「君は、ここにいろ。触るな、動かすな。……俺が呼んでくる」

 そう言い残すと、大家は部屋を飛び出した。廊下を走る足音。階段を駆け下りる音。どこかのドアが開く音。俺は、その場に取り残された。



 天海。あの夜、線香花火をして、別れた時と同じ、制服姿。スカート。ワイシャツ。そして俺のブレザー。俺のブレザーが、天海の肩に掛かっている。着ているのに、守れていない。



 天海は、ゴミだらけの床に横たわっていた。人形みたいに。首筋と腕に、黒々とした痣が重なっている。皮膚の上で、時間が違う色をしている。髪の生え際に、乾いた血がこびりついている。頬の痣は黒く沈んでいる。天海の綺麗な顔を沢山の痣が包んでいる。床にも、褐色に固まった滲みがある。



 俺は一歩、近づいた。足音が聞こえない。自分が歩いているのに、音がしない。



「天海」

 呼んだ。反応がない。


「おい」

 もう一度。俺はしゃがみ込んで、天海の肌に触れた。

 冷たい。冷たすぎる。指先が勝手に震えた。


「……天海」

 声が割れた。胸の奥が、嫌な音を立てて沈む。息が、出ない。俺は天海の頬に手を伸ばした。


 あの時、笑っていた天海。一緒に傘に入って、寂れた商店街を歩いた天海。シュークリームを頬張って、勝ち誇っていた天海。打ち上げ花火の、色とりどりの光に照らされた天海。真夏だというのに身を寄せ合って、線香花火をして、泣きながら笑っていた天海。


 同じ形なのに、もう違う。目の縁が乾いている。唇が僅かに開いたまま、動かない。俺の喉から、音が漏れた。言葉にならない。俺は理解した。天海は。




 俺のブレザーを大事そうに着た天海は、ゴミだらけの床で死んでいる。




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