41.
夕方。職員室の湿った空気が、まだ皮膚の裏にへばりついている。
木村の甲高い声が耳の奥で反芻する。山本の見下す目が、瞬きをするたび瞼の裏に浮かぶ。周囲の教師たちの沈黙が、粘土みたいに喉に詰まって息を浅くする。最後に落とされた「帰りなさい」という言葉だけが、剣みたいに胸に刺さったまま抜けない。
頭を下げた。涙を見せた。言葉を尽くした。なのに、何も変わらなかった。信じてもらえなかった。ただそれだけのことが、こんなにも重い。
俺の言葉は最初から『嘘』として扱われていた。天海の身体のキズを見た。あの右頬の新しい痣を見た。手の形が残っているほどの青黒い痣を、俺は見た。けれど、俺がそれを口にした瞬間に、俺の過去が全部、俺の声を踏み潰した。暴力事件。警察沙汰。そういう名札が、俺の胸に勝手に縫い付けられている。俺が何を言っても、その名札のせいで『目的がある嘘』になる。
涙で濡れた頬が冷えていく。喉の奥がひりつく。泣いたせいで息が変に詰まって、呼吸が細い。胸の奥が焼けて、胃の底が冷たい。俺は校門を出た。家に帰る気はなかった。帰ったところで、何がある。俺が天海を見つけなきゃ、天海は今日も、あの家で過ごす。帰りたくないと言ったくせに。縋るしかないと言ったくせに。逃げる場所なんて見つからないと、俺は泣きながら叫んだのに。
声が届かないなら、己の足で行くしかない。俺が天海の家を見つけるしかない。誰も動かないなら、俺が動くしかない。そうやって、自分を立たせる言葉を頭の中で何度も繰り返す。繰り返さないと、膝が折れそうになる。
夕日が町を汚い赤で塗っていた。アスファルトが昼の熱を抱えたまま黙っていて、風がぬるい。蝉の声だけがやたらとうるさくて、俺の焦りを煽るみたいに鳴き続ける。俺は昨日の十字路へ向かった。そこに行けば、天海は右へ曲がる。いつもそうだった。右へ行った。右に行けば、どこかにある。天海の家がある。
昨日も同じことをした。昨日はただ焦って、闇雲に走った。今日は違うはずだ。今日は、ちゃんと考えて探さなきゃいけない。暴力じゃなく。理性で。そう誓った。なのに、頭が回っていない。職員室で削られた。俺の中の何かが、言葉の刃物で薄く薄く削られて、削りカスが肺に入り込んで息が苦しい。落ち着け、と自分に言い聞かせても、落ち着くための足場がない。
天海が話していたことを思い出そうとする。「お姫様だから」「超お金持ちで、超お嬢様で、超愛されてる」嘘だ。豪邸なんてあるわけがない。あの痣がある。あの身体のキズがある。じゃあ、どんな家だ。どんな場所で、あいつは毎晩、偽りの笑顔を作っている。
俺は歩道の端で立ち止まり、周りを見渡した。新しい家が多い。表札が綺麗で、郵便受けも錆びていない。庭に花が咲いて、窓の内側に生活の光がある。違う。
天海の家は、こういう普通じゃない。そう決めつけることでしか、足を前に出せない。俺はもっと奥へ行った。道が細くなる。街灯が少なくなる。古い家が増える。塀が低くなる。ブロック塀が欠けている。錆びた自転車が倒れている。こういう場所だ、と勝手に結論を作って、また曲がる。また曲がる。
――袋小路。行き止まり。引き返す。違う。違う。違う。
自分の足音がやけに大きく不快だった。腹の底が冷たい。吐き気がする。喉が渇くのに、唾が飲み込めない。天海。今どこにいる。天海の涙が、まだ俺の胸を掴んで離さない。俺は、あいつの涙に縛られている。
*
俺は人に聞いた。聞きたくなかった。俺の顔を見られたくなかった。けれど、聞かなきゃ何も始まらない。
「すみません」
声がかすれる。自分の声が自分のものじゃないみたいに薄い。
仕事帰りの女が怪訝そうに俺を見た。俺の顔はきっと酷い。泣いて、汗だらけで、目が赤い。怒っているのか、壊れているのか、他人には区別がつかないだろう。
「天海さんって、この辺に住んでる人……知りませんか」
女は首を横に振った。「知らないです」それで終わり。俺の必死さなんて、他人には関係ない。
次。犬を散歩させている老人。「天海……天海さん、知りませんか」老人は眉をひそめて「どこの天海だい」と聞き返す。俺は答えられない。どこの天海。俺も知りたい。
次。コンビニの前でしゃがんでいる男。「天海って……」男は吐き捨てるみたいに「知らねえよ」視線が刺さる。疑い。警戒。職員室と同じ目。俺はこういう目で見られる。ずっと。
でも、そんなのどうでもいい。天海を見つけなきゃいけない。俺はまた走る。住宅街を行ったり来たりする。同じ角を二回曲がる。同じ家を三回見る。表札を読む。読む。読む。喉が乾く。目が痛い。名前が文字ではなく、ただの模様に見えてくる。俺は、自分が何をしているのか分からなくなりそうになる。
天海は住所を教えなかった。俺は聞かなかった。聞けなかった。「お前んちの住所、俺に教えろよ」と冗談を言った時、天海は笑って誤魔化した。今なら土下座してでも聞く。だけど、天海はいない。
空が暗くなっていく。オレンジが潰れて、紫が濁って、黒になる。街灯が点き始める。昨日と同じだ。昨日も、こうやって暗くなった。なのに今日は、もっと怖い。昨日はまだ「明日学校で会えるかもしれない」と思っていた。今日は違う。会える保証がない。二日。二日欠席。それだけの数字が、刃物みたいに胸を削る。
俺は足を止めて膝に手をついた。息が上がる。喉が焼ける。胃の中が空っぽなのに胃酸が上がってきて、喉の奥が苦い。落ち着け、と言い聞かせる。俺は天海を守るって誓った。暴力じゃない方法で。
――じゃあ、今、何をする。
警察。児相。そんな言葉が一瞬頭をよぎる。でも、すぐに消える。俺を信じてくれるはずが無い。教師ですら、俺を信じてくれないのに。俺が行っても、きっと無駄だ。「お前がやったんじゃないのか」木村の声が耳の奥に蘇る。俺のせいにされる。俺の過去のせいにされる。天海の痛みすら、俺の罪にされる。
だから俺は、俺の足で見つける。天海の家に行って、俺の目で確かめる。それしかない。それしか、残っていない。
*
町の端。古い団地が並ぶ一角。階段の影が濃い。洗濯物が揺れている。生乾きの匂い。俺は立ち止まった。ここかもしれない。理由はない。ただ、胸騒ぎがした。
階段を上がりかけて止まる。自分の手のひらを見る。震えている。殴りたいわけじゃない。殴ったら終わる。殴ったら、天海はもっと帰れなくなる。なのに、誰かを殴りたくなる自分が、まだいる。怖い。自分が怖い。身体が震えた。天海に会いたかった。
天海の頬の痣。手の形。天海は――親に殴られている。喉が鳴る。唾が飲み込めない。暴力に走るな、と俺は自分に命令する。命令しないと、身体が勝手に昔のやり方に戻ろうとする。
俺は階段を上がった。二段。三段。踊り場。ドアが並ぶ。番号も、名前も、俺にはただの記号だ。どれだ。わからない。わからないのに、ここまで来た。天海という苗字は見つからない。壁に拳を当てる。殴らない。ただ当てる。拳が震える。熱と冷たさが同居している。
「……天海」
声が漏れる。こんなに探しても見つからない。昨日も。今日も。俺は、天海のことを何も知らない。
日が完全に落ちた。汗で濡れたシャツが冷えて、背中に張りつく。俺は団地の周りを回った。裏手。駐輪場。ゴミ捨て場。人影がない。窓の明かりだけが点々と浮かんでいて、どれも俺とは関係のない生活をしている。
息を吐く。真夏なのに寒い。手が痺れる。足が重い。けれど止まれない。止まったら終わる。終わったら、天海が消える。
俺の中で何かが折れそうになる。折れるな。折れたら暴力に戻る。暴力に戻ったら、天海を守れない。守ると誓ったのに、守れない。
もう一度。もう一度だけ。そう言い聞かせて、俺は走り出した。街灯の下を、影を踏んで。天海の家がどこかにあるはずだ。この町のどこかに。必ず。必ず――。




