40.
山本が目を見開く。周囲にいた教師たちも、こちらを見ている。
「……は?」
山本が呆れたように言った。
「天海さんの住所を、教えてください」
俺は繰り返した。山本は困惑したような顔をした。それから、周囲を見回す。そして、一人の教師が立ち上がった。
――木村だ。生活指導の木村。いつも俺を睨みつけている、あの女教師。
「名瀬くん」
木村が低い声で言った。俺の方へ歩いてくる。
「今、何て言ったの」
「天海さんの住所を教えてください、と言いました」
俺は答えた。木村の顔が歪む。
「アナタ、何を考えてるの」
木村の声には、明らかな敵意が込められていた。
「天海さんが心配なんです。二日も休んでいて……」
「心配? アナタが?」
木村が嘲笑うように言った。
「アナタみたいな不良が、天海さんを心配? 笑わせるわね」
俺の胸に、怒りがこみ上げてくる。でも、抑える。今は、頭を下げなければならない。
「……俺は、本気です」
「本気? 本気で何をするつもりなの。天海さんの家に押しかけて、何をする気」
「何もしません。ただ、天海さんが無事かどうか、確認したいだけです」
「嘘をつかないで」
木村が一歩、俺に近づいた。
「アナタが天海さんに何をしたの。だから、天海さんは学校を休んでいるんじゃないの」
「……何も、してません」
「信用できないわ。アナタは少年院に入ってても、おかしくないのよ。不良同士で喧嘩して、警察の厄介になったこともある。そんな人間が、女子生徒の住所を教えてくれだなんて。ふざけないで」
木村の言葉が、俺の心を抉る。少年院。暴力事件。その通りだ。俺は、そういう人間だった。でも、今は違う。俺は変わろうとしている。天海のために。
「……お願いします」
俺は頭を下げた。
「天海さんの住所を、教えてください」
職員室が、静まり返った。俺が頭を下げている。その光景が、どれだけ異様か。俺にもわかる。でも、構わない。天海のためなら、何だってする。
「……名瀬くん」
山本が困惑したように言った。
「そんな……生徒の個人情報は、簡単には教えられないよ」
「お願いします」
俺は繰り返した。
「俺は、天海さんが心配なんです。二日も休んで……何かあったんじゃないかって」
「二日休んだくらいで、何を大げさに」
木村が冷たく言った。
「ただのクラスメイトでしょう。それとも、アナタ、天海さんに何か企んでるんじゃないの」
「企んでなんか……」
「アナタみたいな不良が、真面目な女子生徒に近づかないで。アナタがいるから、天海さんは学校に来られないんじゃないの」
木村の言葉が、俺の心を突き刺す。俺が、天海を傷つけた。俺が、天海を学校に来られなくした。そう言われているのだ。違う。違う。俺は、天海を守りたいだけなんだ。でも、その言葉は、喉まで出かかって、出てこなかった。
「お願いします」
俺はもう一度、頭を下げた。もっと深く。
「天海さんの住所を、教えてください。お願いします」
「駄目よ」
木村がきっぱりと言った。
「アナタみたいな人間に、女子生徒の住所を教えるわけにはいかないわ。そもそも、アナタが天海さんに何かしたんじゃないの。天海さんが休んでいるのは、アナタのせいじゃないの」
「違います」
「じゃあ、なんで天海さんは休んでいるの」
「それは……」
「答えられないのね。やましいことがあるからでしょう」
木村の声が、職員室に響く。周囲の教師たちが、俺を見ている。その視線が、俺を責めている。お前が悪い。お前のせいだ。お前みたいな不良が、天海を傷つけた。そう言われている気がした。
「俺は……」
俺は必死に言葉を探した。
「俺は、天海さんを守りたいんです。天海さんに、何かあったんじゃないかって、心配なんです」
「守る? アナタが? 笑わせないで」
木村が鼻で笑った。
「アナタみたいな暴力野郎が、誰かを守るだなんて。アナタがやることは、暴力だけでしょう。殴って、蹴って、壊すだけ。それ以外、何ができるの」
木村の言葉が、俺の心を抉る。その通りだ。俺は、暴力しか知らなかった。暴力でしか、物事を解決できなかった。でも、今は違う。俺は、変わろうとしている。
その瞬間、それまで黙っていた山本が口を開いた。
「名瀬くん……」
山本の声が、俺の背中に降りかかる。振り返ると、山本が立ち上がっていた。いつもの怯えた表情ではなく、どこか強気な、見下すような表情。木村が隣にいるからか、山本の態度が変わっていた。
「君はね、いつもクラスで問題を起こしてばかりだ。授業中も真面目に聞かない。他の生徒を威圧する。僕は、君のせいでどれだけ苦労してると思ってるんだ」
山本の声には、今まで聞いたことのない感情が込められていた。抑えていた不満。溜め込んでいた鬱憤。それが、木村の前で一気に噴き出している。
「天海さんが休んでいるのも、君のせいかもしれないね。君が彼女に何かしたんじゃないのか。いつも屋上で二人きりで何をしてたんだ」
山本の言葉が、俺を責める。木村の威を借りて、普段は言えないことを吐き出している。
「僕は担任として、天海さんの安全を守る義務がある。だから、君みたいな生徒に、彼女の住所を教えるわけにはいかない」
山本の声は震えていた。でも、それは恐怖ではなく、興奮だった。日頃の鬱憤を晴らしているような、そんな声だった。
「僕だって、怖かったんだ。君が暴れたらどうしようって。でも、もう我慢する必要はない。木村先生もいる。君の好きにはさせない」
山本が一歩、俺に近づいた。木村が隣にいることで、勇気を得ているのだろう。普段の山本とは、まるで別人だった。
「天海さんに近づかないで。これ以上、クラスをかき乱さないで。君は……君は、いない方がいいんだ」
山本の最後の言葉が、俺の胸に突き刺さった。いない方がいい。担任の口から、そんな言葉が出るなんて。俺は、何も言えなかった。ただ、立ち尽くす。
「……お願いします」
俺は、もう一度頭を下げた。
「お願いします。天海さんの住所を、教えてください」
「帰りなさい」
木村が冷たく言った。
「アナタみたいな人間に、教えることは何もないわ。さっさと帰りなさい。そして、二度と天海さんに近づかないで」
「先生……」
「帰りなさいと言ってるの」
木村が甲高い声で怒鳴った。職員室中に、その声が響いた。俺は、立ち尽くした。頭を下げても、駄目だった。お願いしても、聞いてもらえなかった。俺は、信用されていない。俺は、人間扱いされていない。
どうすればいい。このまま帰ったら、天海に会えない。天海を守れない。俺は、どうすれば――。
そのとき、視界が滲んだ。涙だ。俺の目から、涙が溢れ出した。今まで、こんなに泣いたことなんてなかった。どんなに殴られても。どんなに辛くても。でも、今は違う。
天海のことを思うと、涙が止まらない。天海の身体にあった、あの無数のキズ。天海の震える声。天海の悲しそうな目。そして、天海が今、どこにいるのかもわからない。俺は天海を助けたいだけだ。
俺は、声を振り絞った。
「……天海は」
俺の声が震えていた。
「天海は、親から虐待を受けてるんです」
職員室が、静まり返った。木村が、山本が、周囲の教師たちが、俺を見ている。
「……何ですって」
木村が低い声で言った。
「天海は、親に殴られてるんです。身体中にキズがあるんです。痣だらけなんです」
俺は必死に訴えた。涙が頬を伝った。でも、構わない。今は、天海を助けることだけを考えなければならない。
「だから、お願いします。天海を、助けてあげてください。天海の家に、行ってあげてください」
俺の声が、職員室に響いた。周囲の教師たちが、ざわめいている。虐待。その言葉が、職員室に広がっていく。
「……アナタ、何を言ってるの」
木村が怪訝そうに言った。
「天海さんが虐待を受けてるですって。そんなこと、聞いたことないわ」
「本当なんです。俺は見たんです。天海の身体のキズを」
「見た? アナタが?」
木村の声が、鋭くなる。
「いつ、どこで見たの。まさか、アナタが天海さんの服を……」
「違います」
俺は必死に首を振った。
「天海が、教室で水をかけられたときです。シャツが濡れて、身体のキズが見えたんです。腕にも、脚にも、痣があったんです」
俺は息を継いだ。
「天海は、親に殴られてるんです。家で、暴力を受けてるんです。だから、助けてあげてください。お願いします」
俺の声は、もう泣き声になっていた。涙が止まらない。声が震える。でも、伝えなければならない。天海のために。
「先生方なら、天海を助けられるはずです。だから、お願いします。天海の家に行って、確認してあげてください。天海を、助けてあげてください」
俺は、もう一度頭を下げた。深く、深く。職員室が、静まり返っていた。誰も、何も言わない。俺の言葉が、どう受け取られたのか。信じてもらえたのか。信じてもらえなかったのか。俺にはわからなかった。
ただ、頭を下げたまま、待っていた。
そして――。
「冗談でもそんなことを言わないで」
木村の声が、冷たく響いた。俺は顔を上げた。木村が、怒りの表情で俺を見下ろしていた。
「天海さんのお父さんは、男手一つで頑張って子育てをしているのよ。天海さんが赤ちゃんの頃に奥様を亡くされて、それでも一人で天海さんを育ててきたの。そんな立派な方を、虐待だなんて……」
木村の声が、俺を責める。
「そんな嘘をついて、何が目的なの。天海さんの家に行くための口実? それとも、アナタが天海さんに何かして、それを親のせいにしようとしてるの」
「違います」
俺は必死に言った。
「俺は、本当に天海の身体にキズがあるのを見たんです。痣が――」
「見間違いでしょう」
山本が、遮るように言った。山本も立ち上がって、俺の方へ近づいてくる。
「僕は担任として、天海さんのお父さんと何度も面談してるんだ。仲の良い親子にしか見えなかった。天海さんも、お父さんのことをとっても慕ってるし、いつも楽しそうに話してた」
山本の声は、強い口調だった。
「暴力を受けてるなんて、一度も聞いたことがない。もし本当にそうなら、天海さんが僕に相談してくるはずだ。でも、そんなことは一度もなかった」
山本が一歩、俺に近づく。
「君が言ってることは、全部デタラメだ。天海さんのお父さんを侮辱してる。こんな嘘をついて、君は何がしたいんだ」
「嘘じゃありません」
俺は声を上げた。涙が止まらない。
「本当なんです。天海は、苦しんでるんです。助けを求めてるんです」
「アナタが苦しめてるんでしょう」
木村が冷たく言った。
「天海さんは、アナタみたいな不良に絡まれて、学校に来られなくなってるの。それを親のせいにするなんて、最低よ」
木村の声が、さらに厳しくなる。
「天海さんのお父さんは、本当に頑張ってる方なのよ。仕事をしながら、一人で娘を育てて。そんな方に対して、虐待だなんて……よくもそんな酷いことが言えるわね」
「でも――」
「もういいわ」
木村が手を振った。
「アナタの嘘には、もう付き合ってられないわ。これ以上デタラメを言うなら、こっちにも考えがあるわよ」
木村が俺を睨みつける。
「アナタが天海さんに何をしたのか、きちんと調べさせてもらうわ。もしかしたら、警察に相談する必要があるかもしれない」
警察。その言葉が、俺の胸を突き刺した。
「君は、天海さんに近づいちゃいけない」
山本も続けた。
「もし今後、天海さんに接触したら、それこそ警察に通報する。ストーカー行為として、きちんと対処してもらう」
山本の声は震えていたが、それでも強い口調だった。
「君みたいな生徒が、真面目な女子生徒を苦しめることは、絶対に許さない。わかったか」
俺は、何も言えなかった。信じてもらえなかった。天海の苦しみを、誰も信じてくれなかった。俺の言葉は、全部嘘だと思われている。それどころか、俺が天海を苦しめていると思われている。
「帰りなさい」
木村が最後通告のように言った。
「もう二度と、こんなデタラメを言わないで。天海さんにも、天海さんのお父さんにも、二度と近づかないで」
「違う……」
俺は、震える声で言った。涙が止まらない。声がかすれる。それでも、俺は言葉を絞り出した。
「違う……逃げる場所なんて見つからないから、助けてくれる人なんていないから、親に縋るしかないんだ」
俺は泣きながら言う。職員室の教師たちが、俺を見ている。冷たい視線。軽蔑の視線。でも、構わない。伝えなければならない。天海のために。
「子は親を選べない。殴られても罵倒されても、親は親なんだ。自分が悪いんじゃないかって、自分を責める。目の前には親しかいないから。見捨てられたくないから、帰る場所を失いたくないから――天海は親を庇ってるんだ」
俺の声が、職員室に響いた。涙で、視界が滲んでいる。
「先生たちに本当のことを言えないんです。言ったら、もっと酷いことになるって、怖いんです。だから、天海は黙ってるんです。笑顔を作って、お父さんのことを慕ってるふりをしてるんです」
俺は必死に訴えた。でも、木村の表情は変わらなかった。冷たいままだった。
山本が、呆れたように溜息をつく。
「名瀬くん……もし真面目で善良な生徒が同じことを言ったなら、僕だって聞く耳を持ったかもしれない」
山本の声には、諦めと軽蔑が混じっていた。
「でも、君は違う。散々悪さをして、色んな人に迷惑をかけてきた。生徒を脅して、暴力を振るって、警察沙汰になったこともある。そんな君の言葉を、誰が信じると思う?」
山本の言葉が、俺の胸に突き刺さる。
「君が今まで何をしてきたか、みんな知ってるんだ。だから、天海さんの住所は教えられない。君を信用することはできない」
山本の最後の言葉が、静かに響いた。俺は、何も言えなかった。その通りだった。俺は、今まで散々悪いことをしてきた。暴力を振るって、人を傷つけて、迷惑をかけてきた。
その過去が、今、俺を縛っている。天海を助けたいと思っても、誰も信じてくれない。俺の過去が、天海への道を閉ざしている。
「もういいわ」
木村が、疲れたように言った。
「アナタの妄想には、付き合ってられない。もう帰りなさい」
「先生……」
「帰りなさい」
木村が、最終通告のように言った。
山本も、俺から視線を逸らした。もう、何も言わなかった。他の教師たちも、俺を見ている。でも、誰も何も言わない。誰も、信じてくれない。俺は立ち尽くした。涙が止まらない。
どうすればいい。誰も信じてくれない。俺には、もう何もできないのか。天海を、守ることもできないのか。
天海を、助けたいのに。




