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38.


 翌日。昨夜のことが頭から離れなかった。河川敷での約束。天海の涙。夏休みになったら二人で町を出る。もう二度と戻ってこない。あの時間は、確かにあった。


 通学路を歩く。いつもと変わらない景色。変わらない蝉の声。変わらない夏の日差し。でも、俺の中で何かが変わっていた。暴力ではない方法で天海を守る。そう誓った。そして昨夜、天海と約束した。二人で、この町を出ると。


 校門をくぐる。昇降口で上履きに履き替える。階段を上がろうとしたとき、声をかけられた。


「名瀬くん」

 振り返ると、担任の山本が立っていた。おどおどとした表情で、俺の顔を見ている。額に汗が滲んでいた。


「あの……ちょっと、いいかな」

 またか、と俺は少しうんざりした。一昨日、木村に声をかけられた瞬間がフラッシュバックする。山本の声は小さく、周囲を気にするように視線を泳がせていた。昨日のことだと、すぐに察する。教室での水かけ事件。天海が白石たちに水をかけられた。


「……何の用ですか」

 俺はできるだけ平静を装って答えた。山本は俺の顔を見て、少し怯んだように見えた。それから、小さく咳払いをする。


「昨日のこと……少し話を聞かせてもらいたくて」

 やはりそうか。俺は軽く頷いた。山本は安堵したように息を吐くと、廊下の奥を指差した。


「こっちへ来てくれるかな」

 山本に案内されるまま、俺は廊下を歩いた。生徒たちとすれ違う。朝のHRまでまだ時間がある。校舎内には、登校してきた生徒たちの話し声が響いていた。


 二階の奥。使われていない教室の前で、山本は立ち止まった。ドアを開ける。中には机と椅子がいくつか並んでいるだけで、誰もいないように見えた。でも、窓際に一人、女子生徒が座っていた。


 ――白石だ。

 金髪のツインテール。派手なメイク。だが、いつもの挑発的な雰囲気はなかった。白石は椅子に座ったまま、うつむいていた。俺が入ってきたことに気づいたようだが、顔を上げようとしない。


「名瀬くん、座って」

 山本が白石から少し離れた位置の椅子を指差す。俺はその椅子に座った。山本は教卓の前に立ち、俺と白石を交互に見た。


「えっと……昨日のこと、二人から話を聞きたくて」

 山本が口を開く。その声は相変わらず頼りなく、自信がなさそうだった。俺は黙って山本を見つめた。白石は顔を伏せたまま、何も言わない。


「昨日、教室で……天海さんが、水をかけられたと聞いた」

 山本の言葉に、白石の肩が僅かに震えた。でも、顔は上げない。


「名瀬くんは、その場にいたんだよね」

「……まあ。かけられた瞬間は見てませんけど」

 俺は短く答えた。山本が小さく頷く。


「何があったのか……教えてくれるかな」

 俺は昨日のことを思い出す。教室。全身ずぶ濡れになった天海。白石が天海の髪を掴んだ。天海の頬にあった痣が、クラス全員に晒された。震える天海。


 俺は淡々と、見たことを話した。感情を込めずに。ただ事実だけを。山本は真剣な顔で俺の話を聞いていた。時々頷きながら。白石は、ずっとうつむいたままだった。


「……そうか」

 俺の話が終わると、山本は深くため息をついた。それから、白石の方を向く。

「白石さん」

 山本が声をかける。白石が僅かに顔を上げた。その目は赤く腫れていた。泣いていたのか。化粧も少し崩れている。いつもの白石とは、まるで別人のようだった。


「名瀬くんの話、間違ってる?」

 白石は何も言わなかった。ただ、小さく首を縦に振る。間違っていない。そう認めたのだ。

「なんで……そんなことをしたの」

 山本の声には、珍しく強い口調が混じっていた。白石は唇を噛んだ。それから、小さな声で答えた。

「……わかりません」

「わからない?」

「ムカついたから……だと思います」

 白石の声は震えていた。いつもの甘ったるい声ではなく、か細い声だった。山本は深くため息をついた。


「名瀬くん。天海さんは……今日、学校に来てる?」

 山本の質問に、俺の心臓が跳ねた。天海。今日、天海は学校に来ているのか。俺はまだ教室に行っていない。天海の姿を、まだ見ていない。


「知りません」

 俺は答えた。山本は少し困ったような顔をした。それから、ポケットから携帯電話を取り出し、画面を確認する。


「あ……」

 山本が小さく声を漏らした。その表情が、曇る。

「天海さん、今日は欠席だって」

 欠席。その言葉が、俺の胸に突き刺さった。天海が、学校を休んだ。昨日のことがあったから。それとも――。


 昨夜の天海の顔が脳裏に浮かぶ。涙を流す天海。「二人で行こう」と言った天海。あの後、天海は家に帰ったのだろうか。家に帰って、大丈夫だったのだろうか。


「そっか……」

 山本が呟く。それから、俺と白石を見た。


「じゃあ、今日はここまでにしよう。天海さんが登校してきたら……改めて話をしよう」

 山本がそう言った。白石が小さく頷く。俺は何も言わなかった。ただ、天海のことが頭から離れなかった。


「二人とも、教室に戻っていいよ」

 山本が言う。俺は立ち上がった。白石は、まだ座ったままだった。俺は教室を出た。廊下を歩く。朝のHRが始まる時間が近づいている。生徒たちの足音が、階段から聞こえてくる。


 天海が休んだ。その事実だけが、俺の頭の中でぐるぐると回っていた。



 教室に戻っても、天海の席は空いたままだった。いつも天海が座っている場所。そこに天海の姿はない。


 授業が始まる。教師の声が聞こえる。黒板に何かが書かれる。でも、俺の頭には何も入ってこなかった。天海のことばかり考えていた。


 なぜ休んだのか。昨日、あんなに元気だったのに。


 昨日の天海を思い出す。コンビニでタオルを買って。ファミレスで一緒に食事をして。ショッピングモールを歩いて。ベンチで、海の見える町の話をした。天海は笑っていた。普通の毎日を送りたいと言っていた。


 それから、線香花火を買いに行った。河川敷で、俺は天海に言った。夏休みになったら、二人で町を出ようと。天海は泣きながら頷いた。「うん、二人で行こう」と。そして、そのあと、二人で線香花火をした。


 あの時の天海は、確かに希望を持っていた。涙を流しながらも、笑っていた。前を向いていた。俺との約束を、信じてくれていた。


 それなのに。


 今日、天海は学校に来なかった。不安が胸を締めつける。天海に何かあったのか。家で何かあったのか。昨夜、天海は無事に家に帰れたのか。


 天海の右頬。あの青黒い痣。白石に髪を掴まれ、顔を上げさせられた時、クラス全員に晒された痣。あれは、どうやってできたのか。


 転んでできた痣なのか。いや、違う。絶対に。


 天海の身体にも、痣があった。腕に。肩に。太ももに。最初に屋上で見た時から、俺は気づいていた。天海の身体には、無数のキズがあると。


 あれは、何なのか。誰がつけたのか。脳裏に、幼い頃の記憶が蘇る。ゴミだらけの部屋。母親とその交際相手。暴力。折檻。痛み。恐怖。俺の身体にも、無数のキズがある。虐待の痕だ。消えないキズ。天海の身体のキズも――。


 授業が終わる。次の授業が始まる。また終わる。また始まる。天海の席は、ずっと空いたままだった。


 昼休み、俺は屋上へ向かった。いつもの場所。天海と一緒に過ごした場所。屋上には誰もいなかった。俺は地べたに座り込んだ。空を見上げる。雲一つない青空。夏の強い日差しが、容赦なく降り注ぐ。


 天海は、ここでシュークリームを食べた。俺に二つ買ってきて、一つ食べた後、もう一つを天海に渡した。天海は嬉しそうに笑った。


 天海に、会いたい。でも、天海は今日、ここにいない。


 俺は目を閉じた。蝉の声が、やかましく耳に響く。暑い。身体中から汗が噴き出す。喉が渇く。でも、動く気力がなかった。

 午後の授業も、何も覚えていない。ただ、時間が過ぎるのを待っていた。天海のことを考えながら。天海の無事を祈りながら。


 気づけば、放課後になっていた。終業のチャイムが鳴る。周囲の生徒たちが、帰り支度を始める。会話が弾む。笑い声が響く。でも、俺の耳には何も入ってこなかった。

 天海の席を見る。空いたまま。一日中、誰も座らなかった席。俺は立ち上がった。教室を出る。廊下を歩く。階段を降りる。昇降口で上履きを脱ぐ。下駄箱に入れる。外履きに履き替える。校門を出る。夕日が、西の空を赤く染めている。一日が終わろうとしていた。


 でも、俺の不安は消えなかった。天海は、大丈夫なのか。家で、何をしているのか。明日は、学校に来るのか。


 強い胸騒ぎが止まらない。俺は立ち止まった。どこへ向かえばいいのか、わからなかった。帰るべきか。帰るべきではない。探さなければ。


 天海の家。


 俺は天海の家がどこにあるのか知らない。天海と一緒に帰ったことは何度もあったが、いつも途中で別れていた。あの十字路で。天海が「こっち方向」と指差した、あの場所。


 行かなければならない。天海に会わなければならない。天海が無事なのか確認しなければならない。あの痣のこと。身体のキズのこと。俺は知らなければならない。そして、守らなければならない。暴力ではない方法で。


 俺は誓ったはずだ。暴力ではない方法で、天海を守ると。ならば今、ここで立ち止まっている場合じゃない。天海のもとへ行かなければ。どんな手を使ってでも、天海の家を探し出さなければ。


 俺は走り出した。天海と一緒に帰った道を。あの十字路を目指す。夕日が俺の影を長く伸ばす。アスファルトに映る影が、激しく揺れながらついてくる。汗が額を伝う。シャツが背中に張り付く。でも、足を止めなかった。


 通学路を抜ける。住宅街に入る。見覚えのある景色。天海と一緒に歩いた道だ。十字路に差し掛かる。ここだ。ここで、いつも天海と別れていた。


 天海は、いつも右の方向へ歩いて行った。俺は右の道へ足を踏み入れる。住宅が立ち並ぶ。どの家も似たような外観をしている。表札を見る。知らない名前ばかりだ。馬鹿だ。天海の家がどこにあるかも知らない。住所も知らない。手がかりが何もないのに、どうやって探せばいいんだ。


 でも、諦めるわけにはいかない。俺は走り続けた。一軒一軒、表札を見ながら。この辺りのどこかに、天海がいるはずだ。天海の家があるはずだ。

 道が枝分かれしている。どちらへ進めばいいのか。俺は立ち止まる。深呼吸をする。落ち着け。焦っても仕方ない。考えろ。何か手がかりはないのか。


 天海が話していたこと。天海の家のこと。何か言っていなかったか。


 ――お姫様だから。


 天海は自分のことを、お姫様だと言っていた。お金持ちで、お嬢様で、愛されていると。でも、あれは嘘だ。天海の身体にある無数のキズ。あれを見れば、わかる。天海は、俺と同じだ。ならば、天海の家は普通の家じゃないかもしれない。豪邸でもない。むしろ、逆だ。


 俺は周囲を見回す。この辺りの家は、どれも小綺麗に整っている。庭には花が植えられ、表札も新しい。郵便受けも錆びていない。こういう家じゃない。天海の家は、もっと――。


 俺は走る。住宅街の奥へ。道が狭くなっていく。家と家の間隔が詰まっていく。古い家が増えてくる。一軒、一軒、確認する。表札を見る。郵便受けを見る。窓を見る。庭を見る。でも、天海の家がどれなのか、わからない。


 道を戻る。別の道へ入る。また走る。また確認する。同じことの繰り返し。時間が経つ。夕日が沈んでいく。空が茜色から紺色に変わる。喉が渇く。全力で走り続けて足が痛い。汗が止まらない。でも、止まれない。天海を見つけなければ。天海の家を探さなければ。


 通りすがりの人に声をかける。「天海さんという人を知りませんか」。首を横に振られる。「知らない」。また次の人に聞く。また首を横に振られる。誰も知らない。誰も教えてくれない。俺は諦めない。次の道へ行く。また探す。また聞く。


 空が暗い。街灯が点灯する。オレンジ色の光が、住宅街を照らす。家々の窓に、明かりが灯り始める。夕食の支度をしているのだろう。どこかから、料理の匂いが漂ってくる。

 普通の家庭。普通の夕暮れ。普通の日常。でも、天海は、そんな日常を持っていない。天海の家は、きっと――。


 俺は走り続けた。足が棒のようになっている。靴擦れができたのか、足の指が痛い。喉はカラカラだ。でも、止まらない。住宅街を行ったり来たりする。同じ道を何度も通る。さっきすれ違った人と、また会う。訝しげな目で見られる。


 怪しまれているのだろう。でも、構わない。天海を見つけるまで、俺は探し続ける。もう完全に日が暮れた。空は真っ黒だ。星が見える。月が昇っている。家々の窓から、テレビの光が漏れている。笑い声が聞こえる。団らんの時間。


 俺は、外で立ち尽くしている。天海の家を探して。どれくらい走ったのか。もう、わからない。時間なんて、どうでもいい。ただ、天海を見つけたい。それだけだ。

 また道を曲がる。また家々を見る。また表札を確認する。でも、見つからない。天海の家が、どこにあるのか、わからない。焦りが募る。不安が膨らむ。天海は、今、どこにいるのか。何をしているのか。無事なのか。


 俺は、お前を守ると誓ったのに。なのに、お前がどこにいるのかさえ、わからない。何をやっているんだ、俺は。無力だ。何もできない。ただ、闇雲に走り回っているだけだ。


 俺は立ち止まった。住宅街の真ん中で。街灯の下で。見上げる。空には満点の星。綺麗な夜空。でも、俺の心は、真っ暗だった。


 ――天海。どこにいるんだ。俺に、教えてくれ。


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