37.
モールから少し歩いたところにコンビニがあった。自動ドアが開き、冷たい空気が流れ込んでくる。店内には数人の客がいた。レジの前には、スーツ姿の男が立っている。奥の雑誌コーナーでは、学生服を着た高校生が立ち読みをしていた。
俺と天海は、店内を見回した。どこに花火が置いてあるのか、分からなかった。天海が俺の手を引っ張る。
「あっちかな」
天海が小さく呟いて、店の奥へ向かう。俺もその後を追った。雑誌コーナーの横を抜け、文房具やおもちゃが並ぶ棚の前に立つ。天海が棚を眺めている。その背中は小さく、こんなところで花火を探している姿が、どこか不釣り合いに見えた。
「……ない」
天海が呟く。俺も棚を見た。確かに、花火らしきものは見当たらない。天海が俺を見上げる。その目には、少し不安そうな色が浮かんでいた。
「もう一軒、行ってみるか」
俺は答えた。天海が小さく頷く。
店を出る。再び、午後の日差しが俺たちを包んだ。天海が俺の隣を歩いている。その足取りは、少し重たく見えた。
「あっちにもコンビニあったよね」
天海が言った。
「ああ」
俺たちは歩き出した。大通りを歩く。車が横を通り過ぎる。歩道には、買い物帰りの主婦や、塾へ向かう子供たちがいた。誰もが目的を持って歩いている。ただ俺たちだけが、線香花火を探して彷徨っていた。
次のコンビニに着く。自動ドアが開き、また冷たい空気が流れ込んでくる。店内は、さっきの店よりも広かった。客も多い。レジには二人の店員がいて、次々と客を捌いている。
天海が俺の手を引っ張る。俺は天海を見た。天海は店の奥を指差している。そこには、季節商品のコーナーがあった。夏物の商品が並んでいる。虫除けスプレー、日焼け止め、冷却シート。そして、その奥に――。
「あった」
天海が小さく声を上げた。花火のパッケージが、棚に並んでいた。打ち上げ花火、手持ち花火、そして線香花火。天海が棚の前に立ち、パッケージを手に取る。その手は、少し震えていた。
「これ」
天海が俺にパッケージを見せる。線香花火と書かれたパッケージには、小さな花火の写真が印刷されていた。
「それでいいのか」
「うんっ」
天海が頷く。その表情は、嬉しそうだった。俺たちはレジへ向かう。店員が無表情でバーコードを読み取る。ピッという電子音が鳴る。俺は財布を出そうとしたが、天海が先に小銭入れを出していた。
「私が出す」
「別に、俺が――」
「私が出すの」
天海が強い口調で言った。俺は何も言えず、天海が会計を済ませるのを見ていた。
店員が線香花火をビニール袋に入れる。天海がそれを受け取る。ありがとうございましたという機械的な声が、背中に投げかけられた。
外に出ると、西日はさらに傾いていた。空が少しずつだが、オレンジ色に染まり始めている。天海が鞄を小脇に挟み、袋を握りしめて、俺の隣に立っている。
「買えたね、名瀬くん」
天海が嬉しそうに言った。
「ああ」
しばらく、二人とも黙って立っていた。どこへ向かうでもなく、ただその場に立っている。通り過ぎる人々が、俺たちを不思議そうに見ていく。
「なあ」
俺は口を開いた。
「どこでやるんだ、線香花火」
天海が俺を見上げる。その目には、戸惑いの色が浮かんでいた。
「……わかんない」
天海が小さく答える。
「考えてなかったのか」
「うん」
天海が、うつむく。その肩が、少し落ちた。そうだろうな、と俺は思った。天海は、線香花火をやりたいと思っただけで、どこでやるかまでは考えていなかった。
「公園とか……ダメかな」
天海が小さく提案する。
「公園」
俺は繰り返した。
「火気厳禁じゃないのか」
「あー、そっかあ」
天海がさらにうつむく。俺は考えた。どこで線香花火ができるだろうか。公園はダメだ。河川敷は……昨日、花火大会があった場所だ。今日も行けるだろうか。でも、昨日とは状況が違う。花火大会があったから、あの場所に行けた。今日は何もない。ただの河川敷だ。
「河川敷は?」
天海が顔を上げて言った。俺の考えを読んだかのようなタイミングだった。
「……行けるか?」
「昨日、行ったじゃん」
「昨日は花火大会があったからだ」
「今日もいいんじゃない?」
天海の声は、少し不安そうだった。俺も不安だった。でも、他に思いつく場所がなかった。
「まあ……行ってみるか」
俺は答えた。
「ダメだったら、他を探せばいい」
天海が嬉しそうに頷いた。その表情を見て、俺は少しだけ安心した。俺たちは歩き始めた。河川敷へ向かう。駅へと続く道を歩く。車が横を通り過ぎる。昼を過ぎて、人混みが少しずつ増え始めていた。
天海が俺の隣を歩いている。線香花火の入った袋を、大事そうに抱えている。俺のブレザーを肩にかけたまま、天海は少し緊張しているように見えた。
「名瀬くん」
天海が口を開く。
「ん」
「線香花火って、どうやってやるの?」
俺は少し驚いた。そういえば、俺も天海も、線香花火をやったことがない。
「……知らない」
俺は正直に答えた。
「だよね」
天海が小さく笑った。
「でも、難しくないでしょ」
「火をつけるだけだろ」
「そっか」
天海が袋の中のパッケージを見つめている。その目は、どこか遠くを見ているようだった。
「楽しみ」
天海が呟いた。その声は、とても小さかった。風に消えてしまいそうなくらい、小さな声だった。俺は何も言わなかった。ただ、天海の隣を歩き続ける。
駅に着く。改札を抜けて、ホームへ向かう。数人の客が電車を待っていた。学生、サラリーマン、買い物袋を持った女性。皆、無表情で線路を見つめている。俺たちもホームの端に立った。天海が線路の向こうを見ている。遠くに見える町並み。夕日に照らされた建物。
「昨日も、電車に乗ったね」
天海が小さく言った。
「ああ」
昨日。花火大会の日。隣町の河川敷へ行くために、俺たちは電車に乗った。あの時と同じように、今日も同じ場所へ向かう。でも、今日は花火大会がない。ただ、二人で線香花火をやりに行くだけだ。
遠くから電車の音が聞こえてくる。レールの軋む音。近づいてくる気配。天海が袋を握りしめた。電車が到着する。ドアが開き、数人の客が降りてくる。俺たちは車内に乗り込んだ。
車内はガラガラだった。座席には、ほとんど人がいない。俺たちは窓際の席に座った。天海が隣に座る。袋を膝の上に置いて、窓の外を見つめている。
ドアが閉まる。電車が動き出す。駅のホームが遠ざかっていく。窓の外には、夕暮れの町が流れていく。天海が窓に映る自分の顔を見つめていた。その表情は、穏やかだった。でも、どこか寂しそうにも、悲しそうにも見えた。
「名瀬くん」
天海が俺を見る。
「なんだよ」
「私ね……」
天海が言葉を探すように、少し黙った。
「今日、すごく楽しかった」
俺は何も言わなかった。楽しかった。天海はそう言った。モールを歩いて、ベンチに座って、コンビニで花火を買って。それが楽しかったと。
「……そうか」
俺は小さく答えた。天海が俺の方を向く。その目は、少し潤んでいるように見えた。
「名瀬くんは?」
「何が」
「楽しかった?」
俺は考えた。楽しかったか。そんなことを考えたことがなかった。でも、今日一日。天海と一緒にいて、退屈ではなかった。それは確かだ。
「……悪くなかった」
俺は答えた。天海が嬉しそうに笑った。その笑顔は、いつもの不敵な笑みではなく、柔らかい笑顔だった。
電車は隣町へと進んでいく。窓の外の景色が、少しずつ変わっていく。ビルが減り、住宅が増える。そして、遠くに川が見えてきた。
アナウンスが流れる。次が目的地。天海が立ち上がる準備をする。俺も立ち上がった。電車が停まる。ドアが開く。俺たちは降りた。
ホームには、昨日とは異なり、ほとんど人がいなかった。改札を抜けて、駅の外へ出る。夕日が、さらに傾いていた。
「こっちだよね」
天海が河川敷の方を指差す。
「ああ」
俺たちは歩き出した。駅から河川敷へと続く道を歩く。住宅街や商店街を抜けると、視界が開けた。河川敷が見えてくる。昨日、花火を見た場所だ。土手の向こうに、川が流れている。夕日が水面を照らし、オレンジ色に輝いていた。
「着いたね」
天海が言った。俺たちは土手を下りた。河川敷は広く、誰もいなかった。昨日は大勢の人がいたのに、今日は静かだった。ただ川の流れる音だけが、辺りに響いている。
天海が河川敷を見回している。その目は、場所を探しているようだった。
「あそこがいいかな」
天海が川岸の方を指差す。少し開けた場所があった。草が生えていて、石がいくつか転がっている。
「そうだな」
俺は答えた。俺たちはその場所へ向かった。足元の草を踏みしめる音が、静かに響く。川の音が近づいてくる。夕日が俺たちの影を長く伸ばしていた。天海が立ち止まる。俺もその隣に立った。目の前には川が流れている。対岸には、木々が並んでいた。空はオレンジ色から、徐々に紫色へと変わり始めている。
「まだ、ちょっと明るいね」
天海が呟いた。
「ああ」
俺は答えた。
「まだ待たないとね」
川の流れる音が、耳に心地よかった。風が吹いて、草が揺れる。天海の髪も、風に揺れていた。
「名瀬くん」
「なんだよ」
「ありがとう」
また、ありがとうと言われた。今日、何度目だろう。
「何に対してだよ、天海」
俺は尋ねた。天海は川を見つめたまま、答えた。
「色々だよ、名瀬くん」
天海が俺の方を向いた。その顔には、柔らかい笑みが浮かんでいた。いつもの不敵な笑みでもなく、からかうような笑みでもなく。ただ、静かで優しい笑顔だった。
目が細くなって、口角が僅かに上がっている。夕日が横から天海の顔を照らして、その表情を柔らかく浮かび上がらせていた。頬が、オレンジ色に染まっている。
「付き合ってくれて、ありがとう」
天海が言う。笑顔のまま。
「線香花火、買いに行ってくれて、ありがとう」
俺は何も言えなかった。天海の笑顔を見て、言葉が出てこなかった。
「一緒にいてくれて……ありがとう」
天海の声は、とても穏やかだった。風に乗って、俺の耳に届く。川の流れる音に混ざって、消えてしまいそうなくらい小さな声だった。でも、確かに聞こえた。
俺は天海の顔を見た。天海は笑っていた。寂しそうでも、悲しそうでもなく。ただ、心から嬉しそうに笑っていた。
その笑顔が、胸に刺さった。
「……別に」
俺は視線を逸らした。川の方を向く。
「大したことじゃない」
「名瀬くんにとっては大したことじゃなくても」
天海が言った。
「私にとっては、すごく大事なことなの」
俺は何も答えなかった。ただ、川の流れを見つめていた。水面が夕日を反射して、きらきらと光っている。天海が、また小さく笑った気配がした。声は聞こえなかったが、なんとなく分かった。
しばらく、俺たちは黙っていた。川の音だけが、静かに響いている。風が吹いて、草が揺れる。空の色が、少しずつ暗くなっていく。
俺は横目で天海を見た。天海は川を見つめていた。俺のブレザーを肩にかけたまま、袋と鞄を抱えて。その横顔は、穏やかだった。
「なあ、天海」
俺は口を開いた。
「ん」
天海が俺を見る。
「もうすぐ夏休みだな」
俺は、そう言った。
「そうだね。夏休み」
天海が小さく頷く。
一瞬、俺たちの間に沈黙が流れた。川の音。風の音。遠くで鳴く鳥の声。それだけが、辺りに響いている。天海は俺を見つめたまま、何も言わない。俺は天海の目を見た。その目は、優しかった。
「夏休みになったら……二人でこの町を出よう」
「え」
「それで、もう二度とこの町には戻ってこない。俺たちで遠い場所へ行くんだ」
――天海が固まった。俺を見つめたまま、動かない。口が僅かに開いている。瞬きもしない。ただ、呆然と俺を見つめている。
風が吹いた。天海の髪が揺れる。でも、天海は動かなかった。
「天海?」
俺は天海の名前を呼んだ。天海は何も言わなかった。ただ、俺を見つめている。その目が、僅かに揺れた。それから、天海の目が潤み始めた。
ゆっくりと。最初は、ほんの僅かだった。光を反射して、目が少し光って見える。でも、それが徐々に大きくなっていく。瞳の中に、涙が溜まっていく。天海は、うつむかなかった。ただ、俺を見つめ続ける。
そして涙が、天海の目から零れた。一粒。
頬を伝って、ゆっくりと流れ落ちる。夕日に照らされて、その涙が光っていた。それから、もう一粒。天海の目から、次々と涙が零れ始めた。声は出さない。ただ、静かに泣いていた。
俺は何も言えなかった。天海の顔を見つめていた。天海の唇が震えた。何か言おうとしているように見えた。でも、言葉は出てこない。涙だけが流れ続けている。
「――うん、二人で行こう」
天海が、ようやく声を出した。震えた声だった。でも、それだけだった。それ以上、言葉が続かない。天海の目から、さらに涙が零れる。俺は天海の肩を見た。その肩が、小さく震えている。天海は立ち尽くしていた。
天海の頬を、涙が伝う。止まらない。次から次へと、零れ落ちていく。声を出さずに、ただ静かに泣いている。俺は何も言えなかった。何を言えばいいのか、分からなかった。
天海が、ゆっくりと、うつむいた。涙が、草の上に落ちた。小さな染みができる。また一粒。また一粒。天海の涙が、地面を濡らしていく。
天海の肩が、さらに震えた。息を吸う音が聞こえる。荒い呼吸。必死に何かを堪えているような。それから、天海が小さく声を漏らした。嗚咽。
堪えきれなくなったように、天海が泣き出した。それでも、大声ではなかった。小さく、途切れ途切れに。肩を震わせながら。
「ひっ……」
天海の手が震えていた。袋と鞄を握りしめたまま、震えている。俺は天海に近づいた。何をすればいいのか分からなかった。ただ、天海の隣に立った。天海は泣いていた。涙が止まらない。頬を伝って、顎から滴り落ちる。
「ごめん……名瀬くん……」
天海が、震える声で言った。
「涙が……」
天海の声が、途切れる。また嗚咽が漏れる。
「ごめんなさい……止まらない……」
天海が袋と鞄を握りしめたまま、顔を覆おうとした。でも、手が塞がっていて、うまくできない。ただ、うつむいて、泣いている。俺は何も言わなかった。ただ、天海の隣に立っていた。
川の音が、静かに響いている。風が吹いて、草が揺れる。夕日が、俺たちを照らしている。天海の小さな嗚咽だけが、辺りに響いていた。




