36.
食事を終えて、ファミレスを出ると午後の日差しが顔を照らした。七月の日差しは容赦なく照りつける。天海は俺のブレザーを肩にかけたまま、俺の隣で立ち止まり、鞄をぎゅっと握りしめている。しばらく、俺たちは黙っていた。
「ねえ、名瀬くん」
天海が口を開く。
「せっかくショッピングモールにいるんだから……少しだけ見て回らない?」
「何か見たいものがあるのか」
「ないけど」
天海が俺の衣服を軽く引っ張る。その仕草は、どこか必死に見えた。俺は天海の顔を見る。いつもの笑顔だったが、その目は笑っていなかった。
「……わかった」
天海の表情が僅かに緩む。それを見て、俺も深く考えるのをやめた。結局、俺たちはショッピングモール内を歩いていた。平日の午後、人はまばらだ。主婦、年配の客、小さな子供を連れた家族。誰もが目的を持って歩いているように見える。ただ俺たちだけが、何の目的もなく、ただ足を動かしていた。
「ねえ、あれ見て」
天海が雑貨店のショーウィンドウを指差す。色とりどりのマグカップが並んでいた。
「可愛いね」
「別に」
「名瀬くん、可愛いものに興味ないんだ」
「逆に興味があったら怖いだろ」
「それもそっか。じゃあ、どんなものに興味あるの」
「……さあな」
俺は自分でも分からなかった。興味のあるもの。欲しいもの。そんなものを考えたこともなかった。
天海は俺の返事を待たず、次の店へと歩き出す。本屋、服屋、ゲームセンター。どの店も、俺たちは中に入ろうとはしなかった。ただウィンドウ越しに眺めて、何か適当なことを言い合って、次へ進む。時計を見ない。天海も見ていない。
「名瀬くん、疲れた?」
「全然」
「じゃあ、もう少し歩こう」
「……ああ」
エスカレーターで上の階へ上がる。天海が一段下に立ち、俺を見上げる。二階、三階。上がるたびに人は減っていく。店内BGMだけが響いている。天海の足が僅かに遅くなる。俺も歩調を落とした。
「名瀬くん、あそこ」
天海が指差した先には、ベンチがあった。誰も座っていない。俺たちはそこへ向かった。並んで座る。目の前には吹き抜けがあり、下の階が見える。人々が小さく見えた。
「ねえ、名瀬くん」
「なんだよ」
「私たち、何してるんだろうね」
「さあな」
「目的もなく、ただ歩いて」
「お前が歩きたいって言ったんだろ」
「そうだけど……名瀬くんも、付き合ってくれた」
天海が俺の顔を見る。俺は視線を逸らした。
「時間を潰してるだけだよ」
「……そっか」
天海が小さく笑った。その笑い声は、どこか寂しげに聞こえた。
「名瀬くん」
「ん」
「私ね――」
天海が何か言いかけたとき、館内アナウンスが流れた。何かのセール案内だ。天海の言葉が途切れる。しばらく、二人とも黙っていた。吹き抜けの下から、人々の話し声や足音が微かに聞こえてくる。エアコンの送風音。遠くで鳴る子供の声。
「なあ、天海」
俺は吹き抜けを見下ろしたまま、口を開いた。
「なに」
「お前、この町のこと……どう思う?」
天海は少し驚いたように俺を見た。それから、吹き抜けの下を見つめる。
「この町?」
「ああ」
天海は少し考え込むように、下の階を眺めていた。
「……どうって言われても」
天海が小さく呟く。
「普通の町じゃない?」
「普通か」
俺は繰り返した。
「名瀬くんは、どう思ってるの」
天海が俺の顔を見る。俺は視線を逸らさず、下の階を見つめ続けた。
「……つまらない町だと思ってた」
「思ってた?」
「ああ」
俺は言葉を続ける。
「何もない。特別なものは何もない。ただ生きて、ただ死んでいくだけの場所」
天海は黙って俺の言葉を聞いていた。
「でも、最近は少し……」
俺は言葉を止めた。何を言おうとしていたのか、自分でもよく分からなかった。
「少し?」
天海が促す。俺は少しためらいながら、続けた。
「……少しだけ、悪くないと思うことがある」
天海は何も言わなかった。ただ、俺の顔を見ていた。その表情は、いつもの笑顔ではなかった。真剣な顔で、じっと俺を見つめている。
「天海は」
俺は天海の方を向いた。
「この町、好きか?」
天海の目が、僅かに揺れた。
「……わかんない」
天海が小さく答える。
「好きかどうかなんて、考えたこともなかった」
「そうか」
また沈黙が訪れた。吹き抜けの下から、変わらず人々の声が聞こえてくる。
「私、海の見える町に行ってみたいな」
天海が唐突に言った。俺は天海の方を向く。
「海?」
「うん」
天海が頷く。
「海が見える町。朝起きたら、窓から海が見えて……波の音が聞こえてくるような」
天海の声は、いつもと違っていた。軽やかな調子ではなく、静かで、どこか遠くを見つめるような声だった。
「海なんて、見たことないけどね」
天海が小さく笑う。
「テレビや写真でしか知らない。でも、いつか……そういう場所で生きてみたいな」
「生きる?」
「うん、生きる」
天海が繰り返す。
「ここじゃない、どこか。海が見えて、潮の匂いがして……朝は波の音で目が覚めるような場所」
天海の目が、遠くを見ている。吹き抜けの下を見ているのに、その視線はもっと遠くを見つめていた。
「そこで、普通に生きてみたい」
「普通に?」
「うん」
天海が俺を見る。
「普通の毎日。特別じゃない、誰もが当たり前に送ってるような毎日」
天海の言葉は、一つ一つ丁寧に紡がれていた。俺は何も言えなかった。天海の言う「普通」が、俺にとっても遠い存在だと気づいたから。
「海の見える町で、そういう生活がしたいの」
天海が小さく笑った。その笑顔は、いつもの不敵な笑みではなかった。寂しそうで、それでいて、どこか希望を抱いているような笑顔だった。
「変かな」
「……別に」
俺は答えた。
「変じゃない」
天海が俺を見る。その目は、少し潤んでいるように見えた。
「名瀬くんは、どこか行きたい場所ある?」
「行きたい場所か……」
俺は考えた。行きたい場所。そんなものを考えたことがあっただろうか。
「どこでもいい気がする」
「どこでも?」
「ああ」
俺は吹き抜けの下を見つめた。
「どこにいても、結局同じような気がする」
天海は何も言わなかった。ただ、俺の横顔を見ていた。
「でも……」
俺は言葉を続けた。
「海の見える町、悪くないかもな」
「え」
天海が驚いたように俺を見る。
「お前が行きたいって言うなら……悪くない場所なんだろ」
俺は天海を見ずに、そう言った。天海が何か言おうとして、口を開く。でも、言葉は出てこなかった。
「いつか、行けるといいな」
俺は小さく呟いた。
「海の見える町」
天海が、俺の袖を軽く掴んだ。俺は天海の方を向く。天海は、うつむいていた。その肩が、小さく震えている。
「天海?」
「……ううん、何でもない」
天海が顔を上げる。目が少し赤い。でも、笑っていた。
「ありがとう、名瀬くん」
何に対してのありがとうなのか、俺には分からなかった。でも、聞き返さなかった。しばらく、また沈黙が続いた。吹き抜けの下から聞こえる音だけが、俺たちを包んでいた。
「ねえ、名瀬くん」
天海が不意に口を開く。その声は、さっきまでとは違って、少し弾んでいた。
「花火、見たい」
「は?」
俺は天海を見た。天海は吹き抜けを見下ろしたまま、ぽつりと言った。唐突すぎて、俺は言葉に詰まる。
「花火が見たいの」
天海が繰り返す。その横顔は、どこか遠くを見つめているようだった。
「昨日、見ただろ」
俺は答えた。昨日の夜、俺たちは花火大会を見た。河川敷で、天海と並んで空を見上げた。夜空に咲く大輪の花火を、二人で眺めた。
「打ち上げ花火じゃない」
天海が首を横に振る。その動きは、ゆっくりとしていた。
「線香花火」
俺は少し戸惑った。線香花火。そんなものを、どこでやるつもりなんだ。それに、なぜ今になって。
「線香花火?」
「うん」
天海が頷く。その表情は、穏やかだった。
「あの、小さくて、すぐ消えちゃう花火」
天海の声は、どこか懐かしそうだった。まるで、遠い記憶を手繰り寄せているような口調だ。でも天海は、線香花火をやったことがないと言った。
「やったことないけど、やってみたい」
天海が小さく呟く。
「やったことないのか」
「うん」
天海の視線が、ゆっくりと俺に向けられる。
「名瀬くんは?」
天海が尋ねる。その目は、真っ直ぐ俺を見つめていた。
「俺は……」
俺は考えた。線香花火。やったことがあるだろうか。記憶を手繰り寄せようとするが、何も浮かんでこない。
「あるわけないだろ」
俺は正直に答えた。
「じゃあ、一緒にやろうよ」
天海が言った。その声は、少し明るくなっていた。
「今から?」
「うん」
天海が頷く。俺は首を傾げた。俺はモール内の時計を見た。まだ午後だ。時計の針は二時を少し回ったところを指している。線香花火をやるには、あまりにも早すぎる。
「暗くなってからじゃないと、見えないぞ」
俺は言った。当たり前のことだ。
「そっか」
天海が少し残念そうに頷く。その肩が、僅かに落ちた。
「じゃあ、日が暮れたら」
天海の声は、小さかった。
「……ああ」
俺は答えた。天海の横顔を見る。その表情は、さっきまでの寂しげな顔ではなかった。天海が嬉しそうに笑った。その笑顔は、さっきまでの寂しげな表情とは違っていた。口元が緩み、目が細くなる。本当に嬉しそうだった。
俺はその笑顔を見て、少し考えた。線香花火。夜になったらやる。それなら、線香花火が必要だ。
「よし、天海」
俺は口を開いた。
「ん?」
天海が俺を見る。
「線香花火、買いに行くか」
天海の目が、大きく見開かれた。驚いたような顔で、俺を見つめている。
「今から? ほんとに?」
「ああ」
俺は頷いた。
「日が暮れたら、やるんだろ。なら、今のうちに買っとかないと」
天海は何も言わなかった。ただ、俺を見つめている。その目が、少し潤んでいるように見えた。
「どこで売ってるんだ、線香花火なんて」
俺は続けた。
「このモールにあるのか?」
天海が小さく首を横に振る。
「多分、ないと思う」
「じゃあ、どこだ」
「……コンビニとか、ホームセンターとか」
天海が小さく答える。
「コンビニか」
俺は立ち上がった。天海も続いて立ち上がる。
「じゃあ、行こう」
天海が俺の手を掴んだ。俺は天海を見る。
「名瀬くん」
「なんだよ」
「……ありがとう」
また、ありがとうと言われた。何に対してのありがとうなのか、俺には分からない。でも、天海の声は震えていた。
「別に」
俺は答えた。
「線香花火を買うだけだろ」
天海が顔を上げる。目が少し赤い。でも、笑っていた。いつもの不敵な笑みではなく、柔らかい笑顔だった。
「うん、行こう」
俺たちはベンチを後にして、エスカレーターへ向かった。下の階へ降りる。出口へ向かう。モールを出ると、西日が俺たちを照らした。




