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35.


 コンビニが見えた。いつもの、通学路沿いの店。自動ドアが開く。冷たい風が、顔に当たる。店内に入ると、店員が俺たちを見た。一瞬、視線が天海の濡れたシャツに向けられ、それから逸らされた。俺は気にせず、日用品コーナーへ向かった。


 タオルを探す。青いタオル。白いタオル。ピンクのタオル。何でもいい。とにかく、天海の身体を拭くもの。手に取ったのは、白いフェイスタオルだった。レジに持っていく。店員が無言で会計する。俺は制服のポケットから財布を出して、小銭を払った。


 天海は入り口近くで待っていた。俺のブレザーを肩にかけたまま、じっと立っている。その姿が、妙に小さく見えた。俺は袋を開けながら、天海に近づく。


「ほら」

 袋からタオルを取り出して、天海に差し出す。天海が顔を上げた。


「これで、拭け」

 天海は少しためらってから、タオルを受け取った。小さな手が、白い布を握る。


「ありがとう」

 そう言って、天海は髪を拭き始めた。濡れた髪から滴る水を、タオルで吸い取っていく。でも、手の動きは鈍い。力が入っていない。疲れているんだろう。タオルを包んでいたビニール袋をコンビニ内のゴミ箱へ捨ててから、そのまま店を出る。天海も後に続いた。


 店の外に出ると、また強い日差しが降り注ぐ。蝉の声が、耳に痛い。


「ねえ、名瀬くん」

 天海が言った。俺を見上げる。


「今日、どうしよう」

 今日、どうしよう。その言葉が、俺の頭の中で反響する。今日、どうしよう。俺は立ち止まった。天海も隣で立ち止まる。


 家に帰るか。天海を家まで送って、それで終わりにするか。でも、それでいいのか。天海は一人で大丈夫なのか。あの濡れたシャツ。震える肩。青白い顔。頬の痣。……家にいて、大丈夫なのか。


 俺は天海を見た。天海も俺を見ている。その目に、何かを期待するような色は見えない。ただ、静かに俺を見ている。俺が決めればいい。そう言われているような気がした。

 俺の頭の中で、ひっかかっているものがある。天海の家のこと。天海はさっき、家に帰りたくないと言った。理由があるんだろう。


 ――天海のキズ。


 教室で水をかけられたとき、濡れたシャツから透けて見えた体の痣。腕の痣。肩の痣。屋上で見た太ももの痣。そして、白石が髪を掴んで顔を上げさせたとき、教室中に晒された右頬の痣。


 あれは、何なのか。

 転んでできた痣なのか、白石に付けられた痣なのか。それとも――。


 聞きたい。天海に聞きたい。天海の家のこと。天海の家族のこと。全身のキズのこと。でも、言葉が出てこない。俺は口を開きかける。でも、何も言えない。言葉が、喉の奥で止まる。「なあ、天海」と言おうとして、できない。「お前の家のこと」と続けようとして、できない。


 言えない。言うべきじゃないのかもしれない。天海が話したくないことを、無理に聞き出すのは、違う気がする。俺は前を向いた。駅の方向を。蝉の声が耳に響く。日差しが、頭の上から容赦なく降り注ぐ。


「なあ、天海」

 俺は言った。


「……昼、何か食べたいものあるか?」

「ん、お昼かあ」

 少しずつだが、天海の声色がいつも通りになってきた気がする。不敵に、いたずらっぽく俺をからかってくる天海――あの時は鬱陶しいと思っていたのに、今は少し恋しかった。元気のない天海を見ると、心が痛む。


「私、そういえば――」

 天海が言葉を止める。少し考えるように、俺を見上げた。


「名瀬くんの好きな食べ物って、何?」

 俺は一瞬、戸惑った。予想外の質問だった。


「好きな食べ物?」

「うん」

 天海が頷く。少しだけ、口元が緩んでいる。笑顔とまでは言えないが、さっきまでの硬い表情ではない。


「名瀬くんの好きなもの、知らないなって思って」

「別に、特にないけど」

 俺は答えた。


「……まあ、肉とか」

「お肉?」

 天海が繰り返す。少し、声が明るくなった気がする。


「どんなお肉?」

「どんなって……」

 俺は少し考えた。


「焼肉とか、ハンバーグとか。まあ、普通だろ」

「そっか」

 天海が小さく笑った。本当に小さな笑みだった。でも、確かに笑っていた。


「名瀬くんらしい」

「らしい?」

「うん」

 天海が頷く。


「なんか、そういう感じする」

 俺は天海を見た。濡れたシャツ。俺のブレザーを肩にかけた姿。頬の痣。まだ青白い顔。でも、その表情は少しだけ、いつもの天海に近づいている。


「他には?」

 天海が聞く。


「他?」

「うん。お肉以外で」

 俺は少し考えた。肉以外。俺が好きなもの。考えているうちに、不意に思い出した。


 シュークリーム。屋上で、天海と一緒に食べた。天海が洋菓子屋で買ってきた。俺に二つ渡して、俺が一つ食べた後、もう一つを天海に返した。

 甘かった。甘いものなんて、あまり食べたことがなかった。家では、そんなもの与えられなかった。自分で買うこともなかった。甘いものを食べる理由がなかった。


 でも、あのシュークリームは、美味かった。

 カリカリの生地。トロトロのクリーム。甘すぎると思ったが、不思議と嫌じゃなかった。むしろ、全部食べてしまった。


 天海が笑っていた。俺がシュークリームを渡したとき、心の底から嬉しそうな顔で笑った。あの笑顔を見て、俺の胸が妙にざわついた。あれが、俺が甘いものを食べた最初だったかもしれない。少なくとも、記憶にある中では。


 甘いもの。俺は、甘いものが好きなのかもしれない。そう思った。


「ねえ、そんな真剣に考えるようなこと?」

 天海が言った。少し、笑いを含んだ声で。俺は顔を上げた。天海を見る。天海が笑っていた。さっきまでの青白い顔じゃない。さっきまでの震える表情じゃない。小さく、でも確かに笑っていた。口元が緩んで、目が細くなっている。


「名瀬くんって、変なところで真面目だよね」

 天海が続ける。笑いながら。


「好きな食べ物聞いただけなのに、そんなに考え込むんだ」

「別に」

 俺は言った。


「考えてねえよ」

「考えてたよ。すっごく真剣な顔してた」

 天海が笑う。さっきよりも大きく。


「なんか、いいね。そういうの」

「うるせえ」

 俺は顔を逸らした。天海の笑い声が、耳に響く。


 小さな笑い声。でも、確かに笑っている。いつもの天海の笑い声に、少しずつ近づいている。胸の中で、何かが緩んだ。さっきまでの緊張感が、少しだけ解けた気がする。天海が笑っている。それだけで、安心した。


「……まあ」

 俺は言った。少し、言い淀みながら。


「甘いもの、好きかもしれない」

 天海の笑い声が止まった。俺は顔を上げた。天海を見る。天海が、少し驚いたような顔で俺を見ていた。それから、また笑った。


「お前が……買ってきたシュークリーム。あれ、美味かったから」

 天海の目が、大きく開かれる。それから、崩れるように笑った。


「何で笑うんだよ」

 俺は言った。


「いやあ、だってさ」

 天海が答える。笑いを堪えきれないように。


「名瀬くんが甘いもの好きだって、言うから」

 天海の目が、嬉しそうに細くなっている。口元が緩んで、本当に嬉しそうに笑っている。


「うーん」

 天海が少し考えるように、上を見る。


「名瀬くんって、甘いもの、よく食べる?」

「別に……食わないわけじゃない」

「うん、わかった」

 天海が頷く。それから、また嬉しそうに笑った。


「じゃあ、また買ってきてあげるね」

 俺は天海を見た。天海が笑っている。さっきまでの青白い顔は、もうない。さっきまでの震える声は、もうない。目の前にいるのは、いつもの天海だ。俺をからかって、笑っている天海。


「まあ、いらないけど」

 俺は言った。そっぽを向いて。

「あはは、そっか」

 天海が言う。笑いながら。


「じゃあ、絶対買ってきてあげる」

 天海の声が、明るく弾んでいる。


「名瀬くんが好きなもの、また見つけたいから」

「っ……そんなことより……腹減った。学校出て、どんぐらい経った?」

 俺は少し照れ臭くなって、強引に話題を変えた。天海の調子が戻りつつあるのは嬉しい。でも、からかわれ続けるのは、むずがゆくて好きじゃない。


「一時間、二時間、そんぐらいかなあ」

 天海が答える。俺は天海を見た。天海のシャツ。さっきまで、びしょ濡れだったはずだ。教室で水をかけられて、全身ずぶ濡れだった。肌に張り付いて、透けて見えるほど濡れていた。でも、今は違う。


 陽射しを浴びて歩いている間に、ほとんど乾いている。夏の強い日差し。容赦なく降り注ぐ太陽の光。その熱で、天海のシャツは乾いていた。完全に乾いたわけじゃない。まだ少し湿っているかもしれない。でも、さっきまでの濡れた状態じゃない。透けて見えることもない。俺のブレザーを肩にかけているから、よく見えないが。


「あ」

 天海が声を上げた。自分のシャツを見下ろしている。それから、俺のブレザーを少し持ち上げて、自分の服を確かめている。


「気づいたら乾いてるね」

 天海が言う。少し驚いたような声で。


「さっき、あんなに濡れてたのに」

「夏だからな」

 俺は言った。


「ブレザー返した方がいい?」

「別に」

「別にって何さ」

「どっちでもいい」

「それじゃ、もう少し借りてようかな」

「俺のサイズだと、でかいだろ」

「このでかさがいいんだよね」

 天海はそう言うと目を細めて、いたずらっぽく笑った。


 俺は天海を見た。天海は俺のブレザーを、肩からずり落ちないように両手で優しく押さえている。まるで、大切なものを扱うように。大きすぎるブレザーが、天海の小さな体を包んでいる。袖が長くて、手首まで隠れている。肩幅も合っていない。でも、天海は嫌そうにしていない。


 むしろ、大事そうにしていた。ブレザーの襟元を、時々軽く撫でる。まるで、それが何か特別なものであるかのように。優しく、丁寧に。歩きながら、時々ブレザーの裾を直す。肩からずり落ちそうになると、すぐに手で押さえる。風が吹いて、ブレザーがめくれそうになると、慌てて押さえる。


「お前、変わってるよな」

 俺は言った。天海が顔を上げる。不思議そうな顔で、俺を見ている。


「変わってる?」

「ああ」

「まあね。お腹すいた」

「ファミレス行くか。涼しいし」

「そうだね。行こ、名瀬くん」

 俺たちは駅前の方向へ歩き出した。夏の日差しが強い。アスファルトからの熱気が、足元から立ち上ってくる。蝉の声が、ずっと響いている。天海は俺の横を歩いている。俺のブレザーを肩にかけたまま。


 駅前を抜ける。人通りは少ない。授業中だから当たり前だ。シャッターが閉まった店もある。俺たちは黙って歩いた。天海も、俺も。特に話すこともなかった。でも、変な感じじゃない。沈黙が、苦痛じゃない。


 ショッピングモールが見えてきた。前に、天海と一緒に来たモール。ハンバーガーを御馳走になったお礼がしたいと言われて、強引に連れてこられた場所だ。


「ここ、前にも来たな」

 俺は言った。

「うん」

 天海が頷く。


「覚えてる?」

「まあな」

 俺は答えた。覚えている。天海が、メニューを見ろと言ったこと。俺が一番安いパンを注文しようとしたこと。天海が、信じられないという目で俺を見たこと。今は、天海と一緒に食事をすることが、悪くないように思える。自分でも不思議だった。


「今日は、何を注文するの?」

 天海が聞く。少し、いたずらっぽく。


「またパンとか?」

「うるせえ」

 俺は言った。

「普通に注文する」

「へえ、意外」

 天海が笑う。


 モールの入り口をくぐると、エアコンの冷たい空気が顔に当たった。夏の熱気が、一気に引いて心地良い。俺たちはエスカレーターに乗り、ファミレスのある階へ向かった。


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