34.
教室を出た瞬間、静寂が広がる。廊下には誰もいない。始業寸前だから、みんな教室に入ってしまったのだろう。人の気配のない廊下を、俺たちだけが歩いていく。
天海は俺のブレザーを肩にかけたまま、ずぶ濡れのシャツで歩いている。濡れた布が肌に張り付き、一歩ごとに水が滴り落ちる。天海の足取りは少し不安定で、時々ふらつく。俺は無意識に歩調を緩めた。
ゆっくりと廊下を歩く。天海の肩が小さく震えていた。夏だというのに、全身ずぶ濡れで震えている。その姿を見て、俺の脳裏に古い記憶が蘇った。
――中学の廊下。四つん這いの俺に降り注いだバケツの水。全身がずぶ濡れになった。氷の手が背筋をなぞった。冷たさを通り越して痛かった。天海も、今、同じ思いをしているんだろう。あの教室で白石たちに囲まれて、笑い声の中で震えていたんだ。
俺も、あの時、同じように震えていた。全身ずぶ濡れになって、周りの笑い声を聞きながら一人で耐えていた。誰も助けてくれなかった。でも、天海は違う。今、俺がいる。
「名瀬くんは優しい人」
「一番私に優しくしてくれた人なの」
あの時の天海の言葉が蘇る。今度は俺が守る。一人にはさせない。天海の足取りが、さっきよりも遅くなっている。
「天海」
俺は声をかけた。天海が顔を上げる。その顔は青白い。唇の色も悪い。
「保健室、寄るか」
天海は首を横に振った。小さく、でもはっきりと。
「寄りたくない」
震える声で言った。
「早く、学校を出たい」
俺は天海の顔を見た。頬の痣が、痛々しい。濡れた髪から、まだ水が滴り落ちている。シャツも濡れたまま。俺のブレザーで隠れているとはいえ、寒いはずだ。
「着替えもしないで出るのか」
俺は言った。できるだけ穏やかに。
「その格好じゃ、風邪ひくぞ」
「大丈夫」
天海が答える。でも、その声には力がない。
「早く出たい。お願い」
天海の目を見た。不安そうな目。怯えたような目。何かから逃げたいような目。
「わかった」
俺は小さく頷いた。
「じゃあ、歩こう」
天海が小さく頷いた。また、歩き始める。
下駄箱に着いた。俺は自分の靴を取り出しながら、天海を見た。天海も靴を履き替えている。手が震えていた。靴紐を結ぶ手が、うまく動いていない。指先が冷たくなっているのだろう。
俺たちは校舎を出た。昇降口を抜け、校門へ向かう。真夏の日差しが、容赦なく降り注ぐ。濡れた天海のシャツに、太陽の光が反射している。
校門を出た瞬間、天海が小さく息を吐いた。まるで、ずっと息を止めていたみたいに。肩の力が、少しだけ抜けたように見えた。
「……出られた」
天海が小さく呟いた。安堵の声。
俺たちは通学路を歩き始めた。いつもの道。朝、俺たちが歩いてきた道。でも、今は誰もいない。授業中だから。静かな道を、俺たちだけが歩いている。
天海は俺の少し後ろを歩いていた。足音が、小さい。いつもより、遅い。時々、足を引きずるような音がする。
俺は歩みを緩めた。天海と並ぶように。天海が俺を見上げる。
「大丈夫か」
俺は訊いた。天海は何も発せずに頷く。でも、その顔は青白い。唇の色も悪い。肩にかけた俺のブレザーを、ぎゅっと握りしめている。
「濡れたままで寒くないか」
「平気。暑いからすぐ乾くよ」
「なあ、天海」
俺は言った。
「本当に保健室、寄らなくてよかったのか。着替えぐらい借りられただろ」
「嫌だった」
天海が答える。小さな声で。
「あそこにいたくなかった。学校に、いたくなかった」
俺は何も言えなかった。天海の気持ちが、痛いほど分かった。
俺も、そうだった。中学の校舎に、一秒もいたくなかった。あの視線。あの笑い声。あの空気。全部から逃げたかった。でも逃げ場はなかった。家に帰っても地獄だったから。
「わかった」
俺は言った。
「じゃあ、歩こう」
天海が小さく頷いた。また、歩き始める。
しばらく黙って歩いた。夏の日差しが強い。アスファルトから、陽炎が立ち上っている。蝉の声が、うるさいぐらいに響いている。
でも、天海は震えていた。
濡れたシャツが、身体に張り付いている。髪から滴る水が、首筋を伝って落ちている。俺のブレザーが、少しずつ濡れていく。それでも、天海はブレザーを手放さない。ぎゅっと握りしめたまま、歩き続けている。
俺は天海を見た。横目で。時々。歩きながら。天海の頬の痣が、陽の光の下ではっきりと見える。青黒く腫れ上がっている。昨夜、俺と別れた後につけられた痣。誰かに殴られた痣。
――誰が、やったんだ。
その問いが、喉元まで出かかった。でも、聞けなかった。聞いてどうする。俺が暴力で解決すれば、天海を裏切ることになる。
俺の中で、また何かが蠢き始める。黒いものが。でも、今度は抑えられた。天海の声を思い出す。「名瀬くんは優しい人」。その言葉を思い出すと、黒いものが少し引いていく。
「名瀬くん」
天海の声が聞こえた。小さな、震える声。
「ん?」
「ありがとう」
天海が言った。俺を見ないで。前を向いたまま。
「一緒に来てくれて」
俺は何も言わなかった。ただ、歩き続けた。天海の横を。少しだけ前を。
「一人だったら」
天海が続ける。声が震えている。
「きっと、耐えられなかった」
天海の足が、少しふらついた。俺は咄嗟に手を伸ばして、天海の腕を支えた。
「おい」
俺は言った。
「本当に大丈夫か」
「平気」
天海が答える。でも、平気じゃない。顔色が悪い。唇が震えている。身体全体が、小刻みに震えている。
また、歩き始める。でも、その足取りは、さっきよりも危うい。俺は天海の隣を歩きながら、ずっと天海を気にしていた。時々ふらつく足。震える肩。濡れたままのシャツ。頬の痣。全部が、俺の中に重くのしかかってくる。
こいつを、守らなきゃいけない。そう思った。暴力じゃない方法で。今までとは違う方法で。
でも――どうやって。
俺の手は、暴力しか知らない。俺の拳は、人を殴ることしかできない。人を守る方法なんて、俺は知らない。教わったこともない。それでも。天海の小さな背中を見ながら、俺は思った。




