表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
34/45

34.


 教室を出た瞬間、静寂が広がる。廊下には誰もいない。始業寸前だから、みんな教室に入ってしまったのだろう。人の気配のない廊下を、俺たちだけが歩いていく。


 天海は俺のブレザーを肩にかけたまま、ずぶ濡れのシャツで歩いている。濡れた布が肌に張り付き、一歩ごとに水が滴り落ちる。天海の足取りは少し不安定で、時々ふらつく。俺は無意識に歩調を緩めた。


 ゆっくりと廊下を歩く。天海の肩が小さく震えていた。夏だというのに、全身ずぶ濡れで震えている。その姿を見て、俺の脳裏に古い記憶が蘇った。


 ――中学の廊下。四つん這いの俺に降り注いだバケツの水。全身がずぶ濡れになった。氷の手が背筋をなぞった。冷たさを通り越して痛かった。天海も、今、同じ思いをしているんだろう。あの教室で白石たちに囲まれて、笑い声の中で震えていたんだ。


 俺も、あの時、同じように震えていた。全身ずぶ濡れになって、周りの笑い声を聞きながら一人で耐えていた。誰も助けてくれなかった。でも、天海は違う。今、俺がいる。


「名瀬くんは優しい人」

「一番私に優しくしてくれた人なの」

 あの時の天海の言葉が蘇る。今度は俺が守る。一人にはさせない。天海の足取りが、さっきよりも遅くなっている。


「天海」

 俺は声をかけた。天海が顔を上げる。その顔は青白い。唇の色も悪い。


「保健室、寄るか」

 天海は首を横に振った。小さく、でもはっきりと。


「寄りたくない」

 震える声で言った。


「早く、学校を出たい」

 俺は天海の顔を見た。頬の痣が、痛々しい。濡れた髪から、まだ水が滴り落ちている。シャツも濡れたまま。俺のブレザーで隠れているとはいえ、寒いはずだ。


「着替えもしないで出るのか」

 俺は言った。できるだけ穏やかに。


「その格好じゃ、風邪ひくぞ」

「大丈夫」

 天海が答える。でも、その声には力がない。


「早く出たい。お願い」

 天海の目を見た。不安そうな目。怯えたような目。何かから逃げたいような目。


「わかった」

 俺は小さく頷いた。


「じゃあ、歩こう」

 天海が小さく頷いた。また、歩き始める。


 下駄箱に着いた。俺は自分の靴を取り出しながら、天海を見た。天海も靴を履き替えている。手が震えていた。靴紐を結ぶ手が、うまく動いていない。指先が冷たくなっているのだろう。


 俺たちは校舎を出た。昇降口を抜け、校門へ向かう。真夏の日差しが、容赦なく降り注ぐ。濡れた天海のシャツに、太陽の光が反射している。

 校門を出た瞬間、天海が小さく息を吐いた。まるで、ずっと息を止めていたみたいに。肩の力が、少しだけ抜けたように見えた。


「……出られた」

 天海が小さく呟いた。安堵の声。


 俺たちは通学路を歩き始めた。いつもの道。朝、俺たちが歩いてきた道。でも、今は誰もいない。授業中だから。静かな道を、俺たちだけが歩いている。


 天海は俺の少し後ろを歩いていた。足音が、小さい。いつもより、遅い。時々、足を引きずるような音がする。


 俺は歩みを緩めた。天海と並ぶように。天海が俺を見上げる。


「大丈夫か」

 俺は訊いた。天海は何も発せずに頷く。でも、その顔は青白い。唇の色も悪い。肩にかけた俺のブレザーを、ぎゅっと握りしめている。


「濡れたままで寒くないか」

「平気。暑いからすぐ乾くよ」

「なあ、天海」

 俺は言った。


「本当に保健室、寄らなくてよかったのか。着替えぐらい借りられただろ」

「嫌だった」

 天海が答える。小さな声で。


「あそこにいたくなかった。学校に、いたくなかった」


 俺は何も言えなかった。天海の気持ちが、痛いほど分かった。

 俺も、そうだった。中学の校舎に、一秒もいたくなかった。あの視線。あの笑い声。あの空気。全部から逃げたかった。でも逃げ場はなかった。家に帰っても地獄だったから。


「わかった」

 俺は言った。


「じゃあ、歩こう」

 天海が小さく頷いた。また、歩き始める。


 しばらく黙って歩いた。夏の日差しが強い。アスファルトから、陽炎が立ち上っている。蝉の声が、うるさいぐらいに響いている。


 でも、天海は震えていた。


 濡れたシャツが、身体に張り付いている。髪から滴る水が、首筋を伝って落ちている。俺のブレザーが、少しずつ濡れていく。それでも、天海はブレザーを手放さない。ぎゅっと握りしめたまま、歩き続けている。


 俺は天海を見た。横目で。時々。歩きながら。天海の頬の痣が、陽の光の下ではっきりと見える。青黒く腫れ上がっている。昨夜、俺と別れた後につけられた痣。誰かに殴られた痣。


 ――誰が、やったんだ。


 その問いが、喉元まで出かかった。でも、聞けなかった。聞いてどうする。俺が暴力で解決すれば、天海を裏切ることになる。


 俺の中で、また何かが蠢き始める。黒いものが。でも、今度は抑えられた。天海の声を思い出す。「名瀬くんは優しい人」。その言葉を思い出すと、黒いものが少し引いていく。


「名瀬くん」

 天海の声が聞こえた。小さな、震える声。


「ん?」

「ありがとう」

 天海が言った。俺を見ないで。前を向いたまま。


「一緒に来てくれて」

 俺は何も言わなかった。ただ、歩き続けた。天海の横を。少しだけ前を。


「一人だったら」

 天海が続ける。声が震えている。


「きっと、耐えられなかった」

 天海の足が、少しふらついた。俺は咄嗟に手を伸ばして、天海の腕を支えた。


「おい」

 俺は言った。


「本当に大丈夫か」

「平気」

 天海が答える。でも、平気じゃない。顔色が悪い。唇が震えている。身体全体が、小刻みに震えている。


 また、歩き始める。でも、その足取りは、さっきよりも危うい。俺は天海の隣を歩きながら、ずっと天海を気にしていた。時々ふらつく足。震える肩。濡れたままのシャツ。頬の痣。全部が、俺の中に重くのしかかってくる。


 こいつを、守らなきゃいけない。そう思った。暴力じゃない方法で。今までとは違う方法で。


 でも――どうやって。


 俺の手は、暴力しか知らない。俺の拳は、人を殴ることしかできない。人を守る方法なんて、俺は知らない。教わったこともない。それでも。天海の小さな背中を見ながら、俺は思った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ