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33.


 ガラガラと、扉が開く。大きな音を立てて。教室中に響き渡る音。

 教室の空気が、一瞬で変わった。ざわめきが止まる。笑い声が止まる。全ての音が、消える。


 クラスの生徒たちが、一斉に俺を見た。天海を囲んでいる白石と取り巻きたち。周りで見ていた男子たち。窓際に立っていた生徒たち。教室にいた全員が、俺に視線を向ける。その視線の中には、驚き、戸惑い、好奇心、そして恐怖が混じっていた。


 俺は取り囲まれた天海のところまで近づき、教室の中を見渡した。誰も動かない。誰も何も言わない。ただ、静寂が広がっている。息を呑むような、張り詰めた空気。


 天海は、俺が近づいても、まだうつむいたままだった。顔を上げない。俺が来たことに気づいているのかもわからない。ただ、椅子に座ったまま震えている。濡れたシャツのまま。


 白石が、最初に口を開いた。

「あ、名瀬」

 笑顔を作りながら、わざとらしい明るい声。


「今日も遅いね。ギリギリじゃん」

 その声には、余裕があった。まるで、何も悪いことをしていないかのような。ただの日常会話をしているかのような。そんな声だった。

 俺は白石を睨んだ。白石の手には、天海のブレザーが握られている。その下では、天海がずぶ濡れのまま座っている。震えながら。痣を晒したまま。


「高校生にもなって、くだらないことすんなよ」

 俺は低い声で言った。白石の笑顔が、少し歪んだ。でも、すぐにまた笑顔を作る。周りの女子たちを見回して、それから俺を見た。


「それ、名瀬が言う?」

 挑発的な声。笑いながら。


「つーかさあ、くだらないことって、何のこと? 私たち、ただ天海さんと話してただけだよ?」

 周りの女子たちが、クスクスと笑った。白石は天海のブレザーを持ち上げて、俺に見せるように揺らす。


「これ? 天海さんが濡れちゃったから、乾かしてあげようと思って預かってるの。優しいでしょ?」

 教室の空気が、ピリピリと張り詰めていく。俺と白石の間に、目に見えない線が引かれていた。誰も口を挟まない。誰も動かない。見ているだけ。


 白石の目が、冷たくなった。笑顔は作ったままだが、目だけが笑っていない。

「それに、名瀬こそ何?」

 一歩、俺に近づく。


「天海さんに言い寄ってること、昨日注意されたんでしょ。なのに、今ここで何しに来たの?」

 白石がそれをどうして知っているのか疑問に思ったが、俺は何も答えなかった。ただ、白石を睨み続けた。その視線の奥で、何かが燃えている。コンビニの時と同じ。いや、それ以上に。


 白石は俺の目を見て、少し顔色を変えた。でも、引かなかった。逆に、もう一歩近づいてくる。

「天海さんって、可哀想だよね。名瀬みたいな暴力男に目をつけられちゃって」

 わざとらしく声を上げる。周りの女子たちが、また笑った。その言葉に、俺の中で何かが切れそうになった。拳が、自然と握られる。白石はそれを見て、さらに笑った。

 完全に挑発している。俺が手を出すのを待っている。そうなれば、きっと木村が出てくる。そうなれば、俺が悪者になる。それを白石はわかっている。


 教室の空気が、限界まで張り詰めていた。白石が、周りを見回す。それから、わざとらしく大きな声で話し始めた。

「天海さんって可哀想だと思わない?」

 笑いながら、教室の全員に聞こえるように。


「名瀬に言い寄られてさ。脅されてさ。それで、無理やり付き合わされてるんでしょ?」

 周りの女子たちが、また笑った。キャアキャアと。甲高い声で。


「ねえねえ、あの話、本当なの? リナ」

 一人の女子が、白石に話しかける。


「本当だよ」

 白石が答える。笑顔で。


「私、昨日コンビニで見たもん。天海さん、すっごく怖い顔してた。名瀬が隣にいてさ。で、名瀬が、すっごい目で睨んでたの。まるで、人を殺しそうな目で」

「えー、やば」

「怖い」

「ありえる。名瀬だもん。中学の頃から有名だし」

 女子たちの声が重なり合う。教室の中に広がっていく。白石はさらに続ける。笑いながらだ。まるで楽しんでいるかのように。


「天海さんも言ってたもんね。『怖い』って。『逃げたい』って。でも、名瀬が許さないんでしょ? だから、こんなふうになっちゃうんだよね」

 そう言って、白石は天海を指した。ずぶ濡れの天海を。痣を晒した天海を。震えている天海を。


「こんなに殴られて可哀想だよね、本当に。――それに顔のキズも」

 白石が、天海の髪の毛を掴んだ。乱暴に。無理やり。そして、天海の顔を上げさせた。


「やめろ」

 俺の声が出た。低く、掠れた声。でも、白石は止まらなかった。笑いながら、天海の顔を教室の全員に見せるように、こちらに向けた。俺に見せるように。


 天海の顔が見えた。


 昨夜、十字路で別れた時の天海の顔じゃなかった。花火を見上げていた時の天海の顔じゃなかった。公園のベンチで笑っていた時の天海の顔じゃなかった。


 ――天海の右頬に、大きな痣があった。


 青黒い痣。真新しい痣。昨日は無かった痣。腫れ上がっている。はっきりと、手の形が残っている。誰かに殴られた痣。誰かに叩かれた痣。


 天海の目は、虚ろだった。焦点が合っていない。何も見ていない。ただ、空っぽの目。涙の痕が、頬に残っている。濡れた髪から水が滴り落ちている。顔にも。首にも。


「ほら、見て」

 白石が言う。笑いながら。天海の髪を掴んだまま。俺は、動けなかった。足が、動かなかった。声も出なかった。ただ、天海を見ていた。天海の頬の痣を見ていた。昨日は無かった痣を。真新しい痣を。


 天海は、俺を見ていなかった。


 俺がそこにいるのに気づいているのかもわからない。ただ、虚ろな目で、どこか遠くを見ている。何も映していない目で。


 天海の姿を見て、俺は白石たちに殺意を抱いた。頭の中で黒々としたものが(うごめ)いている。ひしめき合い、俺の身体に命令を下している。(ひざまず)かせろ。殴れ。殺してしまえ。暴力で目の前の女たちを屈服させろ――そう叫んでいる。気づけば身体が震えていた。手のひらに爪が食い込んでいた。



 俺は悟った。俺の中の何かが爆発する。数秒後に。



「この男にやられたんでしょ? 可哀想に。こんなに殴られて」

「天海さん、私たちと一緒に生活指導の先生に言いに行こうよ」

「こんな暴力男、学校から追い出そう。ほら、職員室へ行こ」

「名瀬に――」




「違う」

 声が聞こえた。小さな、震えた声。天海の声だった。虚ろだった天海の目に、焦点が戻る。何かが、灯ったように。そして、その目が怒りに染まっている。


「違う!」

 天海が叫んだ。それまで黙っていた天海が、突然、大きな声で叫んだ。教室中に響き渡る声。震えていた声とは思えないほど、強い声。


 白石が驚いて天海を見た。周りの女子たちも、一瞬、黙り込んだ。

 天海は立ち上がった。白石の手を振り払って、立ち上がった。濡れたシャツのまま。震えながらも。


「名瀬くんは、何もしてない!」

 天海の声が、震えている。でも、強い。怒りを込めて。


「名瀬くんは、私を殴ってなんかいない! 名瀬くんは、私を脅してなんかいない!」

 教室が静まり返った。誰も、何も言わない。ただ、天海を見ている。天海は白石たちを睨んだ。


「名瀬くんは、理由もなく人を殴ったりしない! 名瀬くんは優しい人、一番私に優しくしてくれた人なの!」

 天海の声が、俺の中に響いた。震えながらも、強い声。俺を庇う声。俺を守ろうとする声。そして、不思議なことに――頭の中で蠢いていた黒々としたものが、静まっていった。


 殴れと命令していた声が、消えていく。殺してしまえと叫んでいた声が、小さくなっていく。暴力で屈服させろと騒いでいた声が、遠ざかっていく。握り締めていた拳が、ゆっくりと開いていく。爪が食い込んでいた手のひらに、じんわりとした痛みが残っている。でも、拳は開いていく。自然と。身体の震えが、止まっていく。頭の中の黒いものが、引いていく。殺意が、消えていく。


 天海の声だけが、俺の中に残っていた。

 「名瀬くんは優しい人」

 「一番私に優しくしてくれた人」

 その言葉だけが、俺の中に響いている。


 俺は、ただ立っていた。天海を見ていた。必死に俺を庇う天海を。自分のことよりも俺を守ろうとしている天海を。こいつらに手を出せば、俺を優しいと言ってくれた天海を裏切ることになる。

 そして、俺は思った。天海を、守らなきゃいけない。暴力じゃない方法で。殺意じゃない方法で。今までの俺とは、違う方法で。


 ゆっくりと音を立てずに、俺は自分のブレザーを脱いだ。そして、それを天海の肩にかけた。ずぶ濡れたシャツの上に、俺のブレザーがかかる。痣を隠すように。震える肩を包むように。


「今日は、早退しろ」

 俺は低い声で言った。できるだけ、優しい声で。

 天海が俺を見上げた。目が、大きく開かれている。何か言おうとして、でも言葉が出てこないようだった。


「その格好じゃ、いくら夏でも風邪ひくぞ」

 俺は続けた。できるだけ、穏やかに。


「保健室行って、着替えもらえ。それから先生に話して、家に帰れ」

 天海の目から、涙が溢れた。止まらない涙が。頬を伝って落ちていく。


「でも――」

 天海が、震える声で言った。


「家に、帰りたくない」

 俺は、少し考えた。それから、小さく頑いた。


「じゃあ、どこか別の場所に行け」

 俺は言った。


「図書館でも、公園でも。どこでもいい。とにかく、今はここにいるな」

「ちょっと待ってよ、名瀬」

 白石の声が聞こえた。俺は白石を見なかった。声も聞こえているけれど、耳を傾けなかった。そのまま、天海だけを見ていた。


「名瀬、無視するな――」

 白石が続けようとする。俺はそれを無視した。完全に、白石の存在自体を無視する。ただ、天海だけを見て、天海にだけ話しかけた。


「大丈夫」

 俺は天海に言った。低い声で。でも、できるだけ優しく。


「今日はもう、授業なんか出なくていい。来て一番にこんなことがあったら、集中もできないだろ」

 天海が、小さく頷いた。けれど、その目には不安が浮かんでいる。唇も、わずかに震えていた。天海は俺のブレザーを握りしめている。震える手で。まるで、それが最後の支えみたいに。不安そうな目が、俺を見上げている。

 今まで強かった天海が、不敵だった天海が、今は小さく見える。震えている。昨夜、白石に立ち向かった時の強さが、消えかけている。


 天海は何かに怯えていた。唇が震えている。目は涙で濡れている。俺のブレザーを握りしめる手。教室にいる全員の視線が、俺たちに注がれている。


 俺は小さく息を吐いた。それから、天海に言った。


「俺も一緒に早退する」

 天海の目が、大きく見開かれる。


「だから、一人じゃない。家に帰るのが嫌なら、またどこかで一緒に時間を潰そう」

 天海が笑った。小さく、でも確かに笑った。涙で濡れた顔のまま。頬に痣があるまま。ずぶ濡れのシャツのまま。それでも、天海は笑った。嬉しそうに。安心したようで、そして救われたみたいに。


 その笑顔は、弱々しかった。すぐに消えてしまいそうなほど、儚かった。でも、確かにそこにあった。俺が一緒にいると言っただけで、天海はこんなふうに笑うんだと。こんなふうに、安心するんだと。


「……ありがとう」

 天海が、小さな声で言った。震えながら。でも、笑顔のまま。俺は何も言わなかった。ただ、小さく頷いた。それから、天海の肩に手を置いた。軽く。優しく。


「行こうか」

 俺は言った。天海が、もう一度頷く。さっきよりも、しっかりと。


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