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32.


 翌朝、俺はいつもの時間に家を出た。

 空は曇り、灰色の雲が低く垂れ込めている。湿った空気が肌にまとわりつく。朝から蒸し暑い。俺はポケットに手を突っ込んで、学校へ向かって歩き出した。


 昨夜、十字路で別れた時の天海の姿が頭から離れない。


 あの背中。街灯に照らされて、ゆっくりと遠ざかっていった小さな背中。振り返らなかった天海。「じゃあ」とだけ言って、俺から離れていった天海。その姿が焼きついたように、何度も脳裏に浮かぶ。


 ――もう二度と会えない気がした。

 あの時、そう思った。その感覚が、まだ消えない。翌日になっても。


 花火大会。公園のベンチ。「家に……帰りたくない」と呟いた天海の声。「ずっと、ここにいたい」と言った小さな声。俺は何も言えなかった。何を言えばよかったのか、今もわからない。


 いつもの通学路を歩く。雲の隙間から、微光がアスファルトの上に伸びている。セミの声がどこからか聞こえる。

 歩いている他校の生徒たちとすれ違う。同じ制服を着た女子たちが笑いながら話している。イヤホンをつけた男子が前を歩いている。みんな、普段通りの朝を過ごしている。


 信号で立ち止まる。赤信号。横断歩道の向こう側に、同じ学校の生徒が何人か見える。信号が青になる。歩き出す。足音。アスファルトを踏む音。自分の呼吸。全てがやけに大きく聞こえる。

 天海は今日、学校に来るだろうか。


 木村に言った言葉が蘇る。「もう屋上には行かないし、天海には近づかない」――そう言ったのは俺だ。でも、あれは本心じゃない。ただ面倒を避けるために口にしただけだ。それなのに、あの言葉が今になって胸に突き刺さる。


 商店街を抜ける。大通りに出る。車の音。バイクの音。クラクション。朝の街が動き出している。俺は歩道を歩き続ける。ただ、黙々と学校へ向かって。

 周りには通勤する人々。自転車で走り抜けていく学生。犬を散歩させている老人。それぞれが、それぞれの朝を過ごしている。

 俺も、その一人だ。天海のことを考えながら、ただ足を動かしている。


 不意に胸が重くなった。学校に着いたら、天海に会うかもしれない。でも、会えないかもしれない。その両方の可能性が俺の中で渦巻いている。


 コンビニでの白石たち。あの時の俺の目。殺意に満ちた目。天海はあれを見た。天海の声で抑えられたが、俺の中にある暴力性を天海は確かに見た。それでも天海は何も言わなかった。ただ、いつものように笑っていた。


 やがて校門が見えてきた。


 校門を抜けて、昇降口へ向かう。下駄箱で靴を履き替える。その動作の一つ一つがやけに意識される。靴を脱ぐ音。上履きを履く音。全てが妙に大きく聞こえた。

 廊下を歩く。周りには生徒たちがいる。話し声。笑い声。走る足音。いつもと変わらない朝の学校。でも俺にとっては、何かが違っていた。


 教室の扉が見える。いつもギリギリの時間だ。予鈴が鳴る直前。でも今日は、扉の前で足が止まった。


 教室の中から、何か違う空気が漏れてくる。ざわめき。いつもとは違う、どこか慌ただしい気配。混沌とした空気。


 俺は扉の前で立ち止まり、耳を澄ませる。最初に聞こえてきたのは、女子たちの笑い声だった。


 甲高い。どこか耳障りな。キャアキャアという、はしゃいだような声。何人もの女子が、一斉に笑っている。その笑い声が重なり合って、廊下まで響いてくる。普段の朝の笑い声とは違う。もっと、何か興奮したような――悪意を含んだような――そんな笑い声。

 背筋が冷たくなる。


 誰かが大声で話している。複数の声が重なり合っている。男子の声も混じっている。何かが起きている。明らかに、何かが。


 俺はガラス越しに教室の中を覗き込んだ。生徒たちが集まっている。


 その中心に天海がいた。


 天海の周りを、女子たちが囲んでいる。白石を中心とした、あまり素行の良くない連中だ。派手な髪留めをつけた女子。スカートの丈を短くしている女子。化粧をしている女子。いつも群れて、誰かを笑いものにしているような奴ら。その女子たちが、天海を取り囲んでいる。


 天海は、椅子に座ったまま動けずにいる。顔を伏せている。肩が小さく震えている。


 そして、俺は気づいた。

 強い違和感。天海の姿に。


 天海は、ブレザーを着ていない。スクールシャツだけだ。そして――全身がずぶ濡れだった。


 シャツが、濡れて肌に張り付いている。髪も濡れている。水滴が、髪から滴り落ちている。机の上に。床に。椅子に座ったまま、天海の全身から水が滴っている。まるで、どこかで水をかけられたように。いや、水をかけられたんだ。明らかに。


 夏の朝なのに、天海は震えていた。濡れた体で、じっと座っている。動けないまま。


 白石が、天海の机に手をついて何かを言っている。笑いながら。その手には天海のブレザーが握られていた。白石が天海のブレザーを持っている。他の女子たちも笑っている。キャアキャアと。甲高い声で。天海に向かって、何かを言っている。天海は何も言い返さない。ただ、じっと座っている。うつむいたまま。ブレザーを取り上げられたまま。


 顔を伏せていて、天海の表情は見えない。


 濡れたシャツが肌に張り付いて、その下が透けていた。下着の形が、はっきりと見える。――素肌に刻まれた無数の痣も。腕に。肩に。背中に。ガラス越しでも、はっきりと見えた。青黒い痣。古い痣と、新しい痣。天海の体に、たくさん刻まれている。


 濡れたシャツが、全てを晒していた。天海が隠していたものを。見せたくなかったものを。この教室の全員に。


 頭の中が、真っ白になった。いや、違う。真っ赤だ。赤くなりすぎて、その赤は……もう黒に等しい。


 俺は教室の扉に手をかける。

 そして、強く引いた。


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