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31.


 やがて、電車は俺たちの駅に到着した。


 ドアが開く音が車内に響く。天海がゆっくりと立ち上がり、俺もそれに続いた。電車を降りると、夜なのに空気は冷えず、湿気を含んだ熱がまだそこに残っていた。ホームには誰もいなかった。蛍光灯の白い光だけが、無機質に降り注いでいる。


 改札を抜けて、駅の外へ出る。夜の街は静まり返っていた。人通りはほとんどなく、ただ街灯の光が歩道を照らしている。遠くで犬の吠え声が聞こえた。それから、また静寂が戻ってくる。


 天海は何も言わなかった。俺も何も言わなかった。ただ、並んで歩いた。足音だけが、静かな夜に響く。靴が地面を踏むたびに、小さな音が生まれては消えていく。その音が、やけに大きく聞こえた。


 天海の歩く速度は、いつもより遅い気がした。まるで、この道を歩く時間を引き延ばしたいかのように。俺も、無意識のうちに歩く速度を落としていた。


 住宅街の明かりが窓から漏れている。誰かの生活の光。誰かの家族の温もり。それが、まるで別の世界のもの。俺たちは、その光の外を歩いている。ただ、夜の闇の中を、二人で歩いている。

 天海の息遣いが聞こえる。小さくて、静かで、でもそこに確かに存在している。その音が、妙に心に引っかかった。


 やがて、十字路が見えてきた。ここで、俺たちは別れる。


 この場所は何度も来たことがある。あの時も、その時も、俺たちはここで別れた。右へ行く天海と、左へ行く俺。それぞれの道へ、それぞれの家へ。同じ場所、同じ光景。でも、今日は何かが違う気がした。


 十字路の真ん中で、俺たちは立ち止まった。


 街灯の光が天海の顔を照らしている。その横顔は、どこか儚げで、寂しそうで、でも何かを我慢しているようにも見えた。天海は俺の方を見なかった。ただ、自分が進むべき道の方を、じっと見つめている。


 俺も何も言えなかった。何を言えばいいのか、わからなかった。さっき公園で聞いた言葉が、まだ頭の中で繰り返されている。


 ――家に……帰りたくない。


 でも、帰らなければならない。帰る場所がある。それが、どんな場所であっても。


「……じゃあ」

 天海が小さく呟いた。その声は、夜の空気に溶けてしまいそうなほど小さくて、儚かった。天海は、まだ俺の方を見ていない。ただ、自分の道の先を見つめたまま。


 俺は何も言えなかった。喉まで言葉が出かかっているのに、それを口にすることができなかった。何か、一言でも言えたら。でも、その一言が見つからない。


 天海が一歩を踏み出した。右へ。天海の家がある方向へ。


 その背中が街灯の光に照らされて、ゆっくりと遠ざかっていく。小さな背中。細い肩。揺れる黒髪。全てが、まるで夢の中の光景のように見えた。


 天海は振り返らなかった。ただ、前を向いて歩いていく。その足取りは、重くて、遅くて、でも確かに前へ進んでいる。


 俺は、その場に立ち尽くしていた。天海の背中を見つめながら、ただ、立っていた。何もできなかった。声をかけることも、追いかけることも、できなかった。


 街灯の光が天海の姿を照らしている。その光の中を天海は歩いていく。一歩、また一歩。俺から離れていく。


 やがて、天海の姿が小さくなっていく。遠くなっていく。蒸し暑い夜の闇へ、溶けていくように。街灯の光が途切れて、天海の姿が見えなくなる。また次の街灯の光の中に現れて、そして、また闇に消えていく。


 その繰り返しを、俺はただ見つめていた。


 完全に見えなくなるまで、俺は立っていた。天海の姿が、夜の向こうに消えてしまうまで。それから、俺はゆっくりと左へ向きを変えた。


 自分の道へ。自分の家へ。


 足を踏み出す。一歩、また一歩。十字路が、後ろへ遠ざかっていく。さっきまで天海が立っていた場所が、遠くなっていく。


 振り返りたい衝動に駆られた。でも、振り返らなかった。振り返ったら、何かが壊れてしまう気がした。だから、俺は前を向いて歩き続けた。


 夜の道を一人で。


 靴音だけが静かな夜に響いている。さっきまでは二人分の足音だったのに、今は一人分だけ。その違いが、妙に心に突き刺さった。


 街灯の光が俺の影を長く伸ばしている。その影は、まるで俺を引き留めようとしているかのように、後ろへ後ろへと伸びていく。でも、俺は歩き続ける。前へ、前へ。


 生温く、そして重い夜風が頬を撫でていく。どこか、寂しい風だった。――もう二度と天海に会えない気がした。


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