26.
――最初の一発から、次々と花火が打ち上がった。
赤、青、緑、黄色。色とりどりの光が夜空を彩る。大きく広がるもの、細かく枝分かれするもの、光の尾を長く引くもの。どれもが一瞬で消えて、また次の花火が打ち上がる。
周囲の声が、遠くから沢山聞こえてくる。子供たちの歓声、カップルの感嘆、家族連れの笑い声。でも、その声は不思議と耳に入ってこなかった。ただ、目の前に広がる光景だけが、俺の意識を占めていた。
「綺麗だね」
天海が小さく呟いた。
俺は何も答えなかった。答える言葉が見つからなかったからだ。綺麗だと思った。それは確かだ。でも、その言葉を口にするのは、何か負けたような気がした。
天海は俺の反応を気にせず、ただ花火を見つめている。その横顔は、色とりどりの光に照らされて、柔らかく輝いていた。一瞬ごとに変わる光の色が、天海の顔に影を落とし、また明るく照らす。
花火は続いた。
どれくらい経ったのか分からない。時間の感覚が曖昧になっている。ただ、空に花火が打ち上がり、光が広がり、消えていく。その繰り返しを、俺はただ見ていた。
そして、クライマックスが来た。
連続して打ち上がる花火。音が重なり、光が重なり、空全体が明るくなる。赤、青、金、銀。無数の光が夜空を埋め尽くす。周囲の盛り上がりも最高潮に達していた。
天海が、小さく息を呑んだ。
俺も、思わず息を止める。
そして――全てが消えた。
最後の光が消えると、辺りは急に暗くなった。さっきまでの賑やかさが嘘のように、静けさが戻ってくる。川のせせらぎ、遠くから聞こえる誰かの声、風に揺れる草の音。
「終わっちゃった」
天海がぽつりと言った。その声には、少しだけ寂しさが滲んでいた。
「ああ」
「すごかったね」
「……まあ」
俺は曖昧に答えた。天海が横を向いて、俺を見る。その目は、何かを期待しているようだった。
「名瀬くん、どうだった?」
「どうって」
「花火」
「……悪くなかった」
そう答えると、天海が少し笑った。
「素直じゃないなあ」
「素直だろ」
「本当は綺麗だと思ったくせに」
「……」
俺は何も言い返せなかった。天海の言う通りだからだ。綺麗だと思った。認めたくはないが、それは事実だった。
天海は満足そうに頷いて、また空を見上げた。花火は終わったが、煙がまだ空に残っている。白い煙が、月明かりに照らされて、ゆっくりと流れていく。
周囲の人たちが、少しずつ動き始めた。
レジャーシートを片付ける家族、立ち上がって伸びをするカップル、友達同士で感想を言い合う学生たち。みんな、満足そうな顔をしていた。
「帰ろうか」
天海がそう言って立ち上がり、俺もそれに合わせる。天海はスカートの裾を払い、地面に敷いていたタオルを拾い上げた。軽く畳んで、スクールバッグにしまう。
人の流れが、ゆっくりと駅の方へ向かっている。さっきまでの期待に満ちた空気とは違い、今は余韻に浸るような、穏やかな雰囲気が漂っていた。
「楽しかったね」
天海が歩きながら言った。
「まあな」
「名瀬くん、また来年も来る?」
「さあな」
「来年も一緒に来ようよ」
天海がそう言って、こちらを見た。その目は真っ直ぐで、嘘がなかった。
俺は何も答えず、ただ前を向いて歩く。
来年。
そんな先のことなんて、考えたこともなかった。明日のことさえ、どうでもいいと思っていた。でも、天海は当たり前のように「来年」と言う。まるで、俺がそこにいることが確定しているかのように。
人混みを見つめながら、俺たちは歩いていく。浴衣姿の女性たちが下駄の音を鳴らし、子供たちがはしゃぎながら走り、カップルが腕を組んで歩いている。
少しずつ、人混みから人が減っていく。
河川敷から堤防を登り、商店街を抜け、駅へと向かう人々。さっきまで賑やかだった露店も、片付けを始めている。提灯の明かりが消され、店主たちが荷物をまとめている。
祭りの終わり。
そんな言葉が、頭に浮かんだ。
「名瀬くん」
思わず立ち止まり、呆然と雲のように散っていく人々を眺めていたが、天海に名前を呼ばれてハッとした。振り向くと、穏やかで、それでいて真剣な眼差しが、こちらをじっと見つめていた。
「これが季節だよ」
「……そうだな。俺、知らなかった」
春も、夏も、秋も、冬も――全部同じだと思っていた。でも、この瞬間は夏にしか体験できない。花火なんて季節を問わず打ち上げられる。それでも、この瞬間は今だけのものだ。俺の中にあるこの感情は、何なんだろう。言葉にできない。でも、満たされている。
「夏が終われば秋が来るんだろ」
「うん、来るよ」
「秋って、どんな季節なんだ?」
俺の質問に天海の顔が、ぱっと明るくなった。まるで、花火がもう一度打ち上がったような、そんな輝きだった。月明かりに照らされた天海の表情は、さっきまでの穏やかな笑みとは違う。心の底から嬉しそうな、子供のような笑顔だった。
「食欲の秋とか、スポーツの秋とか、聞いたことあるでしょ」
「ああ」
「夏よりも涼しくて、冬よりも暖かいから、行楽に向いている時期なんだよ」
「行楽?」
「どこかへ行くの。コンビニとか近場じゃないよ。観光地とか、そういう特別なところ」
「へえ……」
天海の話を真剣に聞いている自分に驚いた。しっかりと天海の顔を見つめ、言葉を聞き逃さないようにしている。今まで感じていた虚無感が嘘のようだ。俺は初めて、これから訪れる季節に――心を躍らせていた。
「名瀬くんと色んな場所に行ってみたいな」
天海がそう言った直後、ハッとしたように口元を押さえた。顔が、みるみるうちに赤くなっていく。月明かりでもはっきりと分かるほどだった。
「あ、いや、その……」
天海は慌てて言葉を探している。視線が泳いでいた。
「変な意味じゃなくて」
「変な意味って何だよ」
「だから、その……」
天海がますます顔を赤くする。耳まで真っ赤になっていた。
「ただ、名瀬くんが色んなこと知らないから、教えてあげたいなって思っただけで」
「そうか」
「そう、そういうこと」
その声は上ずっていて、説得力がなかった。俺は特に何も思っていなかったが、天海の反応が面白くて、少し黙っていた。
「名瀬くん、変なこと考えてないよね」
「別に何も考えてない」
「本当?」
「本当だ」
俺がそう答えると、天海は少しだけ安心したように息を吐いた。でも、顔の赤みは引いていない。むしろ、自分の反応が過剰だったことに気づいて、さらに恥ずかしくなっているようだった。
「ご、ごめん。なんか変なこと言っちゃった」
「変じゃない」
「でも……」
「色んな場所に行くのもいいんじゃないか」
俺がそう言うと、天海がゆっくりと顔を上げた。その目は、驚いたような、嬉しいような、複雑な色を含んでいた。
「本当に?」
「ああ」
「名瀬くん、そういうの興味あるの?」
「さあな。でも、お前が教えてくれるのなら、悪くないかもしれない」
天海の顔が、また赤くなった。でも今度は、照れ臭そうな、柔らかい笑みを浮かべていた。視線を逸らして、前を向く。その横顔は、月明かりに照らされて、ほんのりと紅潮していた。
「うん……じゃあ、秋になったら、どこか行こうね」
天海が小さく呟いた。その声は、さっきまでの興奮した声とは違う。少し恥ずかしそうな、でも嬉しそうな、そんな声だった。
天海は俯き加減に歩いている。時折、手で顔を仰いだり、髪を耳にかけたりして、落ち着かない様子だった。でも、その唇は小さく笑みを浮かべていた。
「名瀬くん」
「ん」
「今日、連れ出して良かった」
天海がそう言って、ちらりとこちらを見た。その目は潤んでいて、笑っている。天海の照れ臭そうな様子が、なぜか微笑ましく感じられた。いつもは自信満々に見える天海が、こんな風に恥ずかしがることもあるのか。そう思うと、少しだけ面白い。
「ああ」
「ありがとう」
感謝の言葉を伝えるべきは、俺の方だった。俺は軽く首を横に振り、天海を真っ直ぐ見つめた。
「いや、俺の方こそ。ありがとう、天海」
喉に突っかかって言葉が出ないなんてことはない。全身を巡り、腹の底から気持ち良いほどに俺は言葉を発した。太陽は隠れ、漆黒の夜空に月明かりが浮かぶだけ。薄明かり、暗闇の中なのに――こんなに明るいと思える日を、今まで過ごしたことがない。
天海は幸せそうに笑っていた。俺もきっと、天海と同じ表情をしていた。




