25.
俺たちは結局、駅前のショッピングモールで時間を潰すことにした。天海が「やっぱり涼しいところがいい」と言い出したからだ。
エアコンの効いた館内を、目的もなく歩き回る。天海は時折、ショーウィンドウを覗き込んでは「可愛い」だの「これ欲しい」だのと呟いていたが、結局何も買わなかった。俺も、別に買いたいものなんてなかった。
フードコートで遅い昼食を取り、ゲームセンターの前を素通りし、書店で立ち読みをした。時計を見るたびに、時間の進み方が遅く感じられた。
そして夕方が近づいてきた頃、天海が言った。
「そろそろ行こうか」
「どこにだよ」
「特別な場所」
天海はそう言って笑った。俺は黙ってその後に続いた。
*
駅から電車に乗って、隣町まで移動した。降り立った駅は、俺たちの街よりも少しだけ賑やかで、駅前には露店が並び始めている。
綿菓子、たこ焼き、焼きそば。甘い匂いと油の匂いが混ざり合って、夏祭りの空気が漂っていた。浴衣を着た人たちも、ちらほら見える。家族連れ、カップル、友達同士。みんな、楽しそうに笑っていた。
「花火大会だよ」
天海が振り返って言った。
「……花火?」
「うん。今日、この街で花火大会があるの。だから、特別な日」
俺は「くだらない」と言いかけて、寸前でやめる。なぜかは分からない。ただ、無邪気に笑いかけてくる天海を見ていたら、そんな言葉をぶつける気が失せた。日は暮れ始めているのに、むせかえるような熱気が肌を刺した。
「人が多いな」
「なにその感想」
「ただでさえ暑苦しいのに、さらに暑苦しくなる」
「まあ、花火大会ってそういうものだよ」
「そうか」
「太陽が完全に沈めば涼しくなるからね。もう少しの我慢だよ、名瀬くん」
まるで子供をあやすように天海は言う。俺はその言い草にムカッとして言い返そうとしたが、何も思いつかず天海を軽く睨みつけた。
「で、どうすんだよ」
「ん?」
「花火大会って何すんだよ、天海」
「見る」
「見る?」
「花火を見るの」
「それだけか?」
「それだけってなに」
「見るためにこんなに人が集まってるのか」
「そうだよ」
天海が少し笑った。俺の反応が面白いらしい。
「名瀬くん、花火大会行ったことないもんね」
「ああ」
「じゃあ、屋台とか見たこともないんだ」
「屋台……」
「ほら、あそこ」
天海が指差した先には、色とりどりの提灯が並ぶ露店が見える。人だかりができていて、子供の声や店主の呼び込みが聞こえてくる。
「焼きそばとか、たこ焼きとか、りんご飴とか売ってるんだよ」
「へえ」
「興味なさそう」
「別に腹減ってねえから」
「そういう問題じゃないんだけどねえ」
天海が少し呆れたように笑う。
俺たちは人の流れに乗って、駅前から河川敷の方へと向かう。浴衣姿の女性たちが、下駄の音を鳴らしながら歩いていた。カップルが手を繋いで歩いていたり、制服姿の学生たちが騒いでいたり。
夕暮れの空は、オレンジから紫へと色を変え始めている。まだ七月なのに夏の終わりを感じさせる、そんな空気が漂っていた。
「名瀬くん、花火見るの楽しみ?」
天海が横から訊いてきた。
「別に」
「正直だなあ」
「お前が連れてきたんだろ」
「そうだけどさ。でも、少しは期待してもいいんじゃない?」
「期待って何をだ」
「花火だよ。絶対綺麗だから」
天海の声には確信があった。俺は何も答えず、ただ前を向いて歩く。
商店街を抜けると、道が少し広くなった。人の流れも緩やかになり、前方に川の堤防が見えてくる。
「あと少しだよ」
天海が言った。
「もう疲れた」
「嘘でしょ。まだ全然歩いてないじゃん」
「暑いんだよ」
「もうすぐ涼しくなるって」
天海がそう言いながら、自分の額の汗を拭った。本人も暑そうだ。七月の夕方とはいえ、これだけ人が集まれば熱気がこもる。堤防に差し掛かると、急に視界が開けた。
川だ。
広い河川敷に、無数の人が集まっている。レジャーシートを敷いて座り込んでいる家族連れ、立ったまま談笑するグループ、川辺で遊ぶ子供たち。川の対岸には、打ち上げ場所らしい設備が見える。
「すごい人だな」
「花火大会ってこんなもんだよ」
天海が当たり前のように言う。
「どこに座る」
「んー、あっちの方が空いてるかも」
「あそこでいいのか」
「ちゃんと見えるよ。むしろ、人が少ない方が落ち着いて見られるし」
「そうか」
俺たちは、その場所へと向かった。足元の草を踏みしめながら、土手を少し登る。振り返ると、川と河川敷全体が見渡せた。
「ここにしよう」
天海がそう言って、スクールバッグから小さなタオルを取り出して地面に敷いた。簡易的なものだが、座るには十分だろう。天海は周囲を軽く見回して、スカートの裾を両手で押さえながら、慎重に腰を下ろした。斜面になっている場所だからか、少しバランスを崩しそうになる。
「大丈夫か」
「うん、大丈夫」
天海は座った後も、スカートの裾を丁寧に膝の上に整えていた。俺はその様子を横目で見ながら、少し離れた地べたに腰を下ろす。
「名瀬くん、もうちょっと近くに座れば」
「ここでいいだろ」
「お尻、汚れちゃうよ。タオル敷いたんだからさ」
天海が少し不満そうに言う。
俺は曖昧に頷いただけで、動こうとしなかった。すると、天海は小さく息を吐いて、自分の体を少しずつずらし始めた。
「ほら、私こっちにもっと詰めるから」
天海はタオルの端ギリギリまで移動する。スカートの裾を気にしながら、体を横に寄せていく。空いたスペースを天海が軽く叩いた。
「名瀬くん、ここ座って」
「狭いだろ」
「大丈夫だよ。二人で座れるから」
「……」
「せっかく持ってきたんだから、ちゃんと使おうよ」
俺は仕方なく立ち上がり、天海の隣のスペースに腰を下ろした。
確かに狭い。肩が触れそうなくらいの距離だ。天海は窮屈そうにしながらも、嬉しそうに笑っていた。
「ね、ちゃんと座れたでしょ」
「ああ」
「やっぱり二人で一緒に座った方がいいよ」
天海がそう言って、また川の方を向いた。俺も黙って同じ方向を見る。空が、少しずつ暗くなっていく。
西の空には、まだオレンジ色の残照が残っていた。地平線近くは濃いオレンジで、それが徐々に薄くなり、ピンクがかった色へと溶けていく。さらにその上は淡い紫。そして、頭上は既に深い青へと変わり始めている。
夕暮れと夜の境目。川面が、オレンジ色の光を反射している。対岸の建物や木々のシルエットが、空を背景に黒く浮かび上がっていた。河川敷の人々も、少しずつシルエットに変わっていく。
空の色は刻一刻と変化している。オレンジが薄くなり、紫が濃くなり、青が深くなる。東の空はもう、ほとんど夜の色だ。ぽつりぽつりと、星が見え始めている。
俺は、こんなにじっと空を見つめたことはなかった。
空なんて、ただそこにあるものだと思っていた。特別なものじゃない。見上げたところで、何も変わらない。そう思っていた。
でも――この空は、違った。刻々と変わっていく色。グラデーション。光と影の境界線。全てが、生きているように感じられた。
思ったよりも、空は綺麗だった。
「名瀬くん」
隙間を縫うように、天海の声が入ってくる。俺は視線を空から外して、横を向いた。天海が、こちらを見ている。その目は、何かを確かめるような、そんな色を含んでいた。
「何だよ」
「空、見てたね」
「別に」
俺は素っ気なく答えた。でも、その応答は嘘っぽく聞こえただろう。天海は小さく笑った。
「嘘。すごく真剣に見てたよ」
天海の声には、何か嬉しそうな響きがあった。まるで、自分の期待していたことが現実になったとでも言うように。俺は何も言えず、ただ黙っていた。
「名瀬くん、そういう顔の方が素敵だよ」
「そういう顔って何だよ」
「なんていうか……穏やかな顔」
天海がそう言って、少し照れたように視線を逸らした。夜風が、天海の髪を少しだけ揺らしている。空はすっかり暗くなり、周囲の喧騒も少しずつ落ち着き始めていた。人々は花火の始まりを待ちながら、静かに話し合っている。
「前は、もっと怖い顔してた」
天海がぼそりと言った。その声は、非難ではなく、ただ事実を述べているだけのように聞こえた。
「怖い顔なんてしてねえよ」
「してるよ。誰も近寄れないような顔」
天海が少し笑う。でも、その笑顔には非難の色はなかった。ただ、俺を見ている。その目は温かかった。
俺は何も言えなかった。天海の言葉が、心の奥に静かに沈んでいく。怖い顔。誰も近寄れないような顔。そう、俺はそういう顔をしていたのかもしれない。意識していたわけじゃない。でも、それが俺の日常だった。
「でも、今は違う」
天海が続けた。
「今の名瀬くん、高校生みたいな顔してた」
「高校生だ」
「そうなんだけどね」
天海がくすくすと笑った。その笑い声は、周囲の静けさの中で、ひときわ柔らかく響いた。
「名瀬くん、よく見てて」
「ん」
「これから、もっと綺麗な空になる」
天海がそう言った直後だった。
遠くから、低い音が響いた。鈍い、腹に響くような音。それが空気を震わせて、こちらまで伝わってくる。俺は反射的に空を見上げた。
対岸の打ち上げ場所から、一筋の光が上がっていく。
尾を引きながら、まっすぐに夜空へと昇っていく光の筋。それは真っ暗になった空を切り裂くように、高く、高く、上へと伸びていく。周囲の人々が、一斉に空を見上げた。ざわめきが静まり、期待に満ちた沈黙が訪れる。
そして――。
小さな破裂音と共に、光が弾けた。
赤い光が、夜空に大きく広がっていく。火花が四方に散って、一瞬だけ世界を明るく照らす。丸い形を描きながら、広がって、広がって、――消えた。




