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25.


 俺たちは結局、駅前のショッピングモールで時間を潰すことにした。天海が「やっぱり涼しいところがいい」と言い出したからだ。


 エアコンの効いた館内を、目的もなく歩き回る。天海は時折、ショーウィンドウを覗き込んでは「可愛い」だの「これ欲しい」だのと呟いていたが、結局何も買わなかった。俺も、別に買いたいものなんてなかった。


 フードコートで遅い昼食を取り、ゲームセンターの前を素通りし、書店で立ち読みをした。時計を見るたびに、時間の進み方が遅く感じられた。


 そして夕方が近づいてきた頃、天海が言った。

「そろそろ行こうか」

「どこにだよ」

「特別な場所」

 天海はそう言って笑った。俺は黙ってその後に続いた。



 駅から電車に乗って、隣町まで移動した。降り立った駅は、俺たちの街よりも少しだけ賑やかで、駅前には露店が並び始めている。


 綿菓子、たこ焼き、焼きそば。甘い匂いと油の匂いが混ざり合って、夏祭りの空気が漂っていた。浴衣を着た人たちも、ちらほら見える。家族連れ、カップル、友達同士。みんな、楽しそうに笑っていた。


「花火大会だよ」

 天海が振り返って言った。

「……花火?」

「うん。今日、この街で花火大会があるの。だから、特別な日」

 俺は「くだらない」と言いかけて、寸前でやめる。なぜかは分からない。ただ、無邪気に笑いかけてくる天海を見ていたら、そんな言葉をぶつける気が失せた。日は暮れ始めているのに、むせかえるような熱気が肌を刺した。


「人が多いな」

「なにその感想」

「ただでさえ暑苦しいのに、さらに暑苦しくなる」

「まあ、花火大会ってそういうものだよ」

「そうか」

「太陽が完全に沈めば涼しくなるからね。もう少しの我慢だよ、名瀬くん」

 まるで子供をあやすように天海は言う。俺はその言い草にムカッとして言い返そうとしたが、何も思いつかず天海を軽く睨みつけた。


「で、どうすんだよ」

「ん?」

「花火大会って何すんだよ、天海」

「見る」

「見る?」

「花火を見るの」

「それだけか?」

「それだけってなに」

「見るためにこんなに人が集まってるのか」

「そうだよ」

 天海が少し笑った。俺の反応が面白いらしい。


「名瀬くん、花火大会行ったことないもんね」

「ああ」

「じゃあ、屋台とか見たこともないんだ」

「屋台……」

「ほら、あそこ」

 天海が指差した先には、色とりどりの提灯が並ぶ露店が見える。人だかりができていて、子供の声や店主の呼び込みが聞こえてくる。


「焼きそばとか、たこ焼きとか、りんご飴とか売ってるんだよ」

「へえ」

「興味なさそう」

「別に腹減ってねえから」

「そういう問題じゃないんだけどねえ」

 天海が少し呆れたように笑う。


 俺たちは人の流れに乗って、駅前から河川敷の方へと向かう。浴衣姿の女性たちが、下駄の音を鳴らしながら歩いていた。カップルが手を繋いで歩いていたり、制服姿の学生たちが騒いでいたり。

 夕暮れの空は、オレンジから紫へと色を変え始めている。まだ七月なのに夏の終わりを感じさせる、そんな空気が漂っていた。


「名瀬くん、花火見るの楽しみ?」

 天海が横から訊いてきた。


「別に」

「正直だなあ」

「お前が連れてきたんだろ」

「そうだけどさ。でも、少しは期待してもいいんじゃない?」

「期待って何をだ」

「花火だよ。絶対綺麗だから」

 天海の声には確信があった。俺は何も答えず、ただ前を向いて歩く。

 商店街を抜けると、道が少し広くなった。人の流れも緩やかになり、前方に川の堤防が見えてくる。

「あと少しだよ」

天海が言った。


「もう疲れた」

「嘘でしょ。まだ全然歩いてないじゃん」

「暑いんだよ」

「もうすぐ涼しくなるって」

 天海がそう言いながら、自分の額の汗を拭った。本人も暑そうだ。七月の夕方とはいえ、これだけ人が集まれば熱気がこもる。堤防に差し掛かると、急に視界が開けた。


 川だ。


 広い河川敷に、無数の人が集まっている。レジャーシートを敷いて座り込んでいる家族連れ、立ったまま談笑するグループ、川辺で遊ぶ子供たち。川の対岸には、打ち上げ場所らしい設備が見える。


「すごい人だな」

「花火大会ってこんなもんだよ」

 天海が当たり前のように言う。


「どこに座る」

「んー、あっちの方が空いてるかも」

「あそこでいいのか」

「ちゃんと見えるよ。むしろ、人が少ない方が落ち着いて見られるし」

「そうか」

 俺たちは、その場所へと向かった。足元の草を踏みしめながら、土手を少し登る。振り返ると、川と河川敷全体が見渡せた。


「ここにしよう」

 天海がそう言って、スクールバッグから小さなタオルを取り出して地面に敷いた。簡易的なものだが、座るには十分だろう。天海は周囲を軽く見回して、スカートの裾を両手で押さえながら、慎重に腰を下ろした。斜面になっている場所だからか、少しバランスを崩しそうになる。


「大丈夫か」

「うん、大丈夫」

 天海は座った後も、スカートの裾を丁寧に膝の上に整えていた。俺はその様子を横目で見ながら、少し離れた地べたに腰を下ろす。


「名瀬くん、もうちょっと近くに座れば」

「ここでいいだろ」

「お尻、汚れちゃうよ。タオル敷いたんだからさ」

 天海が少し不満そうに言う。

 俺は曖昧に頷いただけで、動こうとしなかった。すると、天海は小さく息を吐いて、自分の体を少しずつずらし始めた。


「ほら、私こっちにもっと詰めるから」

 天海はタオルの端ギリギリまで移動する。スカートの裾を気にしながら、体を横に寄せていく。空いたスペースを天海が軽く叩いた。


「名瀬くん、ここ座って」

「狭いだろ」

「大丈夫だよ。二人で座れるから」

「……」

「せっかく持ってきたんだから、ちゃんと使おうよ」

 俺は仕方なく立ち上がり、天海の隣のスペースに腰を下ろした。

 確かに狭い。肩が触れそうなくらいの距離だ。天海は窮屈そうにしながらも、嬉しそうに笑っていた。


「ね、ちゃんと座れたでしょ」

「ああ」

「やっぱり二人で一緒に座った方がいいよ」

 天海がそう言って、また川の方を向いた。俺も黙って同じ方向を見る。空が、少しずつ暗くなっていく。


 西の空には、まだオレンジ色の残照が残っていた。地平線近くは濃いオレンジで、それが徐々に薄くなり、ピンクがかった色へと溶けていく。さらにその上は淡い紫。そして、頭上は既に深い青へと変わり始めている。


 夕暮れと夜の境目。川面が、オレンジ色の光を反射している。対岸の建物や木々のシルエットが、空を背景に黒く浮かび上がっていた。河川敷の人々も、少しずつシルエットに変わっていく。

 空の色は刻一刻と変化している。オレンジが薄くなり、紫が濃くなり、青が深くなる。東の空はもう、ほとんど夜の色だ。ぽつりぽつりと、星が見え始めている。


 俺は、こんなにじっと空を見つめたことはなかった。

 空なんて、ただそこにあるものだと思っていた。特別なものじゃない。見上げたところで、何も変わらない。そう思っていた。


 でも――この空は、違った。刻々と変わっていく色。グラデーション。光と影の境界線。全てが、生きているように感じられた。


 思ったよりも、空は綺麗だった。


「名瀬くん」

 隙間を縫うように、天海の声が入ってくる。俺は視線を空から外して、横を向いた。天海が、こちらを見ている。その目は、何かを確かめるような、そんな色を含んでいた。


「何だよ」

「空、見てたね」

「別に」

 俺は素っ気なく答えた。でも、その応答は嘘っぽく聞こえただろう。天海は小さく笑った。


「嘘。すごく真剣に見てたよ」

 天海の声には、何か嬉しそうな響きがあった。まるで、自分の期待していたことが現実になったとでも言うように。俺は何も言えず、ただ黙っていた。


「名瀬くん、そういう顔の方が素敵だよ」

「そういう顔って何だよ」

「なんていうか……穏やかな顔」

 天海がそう言って、少し照れたように視線を逸らした。夜風が、天海の髪を少しだけ揺らしている。空はすっかり暗くなり、周囲の喧騒も少しずつ落ち着き始めていた。人々は花火の始まりを待ちながら、静かに話し合っている。


「前は、もっと怖い顔してた」

 天海がぼそりと言った。その声は、非難ではなく、ただ事実を述べているだけのように聞こえた。


「怖い顔なんてしてねえよ」

「してるよ。誰も近寄れないような顔」

 天海が少し笑う。でも、その笑顔には非難の色はなかった。ただ、俺を見ている。その目は温かかった。


 俺は何も言えなかった。天海の言葉が、心の奥に静かに沈んでいく。怖い顔。誰も近寄れないような顔。そう、俺はそういう顔をしていたのかもしれない。意識していたわけじゃない。でも、それが俺の日常だった。


「でも、今は違う」

 天海が続けた。


「今の名瀬くん、高校生みたいな顔してた」

「高校生だ」

「そうなんだけどね」

 天海がくすくすと笑った。その笑い声は、周囲の静けさの中で、ひときわ柔らかく響いた。


「名瀬くん、よく見てて」

「ん」

「これから、もっと綺麗な空になる」

 天海がそう言った直後だった。


 遠くから、低い音が響いた。鈍い、腹に響くような音。それが空気を震わせて、こちらまで伝わってくる。俺は反射的に空を見上げた。


 対岸の打ち上げ場所から、一筋の光が上がっていく。


 尾を引きながら、まっすぐに夜空へと昇っていく光の筋。それは真っ暗になった空を切り裂くように、高く、高く、上へと伸びていく。周囲の人々が、一斉に空を見上げた。ざわめきが静まり、期待に満ちた沈黙が訪れる。


 そして――。


 小さな破裂音と共に、光が弾けた。

 赤い光が、夜空に大きく広がっていく。火花が四方に散って、一瞬だけ世界を明るく照らす。丸い形を描きながら、広がって、広がって、――消えた。


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