23.
「平日の昼間から外を歩くのって、なんだか新鮮な気分~」
天海が軽い足取りで歩きながら、そう言った。俺は何も答えず、ただ隣を歩いた。
路地は静まり返っている。住宅街の奥まった場所で、人通りはほとんどない。アスファルトには所々ひび割れが走り、道端には誰も手入れしていない雑草が伸びている。どこかの家の軒先から、古びた風鈴の音が微かに聞こえた。
二人の足音だけが、狭い路地に響く。天海のスニーカーの軽い音と、俺の靴底が地面を擦る鈍い音。それ以外には何もない。車の音も、人の声も、生活の気配すらも遠くて、まるで世界から切り離されたような静けさだった。
ブロック塀に囲まれた古い家々が、両側から覆いかぶさるように建ち並んでいる。日差しは届かず、ひんやりとした空気が淀んでいた。
「天海」
「んん?」
「木村と俺が話している内容、聞いてたのか?」
「外から盗み聞きなんてしないよ」
天海は少し笑って、前を向いたまま答えた。
俺は視線を路地の先に向けた。T字路の突き当たりに、錆びついた自動販売機が一台、ぽつんと置かれている。表示ランプがぼんやりと点滅していた。長い年月を感じさせる光だった。
「そっか」
「というか先生のこと呼び捨てはダメだよ、名瀬くん」
「そうだな」
「なんか、今日素直じゃん」
天海が不思議そうに俺を見た。素直、か。そうかもしれない。今日の俺は、いつもより言葉を返すのが億劫じゃない。木村へ放った「天海には近づかない」という言葉が頭の中で繰り返される。
「何なんだよ、お前」
「え、藪から棒にどしたの」
きょとんとした顔で天海は俺を見つめる。
俺は言葉を探した。何を言いたいのか、自分でもよくわからない。ただ、喉の奥から何かが込み上げてくる。
「お前は、どうしていつもそうなんだ」
「そうって?」
「平気な顔で、俺の隣にいる」
天海の表情が、一瞬だけ強張った。
「平気じゃ、ないけど」
小さな声だった。いつもの軽い調子は消えて、天海は少しだけ俯いた。
「……ねえ、名瀬くん、木村先生に何を言われたの」
「別に何も」
「ふうん」
天海は少しだけ不満そうな声を出して、また歩き始めた。俺もその後に続く。足音だけが路地に響いている。さっきよりも、その音が重く感じられた。
木村から、俺が天海を虐めているのではないかと問い詰められた。それを伝えればいいだけなのに、俺は躊躇っていた。
「名瀬くんのことが心配」
天海の声が、静かな路地に響いた。俺は顔を上げた。天海が、俺を見ている。いつものように軽い笑みを浮かべているが、その目は真剣だった。
「大きなお世話だよ」
俺は笑いながらも、吐き捨てるように言った。天海が、ぴたりと足を止める。
「今日、夕方までどうやって時間を潰す?」
「は?」
突然、天海が意図の読めない発言をする。俺は戸惑って天海を見た。さっきまでの真剣な表情は消えて、また普段の軽い調子に戻っている。まるで、さっきの会話が何もなかったかのように。
「今日は特別な日なんだよ、名瀬くん」
「いや意味が分からない」
天海はくるりと俺の方を向いて、にっこりと笑った。でも、その笑顔はどこか作り物めいていた。
「夕方になれば分かるから。それまで一緒にいよう」
「……わかった」
俺はそれだけ言った。天海がほっとしたように笑う。それから、また俺たちは歩き始める。
「あは、やっぱ素直だよね」
天海が少し茶化すように笑った。でも、その笑顔はすぐに消えて、前を向いて歩き続ける。
「名瀬くん、季節って知ってる?」
「俺のこと、馬鹿にしてんのか」
「ふふ、してないよ」
天海が少し笑う。さっきまでの強張った空気が、少しだけ柔らかくなった気がした。
「本当にお前、何なんだよ」
「ただの同級生だよ」
天海は軽い調子で答えて、また前を向いて歩く。
「私たちって、季節感ないよね」
確かにその通りだった。もう七月に入ったというのに、俺たちは制服の上にブレザーを羽織ったまま、まるで冬が明けたばかりの春先の格好を維持し続けていた。
「まあ」
「目立つかな」
「別に、そんなこと気にしたことない。他人からどう思われようが関係ない」
俺は素っ気なく答えた。天海はくすくすと笑う。
「そういうところが、らしいよね」
俺は何も言わなかった。らしい、とはどういう意味だ。でも、聞く気にもなれなかった。
「私、暑いけど夏が一番好き」
天海が突然、そう言った。
「夏休みがあるからか」
「それもあるけど、違うの」
天海は少し考えるように空を見上げた。
「夏はね、すべてが輝いて見える。太陽も、空も、海も。人の肌も汗で光ってて、みんな生きてるって感じがする」
俺は黙って聞いていた。天海の声は、いつもより少し柔らかかった。
「名瀬くんは? 何の季節が好き?」
「別に、ない」
「嘘。絶対あるでしょ」
「ないって言ってるだろ」
天海は不満そうに頬を膨らませた。
「冬とか好きそうだけどな」
「なんでだよ」
「だって、名瀬くんって冷たい感じするし」
「冷たいって」
「あ、でも悪い意味じゃないよ。クールっていうか、そういう意味で」
天海は慌てて訂正する。俺は小さく息を吐いた。
「お前、本当に適当なこと言うよな」
「適当じゃないもん。ちゃんと考えて言ってるもん」
天海が少し拗ねたように言う。その顔が、なんだか子供っぽくて、俺は思わず視線を逸らした。
「春も、夏も、秋も、冬も……別に全部一緒だ」
俺は心の底からそう思っていた。違いが分からない。
天海が俺を見た。その目には、少し悲しそうな色が浮かんでいる。
「そっか。名瀬くんは、季節が変わっても気づかないんだ」
「気づく必要がないだろ」
「でも、今日みたいな特別な日は?」
天海が再び訊いた。
「特別な日って、何なんだよ」
俺は少しの苛立ちを込めて言った。さっきから、天海は「特別な日」と繰り返している。
「だから、夕方になれば分かるって」
天海は笑って、また前を向いて歩き始めた。




