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22.


 いつ死んでもいいという投げやりな生き方。それは確かに、長い間俺を支配している。暴力に身を(ゆだ)ね、明日のことなど考えずに生きてきた。傷つけ、傷つけられ、その繰り返しの中で俺は何も感じなくなっていた。


 だが、最近は違う。


 あの老婆と過ごした時間が、何かを変えたのかもしれない。彼女は俺のことを忘れ、また思い出し、また忘れた。それでも俺はそこにいた。ただ、そこにいるだけで良かった。暴力も憎しみも必要なかった。


 俺は、普通を知りたいと思い始めていた。


 誰かを殴ることもなく、誰かに怯えることもなく、ただ日常を送りたい。そんな当たり前のことが、今の俺には眩しく見えた。――天海のように。


 天海は、俺が失ったものを全て持っていた。いや、俺が最初から持っていなかったものを、彼女は当たり前に持っていた。彼女が教室でクラスメイトと話している姿を遠くから見るたび、俺はその距離を痛いほど感じる。俺と天海は……きっと同じなのに。


 あれほど否定していた、けれど最近は違う感情が湧いてくる。羨望、憧れ、そして――もしかしたら、俺もあんな風になれるんじゃないかという、淡い希望。


 久しぶりだった。校門をくぐるとき、妙な緊張感が胸を締め付けた。生徒たちの視線が突き刺さる。俺を見る目は同じだ。距離を置く目。関わりたくないという目。けれどこれは今の日常。結局は俺が望んだもの。


 廊下の向こうに、天海の姿が見えた。クラスメイトと笑いながら教室に向かっている。彼女は俺に気づいていない。いや、気づいているけれど見ないようにしているのかもしれない。それでもいい。今はまだ、俺が彼女のいる世界に入る資格なんてない。


 靴箱で上履きに履き替えていると、背後から声がかかった。


「名瀬くん」

 振り返ると、生活指導の女教師が立っていた。腕を組み、眉をひそめた険しい表情。俺を見る目に、明らかな警戒心が滲んでいた。


「なんですか、木村先生」

「ちょっと来なさい」

 有無を言わさぬ口調。俺は黙って頷いた。


 廊下を歩きながら、俺は考えていた。何を言われるのか。また説教か。それとも、何か問題を起こしたと疑われているのか。まあ、いい。慣れている。木村は、素直に付いて来る俺を訝しげにチラチラと見る。教師の言うことに従ったことなんてなかったから、不審に思っているのだろう。


 生活指導室のドアが開き、俺は中へと促された。


 室内には二脚の椅子が対面に置かれていた。木村は一方を指差し、俺はそこに腰を下ろす。彼女も向かいの椅子に座り、俺をじっと見つめた。机もない、ただ椅子だけの空間。逃げ場のない、向き合うための場所。


 沈黙が流れる。木村は何か言いたげに口を開きかけて、また閉じた。眉間に皺を寄せ、明らかに困惑している。おそらく、いつもの俺ならここで反抗的な態度を取るか、舌打ちでもしていたはずだ。それが今日は何も言わずに従い、静かに座っている。予想外の反応に、彼女は次の言葉を失っているようだった。


 俺も黙ったまま、視線を床に落とす。別に反抗する気力もないし、かといって媚びるつもりもない。ただ、普通に指示に従っただけ。それだけのことが、こんなにも木村を戸惑わせるとは思わなかった。


「どうして自分は呼び出されたんですか」

 このままでは埒が明かない。俺は自分から口を開いた。まどろっこしいのは嫌いだ。説教でも何でもいい。この面倒な時間を早く終わらせてくれ。


「ああ……その」

 俺の方から積極的に話し始めたせいか、木村はさらに困惑しているようだった。教師として、その態度はどうなんだ、と正直思うが不良生徒の俺が偉そうに言える立場じゃない。


 木村は一度大きく息を吸い込み、覚悟を決めたように俺を見据えた。

「名瀬くん。最近、クラスでいじめが起きているという報告があったの」

 俺は黙って聞いていた。


「アナタ、そのいじめに関与していない?」

 直球だった。遠回しな言い方ではなく、真正面から投げつけられた問い。木村の目は俺を見据えたまま、一切逸らさない。疑っている。当然だ。俺の所業を知っていれば、真っ先に疑われるのは俺だ。


「関与してるかって……」

「アナタの素行は、学校側も把握しているわ。暴力事件、喧嘩、停学処分。そして、いつも問題のあるグループと行動を共にしている」

 木村の声には、明確な敵意と嫌悪感が込められていた。俺を問題生徒として、いや、それ以上に――犯罪者のように見ている。その視線は冷たく、有罪を前提に尋問する刑事だ。最初から答えは決まっているのだろう。俺が犯人だと。


「正直に答えて。今回のいじめに、あなたは関わっているの?」

 口では「正直に答えて」と言いながら、その表情は既に俺を疑い切っていた。いや、疑いではない。確信だ。木村は俺が嘘をつくことを前提に、ボロを出すのを期待している。鋭い視線が俺を射抜く。逃げ場はない。俺は視線を床に落とし、口を開いた。


「そもそも……意味が分からないし、俺が誰をいじめているって?」

 校内で俺と接する生徒は限られている。男子なら伊藤を中心とした不良グループ、女子なら白石を中心とした不良グループ。一般生徒とは関わりを持っていない。暴行を加える相手も同じだ。不良グループに属し、犯罪に手を染めている連中。


 木村の鋭い視線が、さらに鋭さを増す。彼女の顔には、露骨な不信感が浮かんでいた。俺の言葉を一切信じていない。それどころか、嘘をついていると決めつけている。唇が薄く歪み、明らかな侮蔑の色が滲む。いじめなんてしたことはないし、する気もないのに。そんな回りくどいことをするくらいなら、直接殴りつけて病院送りにする方がよほど手っ取り早い。それに、いじめをするほど他人に興味がない。

 過去、いじめを受け続けた身からすれば、それがどれだけ時間を浪費するかは身に染みている。悪意を持って他人に構い続けるということ。無駄だ、無意味だ。


「同じクラスの天海さんを無理やり屋上に呼び出してるって話を聞いたの」

 木村の声は冷たく、鋭く、そして断定的だった。まるで証拠を突きつけるように、その言葉を投げつけてくる。疑いではなく、確信を持って俺を責めている。木村の目には、俺が加害者であるという前提しかない。弁解の余地など、最初から与えるつもりはないのだ。


「クラスの子たちから複数証言があってね」

 付け加えるように、そしてこれで観念しただろうと誇らしげに木村は言ってのける。滑稽だ。俺が天海に行動を強要することなんて絶対にない。木村の話す内容から、俺は現時点で事態をある程度把握した。理解するのは容易かった。


 俺が天海と過ごしているのが気にくわない連中がいるのだ。誰かは特定できないし、木村に問うても答えないだろう。くだらない。本当にくだらない。ガキじゃあるまいし、こんな嘘を教師に告げるのか。


「……本人には?」

「は?」

「天海には直接聞いたんすか」

 木村の表情が、一瞬だけ強張った。図星だ。聞いていない。周囲の証言だけで、俺を犯人扱いしている。天海本人がどう思っているか、何を感じているか、確認すらしていない。


「それは……」

「聞いてないんすね」

 俺の声は、いつもより落ち着いていた。以前なら、こんな理不尽な疑いをかけられたら怒鳴りつけていた。椅子を蹴り飛ばして、生活指導室を出て行っていたかもしれない。だが今は、そんな気力もない。ただ疲れた。こうやって、俺は決めつけられる。過去の行いが、未来の俺を縛り続ける。


「被害者の心情を考えれば、直接聞くのは……」

「被害者?」

 俺は木村の言葉を遮った。


「天海が被害者だって、誰が決めたんすか。本人が俺に何かされたって言ったんすか」

 木村の顔が、さらに険しくなる。俺の言葉が、彼女の神経を逆撫でしているのがわかる。だが、これは事実だ。天海は俺に無理やり呼び出されているわけじゃない。むしろ――。


 俺は口を閉じた。それ以上は言えない。天海との関係を、この場で説明することはできない。説明したところで、木村は信じないだろう。それどころか、さらに話を歪めて、俺を糾弾する材料にするかもしれない。


「名瀬くん、あなたは自分の立場を理解していないようね」

 木村の声が、一段と冷たくなった。


「……じゃあ、今すぐ天海を呼んで、本人に聞いてください」

「複数の生徒が、あなたが天海さんを脅して屋上に連れて行っているのを見たと証言している。それが事実なら、これは重大な問題よ。最悪の場合、警察沙汰にもなりかねないわ」

 警察。その言葉が、俺の胸に突き刺さる。木村は本気だ。俺を退学にするつもりか、それとも本当に警察に突き出すつもりなのか。


 今も昔も変わらない。みんな結論ありきで話している。教師は問題児の俺を退学させたい。生徒も、美人な転校生にちょっかいをかける不良を追い出したい。利害が一致し、筋書きは最初から決まっている。本当にくだらない。


 さっきまで投げやりな生き方を変えたいと思っていたのに、木村や生徒たちの行動を目の当たりにして、力が抜けていく。こいつらが普通なのか。普通って何なんだ。これが普通だというなら、世の中は腐ってる。


「勘違いだと思いますけど」

「勘違い? アナタね――」

「もう屋上には入らないし、天海には近づかない」

 この教師と話しても無駄だ。こんな学校でまともに会話しようとしても無駄だ。どうでもいい――心の底からどうでもいい。俺はゆっくりと席を立つ。


「ちょっと、待ちなさい! 名瀬くん!」

 木村の声が背中に突き刺さる。だが、俺は振り返らない。ドアに手をかける。


「話はまだ終わってないわ。勝手に出て行くつもり?」

 木村の声が甲高くなる。冷静を演じているが、怒りが滲んでいる。だが、俺には関係ない。もう何もかもどうでもいい。普通になりたいと思った。日常を送りたいと願った。だが、それは最初から無理だったんだ。自らの行いが、自らの存在が、それを許さない。自業自得だ。


「名瀬くん! 教師の指示を無視するつもり? これ以上問題行動を重ねるなら、学校として然るべき対応を取らせてもらうわよ」

 俺はドアを開けた。廊下の空気が流れ込んでくる。


「逃げるの? 自分のやったことから目を背けて、逃げるのね。それがアナタのやり方なの?」

 木村の声は、まるで糾弾するように俺を追いかけてくる。だが、俺は何も感じない。怒りも、悲しみも、何もない。ただ、深い諦めだけが胸を満たしていた。

 被害者。天海が被害者。俺が加害者。全部、決まっている。最初から、全部。俺は廊下を歩き出した。木村の声は、徐々に遠ざかっていく。


 もう、どうでもいい。自然と足は玄関ホールの方へ向かう。俺のいないところで好きにしてくれ。勝手に俺の処遇を決めればいい。面倒くさいから何でも受け入れる。酷い教師に酷い生徒――まさにゴミ箱だ。

 木村が追ってくる気配はない。好都合だった。今日はもうこのまま学校をバックレよう。もしかしたら今日が最後の登校日になるかもしれない。何の感慨も抱かないが。


 玄関ホールに到着し、俺は自分の靴箱を開ける。上履きを置いて、外履きに手を伸ばす。このまま帰ろう。もうここに用はない。


 靴に手をかけたその時、背後から声がかかった。


「名瀬くん」

 澄んだ静かな声。木村とは違う。俺は動きを止めた。靴を掴んだまま、振り返れずにいる。振り返らなくても、声の主が誰かはすぐに分かった。


「なんだよ、天海。もうすぐ授業始まるんじゃねえの」

「あははは、いやあ……そんなことよりさ、生活指導室で何してたの? また悪いことしたの?」

「そんな感じだな」

「もう、悪いことしたらダメじゃないか。名瀬くん」

 この声を発する時、天海は得意げな顔をしているのだろう。顔を見なくても、容易く想像できた。


「お前には関係ないよ。じゃあな」

「え、帰るの」

「ああ、帰るよ」

 俺は靴箱から外履きを取り出した。片方の足を靴に差し込む。かかとを踏み込んで、しっかりと履く。もう片方も同じように。上履きは靴箱に放り込んだ。振り返って天海の顔を見る気は起きない。さっさと学校を出たかった。


「待ってよ、名瀬くん」

 背後で慌ただしい音が聞こえた。靴箱を開ける音。上履きを脱ぐ音。外履きに履き替える音。バタバタと忙しない。


「私も学校サボっちゃお」

 天海の声が、すぐ隣から聞こえる。息を弾ませていた。



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