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21.


 蛾の集う点滅する街灯、雑草の生えた歩道。どこからか犬の吠え声が聞こえ、それが連鎖していく。街灯と街灯の間の暗がりは長い。空気中に淀む仄かな熱気が夏の始まりを告げている。


 何も満たされない。人を殴っても、満たされない。それどころか、俺の中の何かが擦り減っているようで、酷く疲れた。今更どうしてだ。今までずっと、人に痛みを与えて喜んでいたのに。


 歩きながら、擦り傷と痣だらけの拳を見つめる。傷だらけなのは相手だけじゃない。俺もだ。俺の手も、腕も、心も。


 ふと、前方から小さな人影が近づいてくる。腰の曲がった、ゆっくりとした足取り。街灯の明かりに照らされて、その姿が徐々に明瞭になる。


「お母さーん……お父さーん……」

 聞き覚えのある声だ。あの認知症の老婆か。またこんな時間に徘徊しているのか。俺は思わず足を止めた。老婆も俺に気づいたのか、こちらを見上げる。


「ババア、また出歩いてんのか」

 声を掛けると、老婆の目が見開かれる。そして――。


「イヤよーーーッ!! やめて! 助けてーー!!」

 予想通り、半狂乱になった。俺が近づくと、老婆は両手を振り回して抵抗する。以前と同じだ。何も変わらない。この老婆は俺のことなんて覚えていないし、俺が何度家まで送り届けても、また同じことを繰り返す。


「落ち着けって。何もしねえよ」

 俺は老婆の腕を軽く掴もうとする。だが、老婆は俺の手を振り払い、爪を立てて引っ掻いてくる。新しい傷が増えた。血が滲む。痛い。


「いてえな、クソババア」

 以前なら、ここで激しく苛立っていた。この面倒くさい老婆に対して、心の底からうんざりしていた。でも今は、どうしてか違う。


 俺は老婆の腕を掴んだまま、その顔をじっと見つめた。恐怖に歪んだ皺だらけの顔。何も理解していない目。俺を見ているのに、俺のことは何も見えていない。

 何も満たされない。この老婆も、俺も。どちらも空っぽだ。何かを求めて彷徨っているのに、何を求めているのかさえ分からない。虚空。


「……家に帰るぞ、婆さん」

 俺は老婆に寄り添い、抱えるようにしてアパートへ向かって歩き始めた。老婆は相変わらず暴れているが、その力は以前より弱く感じた。それとも、俺が慣れただけか。


 街灯と街灯の間の暗がりを抜ける。犬の吠え声が遠くで響く。老婆の体温が、俺の腕に伝わってくる。生きている証だ。


 俺は、何のために生きているんだろう。


 老婆は暴れるのを止めない。俺に痛みを与え続ける。でたらめに殴って、必死の抵抗を続ける。この何もわからない老婆は本気なんだ。周りには誰も味方がいない。右も左も理解できない不安の中で、俺のような悪漢を前にしても怯まず立ち向かい、勇気を出して自分の身を守ろうと必死なんだ。


 最初は俺も自分の身を守るために人を殴った。家庭内での虐め、学校内での虐め――受容していたわけじゃない。受容なんてできるはずがない。受け入れること以外に、俺が生きていく選択肢は存在しなかった。味方はいない。右も左も理解できない。ガキの俺には、異常を日常だと認識して正常性バイアスを働かせることでしか、自死を防げなかった。


 世界を変えるには、どんなに歪で悪辣な方法でも、それを実行するしかなかった。俺はそれ以外の方法を知らなかった。愛情や思いやり、そんなものは他人から注がれたことがない。俺に注がれ続けたのは、底なしの悪意と残忍な暴力だけだ。俺はそれしか知らなかった。ならば、唯一知るそれを実行して、闇を振り払うしかなかった。


 俺は狂っている。どこかで完全に壊れてしまった。悪意と暴力だけの人間になった。今日、気づいた。今、気づいたんだ。なんてことのない、ただの日常だったのに。ヒデオとリョウとつるんで、どこかの反社会的勢力からシマを荒らした裏切り者を制裁しろって指示を受けて、俺たちでそいつを攫って、金を貰って――。腐った日常。


 汚れ切った自分から、闇を全部振り払って本当の自分を知りたい。本当の日常を知りたい。ああ、どうして今更こんなことを考えているんだろう。もう深くまで足を踏み入れて、引き返せない領域まで沈んでいるのに。ヒデオとリョウの笑い声が脳内に響く。


 壊れた自分以外を知らない。壊れる前の自分も知らない。どこで壊れたのかも理解できない。壊れている自分こそが自分自身なのか。わからない、何もわからない。どうしてこんなことを考えている。どうして俺は――。


 気づけば老婆は暴れるのを止めていた。


 俺は立ち止まった。老婆の腕を掴んでいた手を、そっと緩める。老婆は何も言わず、ただ静かに俺を見上げている。


 さっきまでの半狂乱はどこへ行ったのか。恐怖に歪んでいた顔が、今は不思議なほど穏やかだ。皺だらけの瞼から覗かせる目が、じっと俺を見つめている。何も理解していないはずなのに、何かを見透かされているような気がした。


「……何だよ」

 俺は呟いた。老婆は答えない。ただ、その濁った瞳で俺を見つめ続ける。


 街灯の明かりが揺れる。風が吹いて、老婆の白髪が揺れた。その目には、恐怖も怒りも何もない。ただ、静かな何かがある。諦めなのか、それとも――。


 老婆の手が、ゆっくりと持ち上がる。俺は反射的に身構えたが、老婆は俺を引っ掻こうとはしなかった。その小さな手が、俺の頬にそっと触れる。


 温かい。老婆の手のひらは、驚くほど温かかった。さっきまで俺を必死に引っ掻いていた手が、今は優しく俺の頬に触れている。


 言葉が出ない。老婆は何も言わない。ただ、穏やかな表情で俺を見つめながら、頬に触れている。まるで、孫でも見るような目だった。俺の目から、何かが溢れそうになる。喉の奥が熱い。胸が締め付けられる。


 どうして。どうしてこの人は、こんな顔をする。俺は――俺は――。


 老婆の手が、ゆっくりと離れた。そして老婆は、小さく微笑んだ。認知症で何も分からないはずなのに、その微笑みには確かな優しさがあった。


「……帰ろう」


 俺はかすれた声でそう言って、老婆の肩を支えた。老婆は素直に身を任せる。もう暴れない。もう恐怖に怯えない。街灯と街灯の間の暗がりを、二人でゆっくりと歩く。老婆の体温が、俺の腕に伝わってくる。さっきまでとは違う、穏やかな温もりだった。


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