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20.


 天海と屋上でじゃれ合っていたのが、遠い過去のように感じた。つい昨日のことなのに、記憶の彼方へ消えかかっている。彼女は今、何をしているのだろう。なぜ俺は天海のことを考えているのだろう。あれは夢だったのかもしれない。そうだ、夢――。


「名瀬、やれ」


 ヒデオの声。


「うおぉ! すげえ、名瀬ちゃん!」


 リョウの声。


 俺の拳が動いていた。考えるより先に。誰かの頬を打った。柔らかい肉が歪んで、次の瞬間には硬い骨に当たる。指の関節が悲鳴を上げたが、気にならない。


 もう一度。

 今度は鼻だ。軟骨が潰れる感触。ぐしゃりという音と一緒に、温かい液体が手の甲を濡らす。赤い。ああ、血だ。誰のだ。どうでもいい。


「名瀬ちゃん、マジやべえって! ガチモードじゃん!」

 リョウの声が遠い。耳が詰まったみたいだ。水の中にいるみたいだ。殴られたヤツが倒れた。でも俺は止まらない。爪先で腹を蹴り上げる。一度、二度、三度。相手の口から変な音が漏れる。空気が抜けるような、ヒューヒューという音。


 天海の声が頭の中で響く。「名瀬くん、お腹空いた」と笑っている。


 もう一度蹴る。今度は脇腹だ。肋骨の感触が靴底に伝わってくる。ゴキリ、と何かが軋んだ。折れたか、折れていないか。どっちでもいい。


「今日は一段と荒れてるな、お前」

 ヒデオが笑っている。楽しそうに。

 俺も笑っているのかもしれない。わからない。顔の筋肉が引き攣っている。これは笑顔なのか、それとも――。


 倒れたヤツの髪を掴んで、顔を持ち上げる。目が虚ろだ。意識が飛びかけている。それでも俺の手は止まらない。

 もう一発。拳が頬骨に沈む。皮膚が裂ける音。肉が弾ける音。骨が軋む音。全部、天海の声をかき消すための音だ。

 手が痛い。いや、痛くない。何も感じない。感じたくない。それなのに感じてしまう。骨が、肉が、血が――全部、俺の手に染み付いている。


 倒れたヤツの反応が薄くなっていく。「名瀬くん、一緒に帰ろ」黙れ。

 また殴る。また蹴る。

 血の味がする。口の中が鉄臭い。唇が切れていたのか。それとも返り血が飛んだのか。

 もう、何も考えたくない。何も思い出したくない。


 ――いっそ死ね、死んでしまえ。コイツを殺してしまえば、俺も楽になれるかもしれない。


「俺も! 俺もやらせて!」

 リョウが駆け寄ってくる。

「名瀬ちゃん、交代! 俺にもやらせろよ!」

 興奮で顔が紅潮している。目が座っている。俺はリョウを無視して殴り続ける。


「バカが、やめろ。名瀬、もういい」

 ヒデオに腕を掴まれた。強い力で、後ろに引っ張られる。俺の拳が宙で止まる。


「こんぐらいで充分だろ」

 ヒデオが恍惚とした表情で呟く。タバコに火をつけて、ゆっくり煙を吐き出す。


「ぎゃはは! 見ろよ、あの顔! 最高だろ!」

 リョウが腹を抱えて笑っている。倒れているヤツを指差して、涙を流しながら笑っている。おかしくて仕方ないって顔で、膝を叩いている。


 ヒデオも、リョウも、どこか楽しそうだ。でも俺の中は、何もない。砂漠みたいに乾いている。何かが欲しい。でも何が欲しいのかわからない。もっと殴れば、わかるかもしれない。もっと壊せば、満たされるかもしれない。暴力が足りないのかもしれない。――本当に?


 天海のスカートの中のキズ痕が脳裏を過る。天海の笑顔が脳裏を過る。ああ、疲れた。


「あはは」

 笑い声が漏れた。俺の口から。どうして笑っているのか。何もおかしくないのに。おかしいのは、俺か。


「リョウ、結束線」

「おう、ちょい待ち」

 二人は手際よく、倒れたヤツの手足に結束線を巻きつける。一周、二周、三周。きつく引っ張る。線が皮膚に食い込み、その周りに細い赤い線が浮かぶ。俺はそれを呆然と眺めていた。これから、こいつはどうなるんだろう。いや、本当は気にしてもいない。どうでもいい。


「車、取ってくるわ。リョウ、見張り頼む」

「了解ー」


 ヒデオがどこかへ去った。リョウが何かへらへら喋っている。でも聞き取れない。俺の足が動いた。右足。一歩。左足。もう一歩。血の付いた手がだらんと垂れて揺れる。俺は自分がリョウに背を向けて歩き始めていることに気付いた。


「おい、どこ行くんだよ!」

 振り向かない。振り向く理由がない。鉛のような足を動かす。どこへ向かっているのか、今どこにいるのかさえ分からない。暗闇が切り裂かれ、光が目に入る。街灯か、車のヘッドライトか。それも分からない。ただ眩しい。瞬きもせず、その痛い輝きを受け入れる。


「名瀬ちゃん! おい!」

 肩を掴まれた。


「あがっ――!」

 リョウの声。それは悲鳴、痛みの声だ。

 ――拳が飛んだ。自分の拳だ。右の拳だ。血で汚れた、さっきから何度も何度も殴り続けてきた拳が。リョウがよろめいて後ろに下がる。手を顔に当てている。血が指の間から溢れている。


「触るなよ、殺すぞ」

 ただ事実を伝えるように、まるで天気の話でもするかのように、俺はリョウへ殺意をぶつけた。その時、足元で何かが光を反射しているのに気付いた。銀色のリング状のピアスだ。リョウのピアス。もう一つ、また一つ、地面に散らばっている。よく見ると、一つには小さな肉片が引っかかっている。皮膚だ。リョウの顔面の皮膚の欠片。殴られた衝撃で千切れたのか。


「脅しじゃねえから」

 俺はリョウの目をまっすぐ見た。リョウの血まみれの顔が青ざめる。今の俺なら本当にやりかねない――本気かもしれないと思ったのだろう。リョウは何も言わず後ずさる。俺はゆっくりと振り向き、リョウに背を向けた。もう、見ない。もう、相手にしない。足を前に出す。歩き始める。


 追いかけてこない。肩を掴んでこない。それでいい。頭の中が少し冷えてきた。さっきまでの混乱が少し収まってきた。でも、まだ体は震えている。手が震えている。怒りなのか、恐怖なのか、わからない。


 誰にも触られたくない。誰とも話したくない。一人になりたい。どこか遠くへ、行きたい。歩く。ただ、歩く。夜の闇の中へ歩いていく。


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