19.
「名瀬くん、名瀬くん――」
「うるせえ」
放課後、屋上で寝転んでいた俺の隣に天海は座った。十六時を過ぎても、まだ正午のように明るい。もうすぐ夏が来る。生徒は皆、すでに半袖のスクールシャツを着ている。この季節、ブレザーを羽織っている生徒は俺と天海だけだった。
「もう梅雨、明けたのかなぁ」
「そんなわけねえよ。つい先週沖縄が梅雨明けしたばかりだ」
「でも最近晴れてる日多くない?」
「たまたまだろ」
日差しを浴びる天海の影が斜めに伸びている。俺は天海本体に目線を送っていなかったが、その影から天海が首を傾げたのがわかった。最近は天海の顔を見なくても、声色を聞けば表情までわかってしまう。それが無性に腹立たしかった。
「ねえ、名瀬くん。最近クラスで何が流行ってるか知ってる?」
「知らん」
「だよね。教えてあげようか」
「どうでもいい」
「まあまあ、名瀬くん」
天海はいつも食い下がる。俺が話を切り上げようとしても、お構いなしだ。俺は自分でもマイペースな人間だと自覚している。だが、天海はそれ以上にマイペースだ。
「駅前に洋菓子屋さんが新しく開店したんだよ。で、そこのクッキーシュークリームがカリッカリで最高に美味しいんだって」
「そうか」
「外はカリカリ、中はトロトロ、だよ。甘くて美味しいよ」
「そうか」
心底どうでもよかった。テレビの向こう側で繰り広げられる芸能人の泥沼不倫報道ぐらい、どうでもよかった。何がシュークリームだ。俺みたいな乱暴者に話しかける話題として、これ以上そぐわないものはないだろう。
「興味ないの、名瀬くん」
「お前、食い物の話好きだよな」
「あははは、そんなことないよー」
天海は笑いながらスクールバッグの中をまさぐっている。俺はその不可思議な挙動に惹かれて、自然と目線が動いた。天海は膝を揃えたまま、足先だけを内に向けた姿勢でぺたりと地べたに座り込んでいる。
「実は今日ね、急いで買ってきたんだ」
天海が取り出したのは、中央に筆記体の英語が書かれた小さな紙袋だった。話題に出していた洋菓子屋のものだろう。察しの悪い俺でも一目でわかる、若者が好みそうな小洒落たデザインだ。
「いらん」
「なんでそういうこと言うの」
「食わん」
「食べてよ」
天海は寝転がる俺の身体を両手で軽く揺する。それを払いのけるように、俺は反対側に寝返りを打った。「ちょっとっ」天海の腹立たしそうな声と共に、彼女の両手に込められる力が強くなる。さっきよりも激しく俺の身体を揺すってくる。
「うぜえ、天海」
「名瀬くーん……」
身体を揺すられ続けても、俺は知らんぷりを続けた。天海は呆れたように大きくため息をつくと、俺の身体から両手を離した。
それ以上、天海は何も言おうとしなかった。俺と天海しかいない屋上に、沈黙が包まれる。その沈黙に、俺は多少なりの違和感を覚えた。天海はうんざりするほどよくしゃべる。俺が口を閉ざしていても、延々とくだらないことを吐き出し続ける。それなのに、今日はすんなりと静かになった。
まあ、どうでもいい。このまま無視を続けたら、勝手に一人で帰ってくれないだろうか。横向きで寝転がり、背中に天海の気配を強く感じながら俺は瞼を閉じた。よし、決めた。今日の天海はいつもよりおとなしい。無視を決め込もう。さっさと帰れ、天海よ。
俺が瞼を強く閉じた直後だった。「――名瀬くん、可愛いね」天海の囁くような声が、吐息と共に俺の耳に注ぎ込まれた。天海の唇が耳元の産毛に触れた気がして、うなじの短い髪が立つ。あまりにも突然で、無防備で無警戒だった。俺の背筋にはゾクゾクとした何かが這い上がり、両肩が大きく跳ねた。
「ッ! ――天海っ、お前ふざけんなっ!」
俺は飛び上がり、背後にいた天海を振り返って睨みつけた。もう離れたはずなのに、耳元には強く天海の気配が残っている。天海は楽しそうに満面の笑みで俺を見つめていた。
「あらら、刺激的すぎた?」
「黙れ」
「今度ああやって無視されたら……吐息じゃなくて舌を捻じ込んでみようかな」
「殺すぞ」
「いやーん、こわーい」
天海の声は普段より二音ほど高く、丸っこく柔らかい。明らかに俺を挑発している。ここで不機嫌になったり腹を立てたりすれば、天海の掌の上で踊ることになる。それは癪だ。かといって無視を決め込むのも負けな気がする。俺はどうすればいいんだ。天海という存在は、本当にムカつく。
「名瀬くんは攻め攻めタイプだから防御が弱いんだねえ。攻めるだけじゃなく守る方法を勉強しなよ」
「はあ……もういいから、そういうのは」
「じゃあ名瀬くんの負け?」
「……早くシュークリームを出せ」
天海は何も言わず、口角を上げながら俺の前に先ほどの紙袋を差し出した。静かにそれを受け取る。紙袋は思っていたよりもずっしりと重い。シュークリームをあまり食べたことはないが、ふんわりと軽いものだと思っていた。
「――名瀬くん?」
嗜好品に疎い俺は予想外の重さに戸惑った。天海の目には不自然に映っただろう。それを悟られたくなくて、俺は急いで紙袋を開けた。中にはラッピングに包まれた二つのシュークリームが入っている。
嗅ぎ慣れない香りが鼻をくすぐる。ラッピング越しでも、生地の香ばしさが鼻先をかすめた。砂糖とバターの匂いだろうか。
「ねえねえ、どう? いい匂いでしょ」
天海が嬉しそうに声をかけてくる。俺は返事をせず、透明なラッピングを破いた。
「早く食べてよー」
天海が催促してくる。うるさい。俺は黙ってシュークリームを手に取り、大きく口を開けて齧りついた。
カリッ、という音が耳の中で響く。次の瞬間、中からトロリとしたクリームが溢れ出しそうになって、慌てて口を大きく開けた。
――甘い。やたらと甘い。クリームが舌に絡みつき、口の中が砂糖まみれになる。トロトロのクリームとは対照的に、生地は焼きたてクッキーのようにサクサクだ。
「どう? 美味しい?」
「……甘くてサクサクする」
「あはは、それって美味しいってことでしょ」
違う。そんなこと言ってない。だが、もう一口齧った自分の行動が、その否定を裏切っている。
「――美味しいでしょ?」
天海が嬉しそうに尋ねてくる。
「……重いほどクリームが詰まってるな」
「なにそれ、どういう感想なのさ」
「甘い」
「だから美味しいんじゃん」
俺は黙々と、シュークリームを食べ続けた。天海の言う通りだなんて、口が裂けても言えない。
「名瀬くん、全部食べちゃったね」
気づけば、手の中のシュークリームは跡形もなく消えていた。天海が俺の手元を見ながら、嬉しそうに笑っている。その笑顔には勝ち誇ったような満足感が滲んでいて、妙に腹立たしい。
「……うるさい」
「ねえ、もう一個も食べていいからね。名瀬くん、男の子だから……二つ買ってきてよかったよ」
天海は自分の分を買わなかったのか。俺は何か言わなければいけない気がした。「お前も――」言葉が口をついて出かけたところで止まる。「お前も食えよ」と素直に言えばいいだけなのに、その簡単な一言が喉に詰まって出てこない。きょとんとした表情で俺を見つめる天海にイライラする。
俺は黙って紙袋に手を伸ばし、もう一つのシュークリームを取り出した。そして、それを天海の前に差し出す。
「名瀬くん?」
天海が不思議そうに俺を見つめる。俺は視線を逸らしたまま、何も言わずにシュークリームを突き出し続けた。
「一個で十分だ」
「え、でも――」
「甘すぎる。二つも食ったら気持ち悪くなる」
嘘だ。本当は美味かった。だが、天海にそれを悟られたくなくて、俺は視線を逸らした。それに、天海にも食べてほしいと思った。別に理由はない。天海が自分の金で買ったものだから、当然天海も食べるべきだ。それだけだ。
一瞬だけ沈黙に包まれた。天海が何も言わない。気配で察すると、天海は俺の顔をじっと見つめているようだった。
「ええと……うまかったから、お前も食えよ」
自分でも歯切れの悪い言い方だと思った。少し唇が震えていた。言葉を吐き出した瞬間、自己嫌悪に陥る。今の俺は、本当にみっともない。
「……名瀬くん」
天海が小さく呟いた。その声は、少し震えている。
俺が差し出したシュークリームを天海は両手で受け取った。そして――笑った。
いつもの挑発的な笑みでも、楽しそうな笑顔でもない。純粋に、心の底から嬉しそうな笑顔だ。目を細め、口角を限界まで上げて、頬が緩んでいる。シュークリームを両手で大切そうに持ちながら、天海は俺を見つめて笑っている。
「ありがとう、名瀬くん」
優しい声だった。天海の声が弾んでいる。その笑顔を見た瞬間、俺の胸が妙にざわついた。何だこれは。なぜこんなに動揺している。たかがシュークリームを渡しただけじゃないか。
「ありがとうって何だよ、お前さ――」
俺は視線を逸らし、ぶっきらぼうに答える。
「そもそも天海が勝手に買ってきたものだろうが。意味がわからん、お前の物だろ。なんでお前がありがとうって言うんだよ。本当に変わってんな、ホント変なヤツ。これは俺のシュークリームじゃないだろ。つーかいくらだよ、俺が払う。なんかムカつくし」
自分では何も意識していないのに、口から言葉が次々と溢れ出る。わからない。俺はただ困惑していた。そして焦っていた。何故か手のひらには大量の汗が滲んでいた。
天海の表情が変わる。さっきまでの優しい笑顔が、楽しくて仕方ないという表情に変わる。天海は口元を手で押さえようとしたが、間に合わなかった。
「あははははっ!」
天海が大声で笑い出す。両手で腹を抱えて、身体を前後に揺らしながら笑い続けている。シュークリームは膝の上に置かれ、天海は完全に笑いに支配されていた。俺は顔が熱くなるのを感じた。天海の笑い声が屋上に響く。笑いすぎて涙が溢れ、目尻を拭いながらも、また笑い出す。その様子を見ていると、俺まで恥ずかしくなってくる。
「名瀬くんっ……名瀬くん、本当に……っ!」
天海が何か言おうとするが、笑いが込み上げて言葉にならない。目に涙を浮かべ、息も絶え絶えになりながら、それでも笑い続けている。
「何だよ」
「素直じゃない……あはは……可愛い……っ!」
「……もういい。帰る」
俺が立ち上がろうとすると、天海が慌てて俺の腕を掴んだ。
「待って待って! まだシュークリーム食べてないから!」
天海はまだ笑いを堪えきれていない様子で、声が震えている。
「帰る」
「ダメ! 待ってよ、名瀬くん!」
「帰る」
「ダメだよっ!」
「帰る! 手を離せ、天海!」
「ダメっ!」
「帰るっ!!」




