16.
「こいつの母親、風俗嬢で誰とでもヤるらしいぜ」
廊下に不規則に散らばった教科書と文房具。俺は四つん這いになってかき集める。
「こいつの父親、薬キメたまま運転して事故って死んだらしいぞ」
安物の、アルミ製の筆箱を蹴られる。留め具が外れ、鉛筆と消しゴムが散らばる。生徒の笑い声が湧き立つ。
「汚いビニール袋、いつも持ち歩きやがって。カバンも買えないのかよ」
四つん這いのまま腹を蹴り上げられる。嘲笑が降り注ぐ。
「本人も汚い。俺たちで綺麗にしてやろう」
掃除用バケツの水が頭上から落ちてきた。全身がずぶ濡れになる。笑い声で校舎が揺れる気がした。
水が服の内側に入り込み、氷の手が背筋をなぞる。心臓の鼓動が一拍遅れ、全身を白いノイズが包む。冷たさを通り越して痛い。全身のキズに沁みる。「また教科書が濡れた。乾かさないと。こんなに濡れたら時間がかかるだろうな」そう思う。俺に行き場はない。暖かさを知りたい。
テーブル越しに聴こえる「がりっ」「しゃりっ」という音。顎の骨を伝い、響くような小さな破裂音。
その音の主は天海だった。グラスを口に付け、水を流し込む。同時に浮かぶ氷も含んで強く歯を立て、噛み砕く。「ぎりっ」口の中で氷塊が崩れる音がした。残った薄氷を歯で削り、水へと変えていく。
「あっ……」
天海がふと我に返ったように声を漏らす。氷食は異食症に含まれる、俺は知っていた。原因は多岐にわたるが、ストレスや不安など、精神的なものが多いらしい。それも、俺は知っていた。
「あははは……ごめんごめん。無意識にしてた」
天海は誤魔化すように、はにかんだ笑顔を見せる。グラスの中の氷はすべて消えていた。
「どうして謝る?」
「耳障りだったんじゃないかなって」
「いや……つーか氷なんて食うなよ」
俺の言葉に、天海は苦々しく笑うだけだった。天海はよく笑う。だが、その笑いの九割は嘘だと俺は気づいていた。こいつは持たせるために笑っているだけだ。
「ここは氷よりも美味いものが食える場所だろ」
「うん、そうだね」
天海はまた笑う。だが、その瞳の奥は笑っていない。黒く濁っている。何かを誤魔化している。あの時、笑っていた天海の瞳は澄んでいた。俺は酷く腹が立った――天海にではなく。
「お待たせしました」
先ほどの店員がやってきて、テーブルに料理を並べ始める。皿の底がテーブルに触れるたび、ことりことりと規則正しい音が響く。テーブルが色鮮やかに染まっていく。料理がすべて運ばれた頃には、皿に覆われてテーブルは見えなくなっていた。湯気の向こうで、天海の目が一瞬丸くなる。
「……俺のフォッカチオ、取って」
「ねえ、女子一人で食べきれると思う?」
「ああ」
「いや、無理だよ」
「食べ物を粗末にすんな、天海」
「名瀬くんさ、そんな背高いんだから……いっぱい食べないとね」
「黙れ」
「名瀬くん、どれ食べたい?」
「……はぁ」
「ねえねえ、名瀬くん。冷めちゃうでしょ」
「その……ハンバーグ」
「あっ、ダメ。これ私も食べたい」
「ふざけんな、天海」
「あははは、じゃあ半分こ。はい、名瀬くん」
「ん」
天海が半分に切り分けたハンバーグにフォークを突き刺す。デミグラスソースが滴るそれを、俺は大口を開けて一口で食べた。まだ熱い。舌が若干痛い。だが美味い。数回咀嚼して、ごくりと飲み込む。
「おお~、豪快。いいね、名瀬くん」
天海は嬉しそうに笑った。彼女のその瞳は濁りなく澄んでいた。
「美味いぞ、天海」
「ふふ、よかった。そう言ってもらえて、私も嬉しい」
「何がだよ。作ったのはお前じゃないだろ」
「そうだけどさあ」
俺は口の中を冷やすため、グラスに口を付ける。一口で喉のざらつきが洗い流され、冷たさが線を描いて身体の中を真っ直ぐ通り抜けていった。
天海は色とりどりの料理を取り皿に分けている。多くの料理を頼んでいたのは、最初からこのつもりだったようだ。余計なおせっかいだ。うざったい。
目の前に置かれた取り皿の料理を、俺は黙々と食べていく。グラタン、シュリンプ、チキン。想像通りの味だ。だが……美味い。
「わあ……これは、もっと頼んだ方がいい?」
「やめろ」
「はは、冗談だってば」
「……天海も食べろよ」
「うん、食べるよ。いっぱい食べる人、好きだから見とれちゃった」
「あっそ」
「ふふん、私もハンバーグから食べよー」
天海はハンバーグを一口大に切り分けてから、フォークで口に運ぶ。咀嚼して飲み込むたびに、大袈裟なほど口元を緩め、頬を綻ばせる。
俺のスプーンやフォークの動きはぎこちない。自分の食べ方が汚いと自覚しているから、人前では意識してしまう。丁寧に、綺麗に食べようとするほど、かえって汚くなる。小学生の頃、給食の時間、いつも笑いものにされた。
「名瀬くん、美味しいね」
「そうだな」
「どうしたのさ、急に手を止めて」
「なあ、天海……俺の食べ方どう思う?」
俺の質問に、天海の口元が「は」の形で留まった。フォークを持っていない左手の人差し指を唇に当て、小鳥のように首を傾げる。天海の長い睫毛が数回揺れ、口元の形は、ようやく「は」から変わる。
「美味しそうに食べるね」
「……そっか」
俺は天海から視線を外し、切り分けられたハンバーグを見つめながら、そっと息を吸い直す。行き場を失った視線を泳がせ、誤魔化すようにグラスの水を飲み干した。
「うーん、次は何を食べようかな。ねえねえ、名瀬くん。ハンバーグ以外では、どれが美味しかった?」
ハンバーグを食べ終えた天海は、左手で口元をなぞる。皿と俺の顔を交互に見ながら、次は何を食べようか悩んでいるようだ。
「……どれも美味しいよ、天海」
天海は返事をしなかった。ただ満面の笑顔だけを見せて、嬉しそうにフォークを動かす。俺の両手は汗ばんでいた。さっきより暖かいと感じる。そっとファミレスの窓から外を見ると、雨は止んでいた。暖かいのは、そのせいだと気づいた。
*
テーブルには空っぽの皿が並んでいた。途中、天海が「もうお腹いっぱい」と悲鳴を上げた。結局、残り全部――七割以上を俺が食べた。別に苦ではなかった。なんなら俺はまだ食べられる。
「これで満足か。天海」
俺は一息つき、五杯目の冷や水を飲み干した。
「ふふ、美味しかったね。名瀬くん」
天海はグラスを傾け、二杯目の冷や水を飲む。先ほどとは違い、グラスの中の氷はすべて浮いていた。
「もう氷は食わないのか」
「あっ、そういえば食べてないね」
「なんだよ、それ。他人事みたいに言いやがって」
「あははは……無意識なんだってば」
天海は力なく微笑んだ。笑い方にも色々あるんだな、と俺は思う。俺は背もたれに身体を預け、腹をさすった。肩の力が抜け、代わりに瞼が重くなる。
「ちょっとお手洗い行ってくるね」
俺は欠伸をしながら、片手を軽く上げて了解の意を示した。天海の背中が完全に見えなくなるのを待ってから、テーブルに置かれた伝票を手に取る。
「……本当に随分と頼んだな、あいつは」
俺は気だるげに席を立ち、早足でレジに向かった。レジは無人だった。会計を済ませるため、備え付けの呼び出しボタンに触れる。
店員が「お会計――円です」と言う。小銭だけ先に皿へ落とす。硬貨が「からん」と転がり、紙幣で音を蓋する。店員からレシートを受け取り、乱雑に握りしめて制服のポケットに突っ込んだ。
「ごちそうさまでした」
最後に店員へ軽く頭を下げ、俺は一人でファミレスを出た。濡れたアスファルトが店の灯りを薄く映し返している。雨は止んだが、雲は低い。遠くでトラックのブレーキが鳴いた。
「次……天海に会ったら怒られるだろうな」
灰色が黒に変わりきれず、空は薄汚れた雑巾のように街へと被さっていた。月は見えない。代わりに、濡れたマンホールの蓋が輝いて月に見える。俺は眠たげな目を擦り、一人静かに歩き始めた。




