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15.



 中学から帰宅して早々、母親に服を脱げと言われた。俺は大人しく従う。ワイシャツのボタンを外して脱ぎ、ベルトを外してから制服のズボンを脱ぐ。それらをそのまま床に置くと、母親の怒号が飛んだ。「服は畳め」母親は俺のベルトを拾い上げ、鞭代わりにして腹部目掛け振り下ろす。ビュンと空気を切り裂く音の後、皮膚を跳ねる音が居間に響いた。


 皮膚に熱が(にじ)み、遅れて電気を流されたような疼痛(とうつう)が走った。俺は痛みに奥歯を噛む。腹部の古いキズの上に、真新しいミミズ腫れがうっすらと浮かび始める。「そんな畳み方は教えてない。丁寧に畳め」今度は右肩をベルトで打たれる。「っう……!」肩は腹部よりも皮膚が薄く、痛みが骨に響いた。「何よ、その顔」痛みに顔を歪ませただけだが、母親には反抗的な態度だと映った。同じ部位、再び右肩にベルトが打ち下ろされる。その一撃で表皮が裂け、血が飛び散った。


 制服を丁寧に畳み終え、下着一枚でピンと背筋を伸ばし、母親の前に直立する。全身が震えていた。恐怖ではなく、激痛による身体反射だった。「パンツも脱げ」俺は躊躇わず脱ぐ。丁寧に畳み、制服の上に置く。


 外気に下腹部が触れ、ヒリヒリと痛んだ。二日前、酔った母親とその交際相手の前でくしゃみをしてしまった。それだけで二人の機嫌を損ね、生え揃ったばかりの陰毛に火を付けられた。下腹部には軽度の火傷が残り、皮膚の一部は(ただ)れて赤く染まっている。


「汚らわしい」

 母親は吐き捨てるように言った。でたらめにベルトを振り回し、俺の全身を何度も打ち付ける。目尻に涙が浮かぶ。痛みから逃れようと身をよじらせた。「――姿勢っ!!」母親が叫ぶ。ベルトを持つ手にさらに力が込められる。俺は痛みに耐えながら必死に直立を保つ。


 何も考えるな。これは災害だ。じっと通り過ぎるのを待つしかない。感情を殺せ。身体と精神を切り離せ。この身体は自分の身体じゃない。幽体離脱だ。俯瞰的に身体を見るんだ。そうやって自己暗示で痛みを忘れる。一人称ではなく三人称で暴力を眺めれば、痛みに耐えられる。


 耐えろ、耐えろ、耐えろ、耐えろ。自分を殺して――耐えろ。





「好きなもの、なーんでも頼んでね」

 俺の正面に座る天海がテーブル越しに笑顔で言った。シャッター通りを後にして、強引に駅前のショッピングモール内にあるファミレスまで連れてこられた。ハンバーガーをご馳走になったお礼がしたいらしい。正直、どうでもいい。早く解放してほしいと俺は思う。


 メニューを手に取り、ページをめくる。特に目を引く食べ物はない。写真を見ただけで味が想像できそうなものばかりだ。適当に一番安いものを頼もう。そして、さっさと食べて解散しよう。ただ帰宅するだけのはずだったのに。高校を出てから何時間経ったのだろうか。


「じゃあこれにする」

「……は?」

 注文するものをメニューで指差すと、天海は信じられないという目つきで声を漏らした。俺は一番安いパンの写真を指で押さえる。押されたラミネートの下で、印刷のフォッカチオが静かにへこむだけだ。


「これだけでいい」

「いやいやいやいや!」

「好きなものを頼めって言ってただろ」

 天海の態度から、彼女が何を言いたいのかある程度察しがつく。天海の厚意による行動、それは否定しない。若干複雑ではあるが、ありがたいとも少し感じる。ただ、俺にとって他人の金で食べる飯ほど不味いものはない。


「ねえ、本当に男子高校生? 遠慮しないでいいのに」

「するわけねえよ」

 家族連れの笑い声、友人同士の談笑――周囲の客層を見渡すと、よそよそしい雰囲気の俺たち二人は場違いに映る。俺は天を仰ぎ、身体を赤いソファに預けた。ソファは体温を吸い取らず、角だけがやけに硬い。


「……じゃあ店員さん呼ぶよ」

 天海はそれ以上何も言わず、テーブルに備え付けられた呼び出しボタンに触れた。店内に流れる流行歌、笑い声、フォークの触れ合う音、他人からの厚意すべてが煩わしい。


「ご注文はお決まりでしょうか」

 俺たちとそれほど年齢の離れていない、茶髪を後ろで結った女性店員がやってくる。無表情で流れるように紡がれる定型句は、まるで胸の名札から直接流れてくるようだ。

「ええと、これとこれと――」

 天海が淡々とメニューを指差しながら注文を告げていく。俺は眠たげに目尻を擦り、天井を見上げた。


「以上でよろしいですか」

「はい。お願いします」

 店員は端末を胸に戻し、一定の歩幅で離れていく。伝票を押さえ、踵を返す。名札だけが揺れた。


「随分と頼んだな。お前、結構食う方なのか」

「まあね。私、お水取ってくる」

 天海はテーブルとソファの間から身体を横にスライドさせ、通路へ出る。髪を揺らしながら歩いていく後ろ姿を、俺はぼんやりと眺めていた。


 ふと思った。天海は姿勢が良い。身長はそれほど高くない、というか女子高生の平均よりもきっと低い。ただ、姿勢が人並み以上に良いから実際の身長より高く見える。俺も姿勢は良い方だ。


 幼少期から背筋を伸ばせと母親に殴られていた。姿勢が悪ければ殴られた。母親は教育熱心なのか、そうでないのか、よくわからない。服の畳み方や姿勢には厳しい。でも俺は箸の持ち方もスプーンの使い方も下手だし、食べ方だって汚い。俺の家庭環境のすべてが歪んでいると気付いたのは最近のことだった。


 俺は自分の手のひらを見た。手のひらに負った火傷の痕は、まだ残っている。俺は沢山の罰を受けてきた。母親から言わせれば、罪を犯した俺が悪いのだという。罪……罪を犯せば、罰を受ける。母親から何度も言われてきた。俺の罪とは。


 罪、ティッシュを二枚同時に使うこと。罪、勝手にソファへ座ること。罪、勝手に冷蔵庫を開けること。罪、勝手に風呂やトイレを使うこと。罪、理由もなく笑うこと。罪、反抗的な目つきをすること。罪、母親の言うことを否定すること。罪、母親の彼氏を肯定しないこと。ああ、まだまだある。数えきれないほどある。


 罪、良い子にしないこと。罪、お前は悪い子に生まれてきたこと。罪とは。それじゃあ、生まれてきたことが――。「お前なんて堕ろせばよかった」母親の怒鳴り声が耳に響いた。「お前が私の人生を壊した」母親の怒鳴り声が耳に響いた。「憎らしいガキ――」口に出さなくても俺は分かってるよ、母さん。



「名瀬くん。はい、お水」

 テーブルの上に二つのグラスが置かれる。天海はそっと一つを俺の方へ寄せた。グラスの中で氷がカランと音を立てた。


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