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14.



 虐めは人間だけでなく、野生動物にも見られるらしい。自らの優位性を示して集団内の序列を維持するため、あるいは弱い個体を排除するため――どちらも群れ全体の利益を優先し、生存確率を上げる本能的な行動だと俺は思う。野生動物の本能は理にかなっている。では、人間はどうして虐めをするのか。


 登校してまず教室でやること――机と椅子にびっしり書き込まれた落書きを消す。中学に入りたての頃は単純な罵倒が多かった。汚物、気持ち悪い、ばい菌。そんな単語ばかり。最近は絵が増えた。男性器や女性器の絵。周りからの(あざけ)りを一身に受けながら、俺は消す、消す、消す。


 自分の感情がよく理解できない。このような境遇にありながら、俺は何も感じていない。誕生したばかりの赤子が自然に呼吸をするように、物心ついた頃からずっと虐めを受けてきた俺は、酸素を身体に取り込むのと同じように、それを受け入れてきた。


 手を差し伸べてくれる人はいない。どの教師も見て見ぬふりをしている。だからといって、俺は教師を恨んではいない。虐めを受けていても、俺は大して辛そうにしていないし、誰かに助けを求めたこともない。それに俺の母親は普通ではないから、教師は積極的に関わろうとしない。ある時、母親が電話越しに教師を罵倒しているのを見たことがある。理由は知らない。ただ母親は普通ではないから――それで理解できる。


 人間は愚かだ。野生動物の虐めは、最終的に弱い個体を死へ導く。もし俺への仕打ちが群れ全体の利益を優先する行動だとしても、俺がこうして生きている以上、無駄な労力を使っているだけだ。


 いっそのこと、誰か俺を殺してくれ。俺は別に生きたいとは思っていない。ただこの世界に生まれたから生きているだけ。生き物が呼吸するように、俺が虐めを受け続けるように、ただ生きているということを受け入れている。



 だから早く、殺してくれよ。





 アーケードの蛍光灯は三本に一本だけが生き残り、残りわずかな寿命を撒き散らすように瞬いていた。静寂の中、蛍光灯のジジジというノイズだけが耳に残る。閉じたシャッターの波形に沿って古びたポスターがめくれ上がり、アイドルの目だけが色を保ってこちらを見ているのが不気味だ。


「どのお店も開いてないね」

 天海が悲しそうに言った。表情から笑顔が消え、考え込むように唇を結んでいる。俺は天海のその珍しい表情を見つめた。


「昔はもっと栄えていたな」

 剥がれて端が欠けたタイルで(つまづ)かないよう、時折足元を見ながら俺は言った。一歩進むごとに、雨で浮いた埃の匂いが強まる気がした。


「そうなの?」

「ああ。買い物っつったら……みんな、ここへ来てた気がする」

「ふうん。なんで誰も来なくなっちゃったんだろ」

「数年前、駅前にショッピングモールができた」

「……なるほどね」

 天海は納得したように何度も頷き、ずっと遠くを見つめる。それは視覚的な意味ではなく、深く遠い記憶を手繰り寄せているようだった。彼女の表情から、いつもの面影は消えていた。


「どこがか栄えれば、どこかが寂れるんだよね」

「人も有限だからな」

 当たり前のことだ。この世界は限られた資源の奪い合いで、それは人間に限らない。誰も振り返らない通り、雨で冷えた風だけが俺たちの間を通り抜けていく。


「ここで働いていた人たちは、どこに行ったの?」

「知らん、みんな自殺した」

「不謹慎、笑えない」

 そう口にしながら、天海の吐息が少しだけ低くなる。彼女の前髪が一瞬揺れ、俺を強く睨んだ。怒鳴っているわけではないのに、確かな重さが落ちた。


「笑わせるつもりで言ってない」

「ふうん」

 軽い相槌を一度だけ打ち、天海はそれ以上何も言わなかった。俺から顔を背け、前へ進む。一定の歩調で、靴底が地面を打つ音だけがその場に残った。俺も彼女に合わせるようにして横を歩く。


「あ、そうだ。ねえ、名瀬くん――」

 天海が俺に向けて何かを言おうとした、その瞬間だった。欠けたタイルの角に天海の爪先が引っかかる。腕が浮き、身体が半歩遅れて前のめりになる。彼女の肩がわずかに回転し、鞄が宙を舞った。


「きゃ――」

 反射的で無意識だった。俺は天海の腰に左手を回し、右手で背中を支えて強く引き寄せる。彼女の靴先がタイルを擦りながら止まった。崩れた重心を支えるように、俺自身の身体でそっと受け止める。布越しに感じる天海の体温と、地面に鞄と折り畳み傘が落ちる音――それで俺は正気に戻った。


「あっ……いや、ごめん」

 俺は瞬時に両手を離して、呆然と俺の顔を見つめる天海から距離を取る。俺は天海の顔から視線を外し、目の前に落ちた鞄と折り畳み傘を拾おうとしゃがみ込む。天海が転倒しようが知ったことじゃない。なのに、やってしまった。余計なことをした。俺らしくない、最悪だ。


「……どうして謝るの?」

 しゃがみ込む俺の頭上から天海の声が降ってくる。俺は何も返答せず、鞄と折り畳み傘を拾い上げた。立ち上がるのを躊躇する。天海の顔を見たくなかった。


「ふふ、何してるのさ」

 傍から見れば、しゃがみ込んだまま動かない俺は奇妙だろう。天海に鼻で笑われてしまう。過去の記憶が蘇る。嘲りや(さげす)みを受けた記憶。俺は嫌われ者だ。嫌われ者なのに、余計なことをした。嫌われ者が余計なことをすれば、決まって起こることがある。拒絶と嫌悪だ。天海の顔を見れない。


「ねえ、大丈夫?」

 天海がゆっくりと近づいてくる。俺の正面でしゃがみ込んだ。俺は恐る恐る顔を上げる。



「ありがとう、名瀬くん」

 天海は笑っていた。転びかけた余韻をまだ引きずっているのか、頬は紅潮して照れ臭そうに見えた。お互いの睫毛が触れ合いそうなほど、近い距離を感じた。普段よく見せる余裕そうな笑みや、皮肉めいた不敵な笑みとは異なる――今の彼女の笑みは、初めて見る表情だった。



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