12.
小さな身体を震わせ、俺は床に嘔吐した。食道から逆流したそれは咀嚼しきれておらず、原型を留めていた。臭いと形状から牛丼だとわかる。怒号が響くと同時に、平手打ちが俺の顔面を襲った。
「食べ物を粗末にするな」
母親だった。うつむく俺に向かって、再び平手打ちを食らわせる。母親は床の吐瀉物をティッシュで拭い取ると、元々牛丼が盛り付けられていた容器へ、ティッシュに付着した吐瀉物を戻した。夜の仕事を終えた母親は、今朝、牛丼チェーン店で大盛の牛丼を十人分ほど買ってきていた。その半分を無理やり食べさせられたところで、俺は泣きながら嘔吐を繰り返していた。
「お前のために買ってきたんだから食え。まだ残ってる」
まだ手を付けられていない牛丼が五つと、俺が嘔吐した咀嚼しきれていない牛丼が、俺の目の前に置かれた。もう限界だった。殴られたくないから必死に飲み込んでいたが、身体が本能で拒否反応を示している。口の中に少しでも何かが入れば嘔気が襲い、えずくのが止まらなかった。
躊躇う俺に、母親は力づくで嘔吐したばかりの牛丼を無理やり口へ捻じ込んできた。えずいて吐こうとすると、母親が俺の唇を押さえつけ、飲み込ませようとする。呼吸もまともにできず、苦しみと不快感で脳の奥に激痛が走った。
「お前さぁ、汚いっ!」
口を塞がれた俺は、鼻腔から牛丼を鼻水とともに噴き出した。鼻の奥がジンジンと痛む。鼻と喉に残渣物が残っているせいか、それとも気管に入ったせいか、呼吸音がゼエゼエと鳴っている。湿った咳き込みが止まらない。
「もう吐くんじゃねえよ! 食え! 食え――!」
咀嚼していないのに、牛丼は形を変えていく。嚥下と嘔吐を繰り返すたび、少しずつドロドロになっていく。俺の顔面はビショビショに濡れていた。涙、汗、鼻水、唾液、胃液、血液――全身を殴られながら、俺はこの地獄が早く終わってくれと祈っていた。
俺は屋上で目を覚ました。空から雨が降り始めている。顔面がビショビショに濡れていた。俺が見る夢は、いつも過去の記憶ばかりだ。頭が痛い。呪いのようなものだ。こんな厄介なもの、消し去ってしまいたい。
夏も近いのに、今日は肌寒かった。昼休みから授業にも出ず、ずっと寝ていた。放課後を知らせるチャイムが聴こえる。寝付く前は太陽が出ていて、あんなにも晴れ切った青空だったのに、今は灰色の雨雲が太陽を覆っている。
遥か遠く、空の向こうが鋭く光った。半拍遅れて、巨人が太鼓を叩くような轟音が響く。雨が止む気配はない。最悪だ。俺は屋上から校内へ戻り、雨水に濡れた髪を手で軽く払った。
「やあ」
突然声をかけられ、俺は思わず肩を震わせた。音もなく階段を上がってきたのは天海だった。いつも通りの不敵な笑みを浮かべ、雨に濡れて憂鬱そうな俺を踊り場から見上げている。
「……なんだよ」
「一緒に帰ろ」
天海は目を細め、さらに深く笑った。あの日――駅前のハンバーガーショップに立ち寄った日から、放課後になると天海が声をかけてくるようになった。
「断る」
俺は毎回同じ答えを返す。それでも天海は懲りずに何度でもやってくる。
「ふうん。でもね、今日はきっと雨、止まないと思うよ」
笑みを崩すことなく、天海は淡々と言った。
「あ? 何が言いたい」
「私、傘持ってるよ」
水色の小さな折り畳み傘を鞄から取り出し、わざとらしく掲げた。そして天海はふふんと誇らしげに鼻を鳴らし、俺に微笑みかける。
「なあ、お前……」
「なーに、名瀬くん」
「きもちわりーよ」
俺はそう言い捨て、天海には目もくれず階段を降り始めた。あの容姿なら、見た目も性格も良い男などすぐに見つかるだろう。嫌われ者の俺に近づこうとするのは、何か裏があるに違いない。気に入らない人間を痛めつけてほしいとか――どうせそんなくだらない理由だ。
「ちょっとちょっと、名瀬くん」
「うおっ!?」
踊り場で天海とすれ違う瞬間、後ろからブレザーの襟をがっしりと掴まれた。華奢な見た目に反して天海の力は強く、バランスを崩して足を滑らせそうになる。
「いきなり何するんだ! 危ないだろ!」
「営業トークさせてよ」
天海に向き直って怒鳴る俺を見ても、天海は怯える様子もなく、何も悪びれずにニコニコと笑いながら言葉を続けた。
「はあ……? え、営業トーク?」
あまりにも意味不明な天海に、俺は毒気を抜かれてしまう。毎回だ。毎回天海特有のペースに呑まれて、俺は強い言葉をぶつけ続けることができなくなる。どれだけ声を荒げても、天海には響いていない。
「傘をさして帰った方がいい、三つの理由を説明しましょう。第一に」
「おい、天海。そういうのはいいから――」
「まず雨雲には工場や自動車の排ガスによる汚染物質が含まれています」
俺の言葉を遮り、天海はさらに話を続ける。本当に面倒くさい女だ。
「ゆえに頭髪へ浴びれば将来禿げる可能性が高まります、これが第一。第二、雨には雑菌が含まれているので制服が臭くなります。ブレザーは今日洗っても乾かないから、明日登校する時に生乾き臭がします。――そして最後、私と相合傘で帰れます、以上」
「やかましい」
「ねえねえ、帰ろうよ」
「第一と第二はともかく、最後はお前と帰るメリットにならん」
「なんでさ」
「天海と一緒の傘に入るのが嫌だっつうこと」
俺のその発言に、天海は珍しく口を尖らせ、不機嫌そうな表情を見せた。
「なにそれ、ちょっとムカつく」
天海はそう言うと、階段の踊り場から歩き去ろうとする俺の行く手を阻んだ。今まで俺は天海にもっと強い言葉をぶつけてきたつもりだった。それなのに、この程度のことで怒るのかと不思議に思った。
「なあ、天海」
「なにさ」
「お前の怒るポイントが分からない」
純粋な疑問だった。売り言葉に買い言葉というものがある。俺はそのやり取りに慣れていた。学校での立ち位置、放課後の暴力――その中で激怒する男を数多く見てきた。俺に向けられた怒りを、文字通り力で沈めてきた。
「そんなに怒ってないけど」
そう言う天海だが、依然として口を尖らせている。俺の暴力を見ても、俺の罵倒を受けても、顔色一つ変えなかったのに。本当に意味不明な女だ。
「一緒に帰るか」
「え」
今度の天海は口を丸くしている。意味不明だが、意味不明なりに表情は出すらしい。
「禿げるのは嫌だからな」
「私と一緒の傘に入るよりも?」
「ああ」
天海はさっきまでの不機嫌そうな様子が嘘のように、勝ち誇った笑みを浮かべた。俺は自分の言葉を撤回したくなったが、一度吐いた唾を飲み込むほど情けないことはない。




