11.
「おいしかったねー、名瀬くん」
駅前を後にして、もう三十分は経過している。家に帰ろうとする俺の後ろを、天海はベラベラとくだらないことを話しながらずっと付いて来ていた。俺が無視を決め込んでいると、不意にわき腹をくすぐってきた。鬱陶しいことこの上ない。
「あのさ……お前、いつまで俺に付いてくんだよ」
「たまたま帰り道が同じだけじゃん。付いてってるって何さ。名瀬くん、自意識過剰なんだから」
「そっすか。そりゃあ、すみませんでしたね」
天海の掴みどころのない受け答えがイライラする。脅しても物怖じしないところもイライラする。俺に近づく意図が読めないのもイライラする。今日一日で天海は、クラスが一緒なだけの他人から、意味不明で神経を逆撫でしてくる存在へと変わった。
「あー、私の家はこっち方向」
入り組んだ住宅街の十字路で、天海は俺とは反対方向を指差して立ち止まる。俺は天海を気にせず、歩みを進める。
「この辺でお別れかな」
「朗報だ。じゃあな、天海」
俺は背後から聞こえた天海の声に、振り返らず返事をして進み続ける。やっと面倒な女から解放された。
「すごく楽しかった。ハンバーガーごちそうさまでした。ありがとう、名瀬くん」
「おい、天海。ちょっと待て」
俺は立ち止まり、振り返った。
天海は俺の方を見ていた。振り返ったことで視線が交じり合う。飄々とした表情で俺を見つめる天海――相変わらず何を考えているのか、表情からは何も読み取れない。
屋上での記憶が脳裏に蘇る。天海の下半身に刻まれた、痛々しいキズ痕。
「どうしたの、名瀬くん」
「お前に質問がある」
「ん、なーに」
太陽は沈み、辺りは薄暗くなっていた。電柱の防犯灯が、俺と天海をうっすらと照らす。
身体のキズについて――俺は天海に、それを問おうと口を開いた。天海は俺の顔をじっと見つめる。表情に変化はない。ただじっと見つめる。天海のその眼差しは、俺の全てを見透かしているような気がした。
――その時、寒気が走った。痛みが襲った。これは幼い頃の記憶だ。
ニコチンとタールを含んだ煙が部屋に充満し、嗅ぐだけで喉が詰まる。壁は黄ばみ、テーブルの至る所にタバコの吸い殻と灰が散らばっていた。床には飲みかけのペットボトルが乱雑に並び、中身は変色して元の清涼飲料水の色を留めていない。パンパンに膨れた透明なゴミ袋の中では、コンビニ弁当の空容器にコバエが群がる。
ゴミまみれの部屋、そこの地べたでゴミと添い寝をする俺。俺もゴミのようだ。生きているゴミ。
母親とその交際相手が、汚物を見るような目を俺に向ける。使用済みのコンドームが、横たわる俺に向けて投げつけられた。それが頬に触れる。湿り気を帯びた生臭いそれを払いのけ、ゴミ袋の方へ追いやった。
手のひらがジュクジュクしている。グーパーと繰り返すたびに痛みが広がる。ついさっき、火のついたタバコの先端を手のひらに押し付けられた。左に三回、右に五回。一週間前は足の裏だった。手のひらよりも、足の裏を焼かれた時の方が何倍も痛かった。立ち上がると、まだ足の裏が痛む。歩くのも辛い。だから一週間前から、ほとんど寝ている。
本当は起き上がって、部屋の隅に隠れたい。狭くて薄暗い、かび臭い押入れの中に逃げたい。床で寝ていると蹴られるからだ。すれ違いざまに、母親とその交際相手は俺を蹴る。身体の痣は絶えない。言葉をかけられた回数よりも、蹴られた回数の方が多い。
俺は天海を見つめ、何故か呆然としていた。口を開いたが、何も言葉が出なかった。
「ねえ、名瀬くん」
質問を受けている側の天海が先に言葉を発した。俺を見つめながら、ゆっくりと近づいてくる。距離はほんの数センチになった。今、自分がどんな感情なのか分からない。ただ俺は立ち竦む。
「――私のおっぱい見る?」
天海の手が俺の顔に触れた。その手は冷たい。俺は立ち竦んだまま動けなかった。
「もっと近くに来て。名瀬くん」
黒く大きな瞳が、俺を吸い込もうとしていた。目の前に彼女の顔があった。
「……尻軽な女は嫌いだ」
「そ。また明日学校でね、名瀬くん」
「……ああ。また明日、天海」
俺と天海は、それ以上の言葉を交わすことなく別れた。




