九話
クライヴから低い声で問われ、ティアーリアはびくり、と肩を跳ねさせた。
そのティアーリアの反応に、クライヴは眉を顰めると「やっぱり……」と呟いて更に強くティアーリアを抱き締める。
「貴女の心にはもう他の男がいるのですか」
ぐっ、と抱き締められ腰を屈めたクライヴの髪の毛が自分の首元を擽り、ティアーリアは擽ったそうに身を縮こませながら誤解です!と声を荒らげた。
「違うんです、クライヴ様は誤解されてます……っ!」
「──誤解ですか? あんなに抱きしめ合っていたのに? お互い見つめ合っていたのに?」
「あの時は、私が落としてしまったハンカチを侍従の方に拾って頂いて、バランスを崩した私を侍従の方が抱き止めて下さっただけなんです」
必死に言い募るティアーリアにクライヴはそっと自分の腕の中にいるティアーリアに顔を向けると、困ったように眉を下げているティアーリアにほっと息を吐いた。
ティアーリアの頬に掛かる髪の毛をそっと耳にかけてやりながらクライヴはティアーリアに笑いかける。
「ティアーリア嬢の心には私以外の男性はいない、という事ですか?」
「ええ、私も……初めてあの領地でクライヴ様と会ってから、貴方に元気になった姿を見て頂きたくて病を治そうと心に決めていました。そして、元気になったらまた会いたい、と……」
ティアーリアの真っ直ぐな瞳に射抜かれてクライヴは息を飲む。
──貴女もそう思ってくれていたのか
自分と同じようにあの日々の事を大切に思い、そしてティアーリアは自分との出会いが切っ掛けで病を克服しようとまで考えてくれていた。
こんなに嬉しい事は今まで生きてきた人生の中で味わった事がない。
「クライヴ様が私に生きる希望を与えて下さったんです」
「ティアーリア嬢……っティアーリアっ!」
クライヴは感極まったように震える声でティアーリアの名前を呼ぶとしっかりと自分の腕でティアーリアを抱きしめ直す。
もう二度と離さない、とでも言うようにぎゅうぎゅうと抱きしめてくれるクライヴに、ティアーリアはおずおずとクライヴの背中にそっと自分の腕を回した。
クライヴの広い背中に縋るように控えめに指先でクライヴのコートを指先で握る。
クライヴは、初めて返ってきたティアーリアからの気持ちに更に嬉しくなると、抱き締めている腕は解かずに自分の額とティアーリアの額を合わせると唇を開く。
「ティアーリア……、改めて私とこれから先の人生を、私の隣で共に過ごして頂けますか?」
「──はい、クライヴ様。喜んで……!」
二人で視線を合わせながら恥ずかしそうに笑い合うと自然にお互い、そっと唇を合わせた。
触れるクライヴの唇がとても震えていて、ティアーリアは自分の唇からクライヴの熱が離れると、そっと瞳を開けた。
自分の視界に入ったクライヴは感極まったようにその虹のように煌めく瞳から一筋涙を零していて、その瞬間を見てしまったティアーリアの瞳からも耐えきれなかったように涙が零れて地面に吸い込まれていった。
「ティアーリア、クランディア伯爵の元へ一緒に報告へ向かおう。早く貴女との婚姻について細かく詳細を決めたい」
「はい、宜しくお願い致します」
二人は自然とお互いの手を握り、指を絡め合いながらティアーリアの父親が仕事をしている書斎へと向かう。
やっと想いを通じ合わせた二人は離れ難いと言うように寄り添い歩きながら微笑みあった。
まさかこの後開かれる狩猟祭で、再度二人の間に亀裂が生じてしまう事など知る由もない二人は幸せそうに笑い合っていた。
ティアーリアとクライヴは二人揃って伯爵家の廊下を進んで行く。
ティアーリアの父親であるクランディア伯爵の元へと二人の今後について話に行く為だ。
大きな勘違いから拗れに拗れてしまった二人の関係が今では綺麗に纏まり、お互いがお互いを想っている事がはっきりと分かった今、もたもたとしている時間が勿体ない。
クライヴは、残りの顔合わせの時間を恙無く過ごす事を止めてアウサンドラ公爵家へとティアーリアを迎え入れたい事を伯爵へと伝えるつもりだった。
お互いの気持ちは伝え合った。
顔合わせの次の婚約期間、公爵家へとティアーリアを迎え入れ早く公爵夫人としての準備に取り掛かった方がいい。
自分に伴侶が見つかり次第、現公爵である父親からも爵位譲渡の話しをされている。
婚約から結婚までの一年間でしっかりと公爵家に馴染んでもらいたい。
クライヴはそう考えて顔合わせの残りの時間を既に自分の邸宅で過ごして欲しい、と考えていた。
焦り過ぎだ、と伯爵に呆れられるだろうがもう自分はティアーリアを手放すつもりはないのだから自然の流れだろう。
「ティアーリア……驚かせてしまうと思いますが、私がこれから伯爵へと話す内容を出来れば理解して欲しい……」
「クライヴ様? どんな事をお話になるか分かりませんが、クライヴ様の仰る事に私は反対などしませんわ」
ぎゅう、と繋いだ手をお互い握りしめ合いながら見つめ合う。
クライヴはティアーリアをもう離さない、とでも言うように絡めた指先に力を込めた。
クランディア伯爵が居る書斎の前に辿り着くと、クライヴは一つ息を吐き出すとティアーリアをそっと伺い見る。
ティアーリアも緊張しているようで、表情が強ばっている。
クライヴからの視線に気付いたのだろうか、ティアーリアはふとクライヴに視線を向けると恥ずかしそうにはにかんだ。
「──っ」
クライヴはその表情を直視してしまい、堪らない気持ちになるとティアーリアの額にそっと口付けてから目の前の扉を静かにノックした。
「クランディア伯爵、クライヴ・ディー・アウサンドラです。本日の件についてご報告に参りました。……ティアーリア嬢も共におります」
「ああ、お入りください」
ティアーリアの父親、現伯爵から入室の許可が下りるとクライヴはそっと扉を開けて書斎で仕事をしている伯爵へと軽く頭を下げてから室内へと足を進めた。
流石に父親の目の前でティアーリアと手を繋ぎながら入室する訳にもいかず、二人は暫し距離を取りながら入室する。
ティアーリアも入室したのを確認すると、伯爵は自分が座っていた政務机から腰を上げるとクライヴとティアーリアへソファへと座るように促す。
ティアーリアの表情を見た伯爵は、ほっと安心したように表情を緩めた。
「──二人の表情を見るに、上手く纏まったようだな……」
心底安心したようにそう告げる伯爵に、クライヴは些かバツが悪そうに、ティアーリアは恥ずかしそうに自分の父親から視線を逸らす。
んん、とクライヴは一つ咳払いをすると伯爵へ向かって唇を開いた。
「お騒がせしてしまい申し訳ありません。ティアーリア嬢と話し、私達の間に誤解が生じておりまして……」
「それ、も今では綺麗に解決致しました。お父様」
お互い視線を絡めて恥ずかしそうに微笑み合う二人を見て伯爵は「それは良かった」と呟くと言葉を続けた。
「──それで、今回こちらに来られたのは顔合わせの継続、と言う事で?」
伯爵の言葉に、クライヴは伯爵へと視線を向けると背筋を正し、真っ直ぐ伯爵の瞳を見つめて唇を開いた。
「今回、私達の今後の事について伯爵に許可を頂きたくご相談に参りました」
「今後について相談?」
何だろうか? と続きを促す伯爵にクライヴはこくり、と自分の喉を鳴らすと緊張に震える声で伯爵へと相談事を口にする。
「──ティアーリア嬢には今後、公爵夫人としての学びの為にも婚約が正式に交わされる前に我が邸宅へと移り住んで頂きたいのです」
その言葉を初めて耳にしたティアーリアも、伯爵も、驚きに目を見開いた。
顔合わせ期間の残りの時間を相手の邸宅に招く、と言う行為がこの国ではどういった意味があるのか。
ティアーリアと伯爵は正しくその意味を理解していて、そして言葉を無くした。
顔合わせの期間が終わる前に相手を自分の邸宅へと招く事は「絶対にその女性を生涯の伴侶とする」といった強い意思表示だ。
女性側には大きな傷は残らないが、もし万が一婚約期間時に性格の不一致等で婚約が破談になった場合等は男性側の家名に傷が付くし、社交界では面白おかしく噂されてしまう。
この行為は、男性が女性を強く懇願している、と言う事を世間に知らしめる行為となる。
その為、万が一破談になった場合は女性には傷が付かない為他の縁を望むことが出来るが男性側は他の縁を結びにくくなる。
何故なら、女性に懇願し婚約開始時期よりも早く邸宅へと招く行為はそれ程に女性へ懸想している、という意思表示となる為断られたからといって、じゃあ次、と簡単に行動に移しにくい雰囲気が生まれる為である。
貴族社会では噂が広まるのが早い為、この手を使う人物は殆ど居ない。
断られた男性は今後一生伴侶を持つ事が出来なくなる可能性が高い為、忌避されて来た悪しき風習であった。
そんな事をこの国の公爵家次期当主であるクライヴが行おうとしている事にティアーリアも、父親である伯爵もそれだけはしてはいけない、とクライヴを説得しようと慌てた。




