二話
幼い頃のティアーリア・クランディアは体がとても弱かった。
血液を送り出す心臓に異常があり、幼い頃は他の子供達のように外で遊ぶ事も出来ずにずっとベッドの上で過ごす生活をしていた。
そんなティアーリアの体を心配して、父親は少しでも空気のいい場所を、と伯爵領の郊外へと療養目的で連れてきてくれたのだ。
母親と妹は元々の邸におり、父親と医者、数人の使用人とティアーリアで二年間、領地の郊外で過ごしていた事がある。
食べ物も喉を通らなく、無理に飲み込んでしまえば吐き出してしまう程の状態だったティアーリアは、このままでは長く生きれないだろうと言われていた。
ティアーリアも、そんな自分の体に嫌気がさしていてそれならばもう運命に身を任せよう、と思った時期がある。
ちょうど、そんな時期だった。
そんな諦めていたティアーリアの前に少年が現れたのは。
その少年はかなり身分の高い貴族の子息である事がわかった。
ある日、伯爵領に立ち寄った息子の父親が伯爵である父親と少しばかり話があるとの事で男性の息子である男の子とティアーリアは少しの間一緒に過ごした事がある。
病弱で外に遊びに行けない自分の為に、男の子は外で見られる景色や、今まで自分が訪れた場所を拙い説明ながらも、一生懸命話して聞かせてくれた。
その話がとても興味深く、楽しかったティアーリアは自然とその男の子と笑顔で語り合うようになったのだ。
身分の高い貴族の男性は仕事の関係で一週間程伯爵領に滞在するらしく、その一週間は男の子がティアーリアと過ごしてくれた。
無意識下で、外にも出れないティアーリアを気遣ってくれたのだろうか。
男の子は外に行きたいという素振りを微塵も見せずにティアーリアと共に過ごしてくれた。
その時間がとても楽しくて。
男の子がいなくなってしまった後も、その時の楽しさがティアーリアの生きる希望になってくれた。
元気になって、男の子が話してくれた外の景色や冒険談を自分も経験してみたい。
その気持ちがいい刺激になったのだろう。
ティアーリアは成長するにつれて体が強くなり、心臓の働きも回復してきた。
生きる希望を無くしていたままの自分では病気は治らなかっただろう。
だが、この先健康な体を手に入れて生きたい、という強い気持ちがティアーリアの体に変化を齎したのだ。
何年もかかったが、立派な淑女へと成長してゆくにつれ自分の体も強く、病いも治って行った。
ティアーリアはあの時に出会った男の子に感謝した。
あの男の子と出会わなければ今、自分はここに居なかっただろう。
そして自然とティアーリアはあの男の子が誰だったのか気になった。気になり、父親に聞いてみるととても印象深くあの出来事を覚えてくれていたのだろう。すぐに誰だかわかった。
あの男の子は公爵家の嫡男、クライヴ・ディー・アウサンドラだと教えてくれたのだ。
「クライヴ様……」
ティアーリアは父親に教えてもらった男の子の名前を何度も呟いた。
もう一度会えるかと思っていたが、名前を聞いてすぐさま諦めていた。
公爵家のご嫡男と、伯爵家の自分では身分が違いすぎるのだ。だから諦めていた。最初から縁のない方だったのだと。
だから自分は早く誰か婿養子に来てくれる方といい縁に巡り合えればいいと思っていた。
そう思っていた矢先。
「ティアーリア、アウサンドラ家のご嫡男から顔合わせの申し入れがあったぞ!」
嬉しそうにそう言いに来た父親に驚きと嬉しさで涙が落ちそうになった。
ああ、もしかしたら彼は幼い時のやり取りを覚えてくれていたのかもしれない、と喜んだ。
そう喜んでいたのだあの時までは。
「お姉様?どうしたのですか、大丈夫ですか?」
自室の扉がコンコンとノックされる。
ノックの音と同時に、妹のラティリナが心配そうに声を掛けてくれている。
必死に嗚咽を押し殺し、ティアーリアは外にいる妹へと努めて明るく声を掛ける。
「大丈夫よ、ラティリナ。少し吃驚する事があって…」
「でも、お姉様…。執事のナルスがお姉様が泣いてらしたって言っていたわ。入ってもいい?」
「ちょ、ちょっと待ってラティリナ…!」
「待ちません…!入ります!」
ティアーリアの制止の言葉を聞かず、姉を心配した妹が乗り込んでくる。
ティアーリアは急いで自分の目元を拭うと、ラティリナに向き直った。
「やっぱり……お姉様、ご自分の部屋に戻っても泣いてらしたんですね……今日はアウサンドラ公と会える、と嬉しそうにされていたのに何があったんですか?」
「ううん、平気よ、大丈夫。心配掛けてごめんね」
「……まさか、アウサンドラ公に失礼な事を言われたのですか?それとも何か無体な事でも…!?」
段々と目尻が吊り上がって行く妹に、ティアーリアは慌てて否定する。
「と、とんでもないわ! いつも通りクライヴ様はお優しかったし、楽しいお茶の時間を過ごしたわ……っ! ただ、少し私が気弱になってしまっただけよ……!」
ラティリナのクライヴへの印象を悪くしたくない。
実際、今日のお茶の時もクライヴはとても優しく、楽しい時間を過ごせたのは事実だ。
ここでラティリナへ悪印象を与えてはいけない。きっとクライヴは自分との婚約が不成立となった後にラティリナに時間を置いてから顔合わせを申し込むのだから。
「クライヴ様はとても素敵な方で、私には勿体ないお方だわ、とちょっと気弱になってしまっただけよ」
「そうですか……?」
ラティリナは姉のその言葉に納得出来ないような表情ながらも、姉がそう言うなら、と言葉を飲み込んだ。
こんなに綺麗で素敵な姉が気後れする事なんてないのに、とラティリナは思う。
自分の体が弱く、度々高熱を出して倒れてしまう時もいつも姉は心配そうに看病してくれる。
幼い時は姉の方が体が弱く、辛かっただろうにラティリナの事を凄く気遣ってくれていた。
確かにアウサンドラ公は素敵な男性で姉を大事にしてくれていると思う。
だけれど、姉にはもっといい人がいるのではないか、とラティリナは前々から思ってしまっていた。
姉とアウサンドラ公の顔合わせのお茶の時間を遠目から見た事がある。
容姿も整い、男らしい体躯の印象の美丈夫だった。姉を見つめる視線も優しげで、このまま上手くいけば二人はいい夫婦となるだろう事は分かっていたのだが……。
(あの体つきでは万が一崖からお姉様が落ちてしまったらお姉様を抱えて崖を登れないわ…)
ラティリナの好みは、筋肉隆々で熊のように逞しい男性なのだ。
筋肉が足りないわね、とラティリナはいつもティアーリアとクライヴを見ながら少し残念な気持ちになっていた。
「クライヴ様、ようこそお越しくださいました」
「ああ、ティアーリア嬢。今日も美しいですね、早くお会いしたかった……」
あの日から数日後。
最早何度目かも覚えていない顔合わせでのお茶の時間にやってきたクライヴに、ティアーリアは挨拶をすると、クライヴが蕩けそうな程の熱を瞳に宿してティアーリアの手のひらをそっと取り自然な流れで手の甲に自分の唇をよせる。
いつもの挨拶。
そのクライヴの態度にティアーリアはちくり、と自分の胸が痛むのを感じる。
(ああ、今までずっとこうやってクライヴ様に心にもない事を言わせ、やりたくもない挨拶まで私はさせてしまっていたのね……)
ティアーリアはずん、と沈む自分の気持ちを押し殺し微笑みを貼り付けるとクライヴを案内する。
その微笑みに違和感を覚えたクライヴは、心配そうにティアーリアの様子をじっと見つめた。
(ああ、ティアーリア…何故貼り付けたような微笑みを私に見せるんだ……? 何か嫌な事でもあったのか……?)
クライヴは心の中でそうティアーリアに問いかける。
決して現実では「ティアーリア」と呼び捨てで彼女を呼べない歯がゆさに唇を噛み締めると、クライヴは前を歩くティアーリアの後ろ姿を眺める。
いつもの彼女と違って、背中から悲しみや悩ましげな感情が醸し出されている。
(その憂いを私が取りされればいいのに……)
ティアーリアはクライヴが到着してからずっと自分の事を考え、悩み心配しているとは露とも知らずどうやって顔合わせの断りを入れるか考えていた。
庭園へと通されたクライヴは、いつものようにティアーリアの座る椅子を引いて腰を下ろして貰うと、その後に続いて向かい側に自分も腰を下ろす。
顔合わせの申し込みを行ってからあと少しで三ヶ月が経つ。
あと何日、あと何日、と指折り数えながらクライヴはその時を楽しみに待っている。
自然とにやけてしまいそうな口元を隠すように、クライヴは用意された紅茶に口を付けると、ふぅと一息吐息を零す。
カップをソーサーの上に戻し、ちらりとティアーリアへと視線を移すと強ばった表情のまま、じっとティーカップを見つめている。
「ティアーリア嬢……? 大丈夫ですか? もしや体調でも悪いのですか……」
「……ぁっ、いいえ! 大変失礼致しました!」
クライヴに心配そうに声を掛けられてパッと視線を上げたティアーリアとクライヴの視線がぱちり、と絡み合う。
その途端頬を染めるティアーリアに愛しさが込み上げてきたクライヴは照れくさそうに笑うと、もし宜しければ、と口を開く。
「ティアーリア嬢、今日は少し歩きませんか?」
クライヴはティアーリアともっと近寄り会話を交わしたくて、自然とその言葉がスルリと唇から零れ落ちた。
自分達の間にあるテーブルさえ邪魔な存在だ、とクライヴは忌々しくなる。このテーブルさえ無ければティアーリアに近寄り浮かない表情をさせている事柄を忘れさせてやれるくらいに会話が出来るのに。
ティアーリアの返事も待てない、というようにクライヴは椅子から腰を浮かせるとティアーリアに近寄り自分の手のひらを差し出す。
ぱちり、と瞳を瞬ききょとんとした表情でこちらを見上げるティアーリアに抱き締めてしまいたい衝動に駆られるが、その衝動をぐっと抑えクライヴはティアーリアに美しく微笑む。
「……はい、クライヴ様」
ティアーリアはいつもの様子と少し違うクライヴに若干の戸惑いを感じながらも差し出された手のひらに自分の手を重ねた。
ぎゅ、と強い力で握りしめられる事にどきり、と自分の心臓が脈打つが自分も腰を上げるとクライヴのエスコートの元、庭園を散策する事にした。
「クランディア家の庭園はいつ来ても素晴らしいですね。花々がとても生き生きとしている」
「……ありがとうございます、我が家の庭師が丹精込めて花々の世話をしてくれているからですわ……」
クライヴの腕に自分の手を添えながらゆったりとした足取りでクライヴが歩んでくれている。
目には見えない気遣いが嬉しくて、ティアーリアは表情を綻ばせる。
「……っ、」
「クライヴ様?」
ティアーリアのその表情を直視してしまったクライヴは視線を逸らすとンン、と何かを誤魔化すように咳払いをしている。
「……、すみません。何でもありませんよ、少し噎せてしまっただけです」
にこり、と微笑みながらそう答えるクライヴにティアーリアはそれ以上何も言えず当たり障りのないそうですか、という言葉しか返せなかった。
二人でぽつりぽつりと会話をしながら庭園を巡っていると、薔薇園に続くアーチを抜けたその場所で妹のラティリナが姿を現した。
「……あっ」
さあっと吹き抜ける風に薔薇の香りが辺りに漂う。
さわさわと花々がそよぎ、薔薇の馨しい香りの向こうに現れた美しい自分の妹にふ、と腑に落ちた。
今日は少しばかり体調が良かったのだろう。
それで、自分達の邪魔にならないような場所を散策していた妹。
その情報をどうやってかは分からないが得ていたのだろう。
ラティリナの姿を一目見たくてクライヴは自分を庭園の散策に誘った。いつもとは違うな、と違和感があった。こちらの返事を聞く時間も惜しいと言うようなクライヴの態度に合点が行く。
早く散策へと向かわないとラティリナとすれ違ってしまう、と考えたのだろう。
そう考えているティアーリアの目の前で、二人はしっかりと見つめ合っていた。




