一話
「俺、最初はクライヴ様どうなる事かと心配してましたよ」
ティアーリアは婚約予定のクライヴとのお茶の時間が終わり自室に戻ろうとしていたが、クライヴの座っていた席にハンカチが落ちている事に気付き彼を追って来ていた。
どこにいるのかしら、と探していると見知った後ろ姿を見つけて笑顔になる。
彼の名前を呼ぼうとした自分の唇が次の言葉を聞いた瞬間、喉からヒュッと細い息が零れた。
「姉と妹を間違えて婚約の申し込みをしてしまったなんて、クライヴ様もおっちょこちょいですよね」
「……その話はもうやめてくれ、本当に情けない話なんだからな」
──間違えて申し込みをした。
そのクライヴの言葉を聞いたティアーリア・クランディアは自分の頭のてっぺんから足先までさあっと血の気が失せる感覚に顔を真っ青にした。
クライヴは、自分を求めてくれていたわけじゃない。
本当に求めていたのは自分の妹のラティリナ・クランディアだったのだ。
体が強くなく、儚げな印象の妹ラティリナと真逆の印象の自分。
よく考えてみればわかったはずなのに。
クライヴと初めての「顔合わせ」を果たしたあの日、彼は驚きの表情で目を見開いていた。
何故そんな表情をしているのか当時は不思議だったが、これで得心がいった。
クライヴはあの場に妹のラティリナではなく、姉である自分が現れた事に驚いていたのだ。
それでも、クライヴは真摯に対応してくれた。
クランディア家を侮辱しないよう、自分の間違いで婚約前の顔合わせを申し込んでしまった事を黙っていてくれたのだろう。
「姉と妹を間違えて申し込んでしまったから変えて欲しい」等、この国の公爵家であるクライヴ・ディー・アウサンドラに言われてしまったら……
恐らくティアーリアはほかの貴族の笑い物になるし、クランディア家も同じように笑い物にされてしまっただろう。
嫌な顔一つせず婚約前の顔合わせに三か月近くも付き合わせてしまった。
このまま約束の三か月が過ぎれば自分はクライヴの申し込みを受け、婚約を結んでしまっていただろう。
今、知る事が出来て良かった。
ティアーリアは涙で歪む視界のまま、その場から立ち去る。
この顔合わせが終わる前にこちらからお断りの連絡を入れよう。そうすれば、クライヴも改めて本当に申し込みをしたかった妹に婚約を打診出来る。
ぐい、っと自分の瞳から零れ落ちそうになる涙を乱暴に拭うと、ティアーリアはしっかりと前を見据えて邸へと足を進める。
「ハンカチは次……最後の顔合わせの際にお返ししよう」
ティアーリアが立ち去った後、その場では二人の男の会話が続いていた。
「まあ、でもティアーリア嬢と話している内に“あの時の少女”はティアーリア嬢だったと確信した。あの時のまま、変わらない笑顔に人を思いやる気持ちは俺が惹かれたあの時のままだった」
「それで、クライヴ様は二回も同じ女性をお好きになったんですよね? もう何回もお聞きしてますよ」
ははは、と朗らかに笑う男達は先程ティアーリアがその場にいた事など微塵も気付かず、この幸せが呆気なく崩れる事など露ほども思っていなかった。
この国では貴族同士の婚約に次の事柄が定められている。
・顔合わせの期間は三か月
・婚約を望む場合は男性の方から婚約前提の顔合わせを相手の家に申し込む
・一度申し込んだら男性側からの撤回は禁じられる
・婚約の成立は女性が望んだ場合のみ
・余程の事がない限り、男性からの顔合わせの申し込みは撤回出来ない
上記五項目が国では定められており、この条件はいかに身分が高い者でも例外は認められていない。
この条件を破る事はいかなる者でも許されておらず、例え王家の血筋の者でも等しくこの条件の元婚約を結び、婚姻する。
この決まりはこの国が愛の女神であるアプロディアの加護を大きく受けている事が影響している。
生涯の伴侶とは思い合い、お互いを理解し合った者同士がなるべきだ、と建国から続けられているもはや伝統のような物だ。
確かに、この制度のおかげでこの国では他国と比べ恋愛結婚が多い。
通常貴族の婚姻には政略的な物が多いのだが、政略結婚だった場合でも三か月の顔合わせの期間にお互いをよく知り合う事が出来る為だ。
そのお陰か、政略結婚後大きな諍いもなく生涯仲睦まじく添い遂げる夫婦も多い。
(だからこそ、クライヴ様は本当に愛するラティリナと幸せになって欲しい)
自分のクライヴを恋い慕う気持ちなど、クライヴの気持ちを考えればいくらでも封じておける。
例え、あの優しげに自分を見つめる瞳をもう二度と向けられないとしても。
あの唇から二度と自分の名前を呼ばれないとしても。
自分が恋い慕う男性と一時でも過ごす事が出来たのだ。それならば、自分はその思い出を胸に抱いて生きて行ける。
次の顔合わせの時に今までのお礼と、そしてさよならを伝えよう。
時間を空けなければいけないが、そうすればクライヴが時期を見て妹に改めて顔合わせを申し込めるようになる。
最後の日は笑って彼とお別れをしよう、とティアーリアは泣き濡れた表情ではあるが微笑むとそっと彼のハンカチを胸に抱いて自室へと戻った。
クライヴ・ディー・アウサンドラはこの国の公爵家嫡男である。
柔らかい髪質にラベンダー色の髪色を持ち、金色の瞳は宝石のように輝き陽の光に反射して様々な色彩の輝きを持つ珍しい瞳を持っていた。
均整のとれた体躯は男らしく程よい筋肉がついていて、上背もあり凛々しい顔立ちも相まって彼の整った容姿や爵位、人柄に惹かれた貴族令嬢達はこぞって自分宛に婚約前の顔合わせを申し込まれないかしら、と夢見ていた。
年齢も今年で二十一歳のクライヴは、そろそろ伴侶を決めるだろうと周囲から噂されており、彼の「顔合わせ」の申し込みはいったい誰になるのかとひそひそと貴族達の間で大いに話題に上がっていた。
その、時の人ともなってしまっている彼が、クランディア伯爵家の令嬢に「顔合わせ」を申し込んだ事に、周囲は納得した。
クランディア伯爵家の令嬢は二人いるが、妹のラティリナはとても美しい儚げな女性だと言われている。
病弱で体が弱い事から、公爵家の跡継ぎの伴侶となるには些か不安が残るが彼女ならば納得だな、とどの家の者達も頷く。
彼を狙っていた令嬢達も、ラティリナには敵わない、と皆諦める程の美貌を誇る。
だからこそ、クライヴは勘違いしてしまった。
自分が幼少の時に出会ったあの少女は、病気の療養の為に領地の郊外に訪れたのだと言っていたから。
青白い顔色で今にも倒れそうな程弱々しい少女が、病気を克服して元気になっているとは思いもよらなかったのだ。
父の仕事に同行して、訪れた先で出会った少女がどこの家の人間だったのか探すのに骨が折れた。
父親自身も、訪れた土地は数多ある為どこの領地に自分の息子と一緒に行ったのか昔すぎる出来事だった為うろ覚えの情報達をパズルのピースのように当て嵌めて行き、やっとの思いでクランディア伯爵家だったのだ、と突き止めた。
妹のラティリナが病弱だ、と聞いていたので伯爵家にラティリナ嬢との顔合わせの申し込みをしたつもりだった。
つもり、だったのだ。だが、自分で記載した顔合わせを申し込む手紙には何故かティアーリアの名前を記載してしまっていた。
あの時の少女が成長した姿を何度も想像した。
その想像するしかなかった姿を自分の両目でしっかりと映す事が出来る事に浮かれた自分は愚かな記載ミスを引き起こしていたのだ。
そして、書類の確認を願う前に逸る気持ちのまま申し込みの手紙を送ってしまった。
顔合わせを受け入れてもらった時は天にも昇る気持ちだった。
これで、自分を受け入れて貰えればずっと恋い慕っていた少女と婚約の末、結婚出来る、と。
昔よりは元気になっただろうか。青白い顔色は血の気の通う肌色になっているだろうか。
逸る気持ちを落ち着かせて迎えた顔合わせ当日。
自分の目の前に現れた令嬢は、健康そうな顔色で、病気とは無縁の健康そうな姿だった。
その令嬢が自分の名前を名乗った時に、クライヴは自分が名前を書き間違えて顔合わせの申し込みをしてしまった事に気付き、絶望した。
最初は姉のティアーリアに嫌われてこの先の婚約を断ってもらおうと思った。
自分から申し込んでおいて、失礼な態度でティアーリアに対応しようとしていたのだ。
けれど、初めての顔合わせの時にティアーリアが見せた笑顔に既視感を覚えた。
何故かあの時の少女の笑顔がティアーリアの笑顔と重なったのだ。
一度目の顔合わせには違和感を感じて。
二度目の顔合わせの時に、あの日の少女と同じ言葉を返されて。
三度目の顔合わせの時に、あの日の少女は今目の前にいるティアーリアだったのだと確信した。
その時の自分の喜びに震えたつ気持ちは何度語っても語り切れない。
あの日の病弱だった少女は病気を克服してこんなに元気になって自分の目の前にいるのだ。
病弱だと聞いていたから公爵家の跡継ぎも諦めていたのだ。体が弱いのでは、妊娠・出産は体に大きな負担がかかる。だが、ティアーリアは健康的な姿で自分に微笑みかけてくれている。
跡継ぎにも問題はないが結婚後、遠慮なくティアーリアと愛し合う事が出来る事が嬉しかった。
それに、思う存分ティアーリアと夜会や舞踏会に出掛ける事も出来るし、連れ立って遠出も出来るだろう。
クライヴは早くこの顔合わせの三ヶ月が過ぎ去るのを心待ちにしていた。
ティアーリアからも確かに自分への愛情を感じられたからだ。
自分に好意を抱いてくれているのが分かる。
自分と同じ熱量で自分を見つめてくれているのが分かるのだ。
だから、早く顔合わせの期間が終わって。
ティアーリアが自分と婚約を結んでくれると確信を持っていた。
婚約期間を経て、早くティアーリアと本当の家族になりたい、と。
そう思っていたのだ。
それなのに。ティアーリアは約束の三ヶ月を目前とした顔合わせの日に、今日で会うのは終わりにしたい、とその愛らしい唇からクライヴを拒絶する言葉を突き放すように放った。




