7 狸VSワニ
その生き物はワニに似ているが、明らかに地球上の生物ではない。
体長は優に3メートルを超え、全身を覆う鱗は黒く、刃物のように尖っている。
そして眼球が左右3対の、計6つもあるのだ。
明らかに妖怪の類である。
しかしその気配は妖怪とは違う。
その凶悪な見た目に反して、特別な力は一切感じられない。
それは普通の野生動物なのだ。
(油断! 不覚! お馬鹿! 何をあっさり背後を取られてるんじゃ、ワシ! ついさっきトラック付喪神に、してやられたばかりじゃろうに!)
普段なら相手が姿を現すより先に、臨戦態勢を取っていたであろう
それに気が付く事が出来なかったのは、それだけ自分が死んだかもしれないという事が、ショックだったのだ。
しかしそんな事を言い訳にしてはいけない。
それで痛い目を見るのは、ポンタ自身なのだから。
(落ち着け、ワシ! ここから挽回しろ! 最適な行動をとるんじゃ!)
ワニ――どう見てもワニではないが、引き続きワニと呼称しよう。
ワニは大口を開けながら、ポンタを捕食しようと、既に飛び掛かっている。
しかしポンタの思考速度の前では、殆ど止まっている様なものだ。
だが身体能力が付いて行けていない。
まともに戦えば、間違いなく食われてしまうだろう。
(背後左右に避ければ追撃される! 残された活路は――)
ポンタはあえて前進し、ワニの口へ向かって自ら飛び込む。
目が6つあろうが、開かれた口の中は死角である。
そして獲物が自ら飛び込んできた事で意表を突かれ、口を閉じるタイミングが一瞬遅れる。
ポンタはその一瞬の内に、口の側面から脱出を図る。
ワニはそのまま直進すると、ポンタのいる位置に、自身の脇腹を晒してしまった。
「ポンポコ獣王拳! 霧雲!」
ポンタは手首を高速で回しながら、ワニの脇腹に掌底を叩き込む。
その一撃を受けた対象は、木っ端微塵に砕け散り、雲のように霧散してしまうのだ。
本来ならば。
しかし実際は、ワニの鱗が1枚砕けただけであった。
「厚さ1メートルの、超合金の壁すら砕く一撃なんじゃけど!? それが鱗1枚って……いくら何でも弱体化しすぎじゃないかのう!?」
ワニにダメージは殆どない。
しかしワニは。ポンタに対して明らかな敵意を向けていた。
砕いたのは鱗であるが、触れたのは逆鱗だったのだ。
「よし、いったん落ち着いて話し合おう。確かに殴ったのは悪かった。じゃがいきなりワシを食べようとしたお主も悪いんじゃよ? じゃからここは喧嘩両成敗。これで手打ちにしよう。な?」
「がぁあああああっ!」
「うぉおおおおお!?」
ワニが咆哮を上げると、ポンタは全速力で走り出した。
ワニはポンタの説得を意にも返さず、喰い殺そうとポンタを追いかける。
しかし体格差は歴然であり、このままではすぐに追い付かれてしまうであろう。
「ぬぉーっ! ワシは最強じゃから、その肉質もA5ランク越えのS6ランクのはず! だけど誰も食べた事ないから、実はめっちゃマズいかもしれんぞ! たぶん美味いとは思うけど! だからやめとけ!」
「がぁあああああ!」
食べて欲しいのか、食べて欲しくないか、分からない説得であるが、ワニは耳には届いていない。
そもそも言葉が通じていない様子だ。
ポンタは動物語と人語、合わせて100ヶ国語以上を話せる、スーパーバイリンガル狸である。
しかしワニの発している雄叫びからは、何の意味も読み取る事が出来ない。
それはここが地球のどこでもない、異世界である事の裏付けであった。
ワニの足はそれ程速い訳ではないか、今のポンタよりは早い。
このままでは数秒後には追い付かれてしまうであろう。
(戦っても勝てない、交渉も出来ない、逃げる……事も出来ないんじゃ、もうこれしかないじゃろ! 変化!)
ポンタはドロンと煙を上げると、ワニはポンタを見失った。
消えた訳ではない。
ポンタは石ころに変化する事で、ワニから隠れたのである。
(ちっこい無機物なら、この体でもギリいけるみたいじゃな。でもホントギリギリで、長くは持たんぞ。とっとと立ち去れ……)
ワニは周囲をキョロキョロと見回すが、いくら探してもポンタを見つける事が出来ず、仕方なくその場から立ち去った。
ポンタはワニの姿が見えなくなると同時に、元の姿に戻ると、木の陰に隠れる。
「ふぅ、なんとかやり過ごせたわい。まったく、なんちゅう恐ろしい……恐ろしい?」
ポンタは自分が感じていた感情を理解した。
あのワニに恐怖していたのだ。
自分より強いものを前にして、死の恐怖に怯えていたのだ。
『最強である其方が味方なのだ。何を恐れる必要がある? 其方の隣が、世界で1番安全な場所だ』
「っ!」
ポンタの脳裏に、ビャッコの言葉が蘇る。
最初にポンタの事を最強と呼んだのはビャッコだった。
ビャッコは多くの者にその身を狙われていた。
まだ幼い子狐であったビャッコにとって、それがどれだけの恐怖であったかは計り知れない。
しかしポンタと出会ってからのビャッコは、そう言った恐怖とは無縁となった。
ポンタを最強と信じ、必ず護ってくれると信じていたからだ。
ビャッコに出会う以前のポンタは、何となくで強者と戦い、何となくで強くなろうとしていた。
ただ本能のままに強さを追い求める日々は、今にして思えば不毛なものである。
しかしビャッコは、そんなポンタに目的を与えたのだ。
そしてポンタは最強になると誓った。
最強である事が、ポンタとビャッコを結ぶ絆なのである。
「1度でも負けたら……最強を名乗れんじゃろうが」
今のポンタは、少し変化が出来るだけの子狸だ。
そのフィジカルは、先程のワニの足元にも及ばない。
ならば敗北は仕方がない事だ。
だがポンタは最強なのだ。
最強はどんな理由があったとしても、敗北は許されない。
ポンタは胸の奥が、火傷しそうなほどに熱くなるのを感じた。
「このまま終われば、ワシは言い訳出来ん程に敗者じゃ! 終わらせん! まだ終わらせんぞ! たとえどんな体になろうが! どんな世界に来ようと! ワシは最強じゃ! 最強は決して負けん!」
ポンタはワニを追いかけると石を投げ付ける。
するとワニは振り返り、再びポンタに狙いを定めた。
「そうじゃ、まだ戦いは終わっとらん。決着が付くまで、やり合おうぞ!」
「がぁあああああ!」
ワニは大口を開けると、ポンタに向かって突進する。
今回は十分に距離が離れていた為、余裕を持って回避する事が出来た。
そして距離を保ったまま、ポンタは森の奥へ走っていく。
「ばーか! のろま! 木偶の棒! 10円ハゲ! 悔しかったら食ってみろ!」
ポンタはワニに罵声を飛ばしながら、小さい体を生かして、ワニの通り辛い場所を縫うように駆け抜けて行く。
罵声はワニに一切通じていないが、ポンタの場所を把握してしまう為、追わざるを得なくなる。
進み辛い道を噛み砕きながら進んでいるが、その歩みは大きく後れ、一向にポンタに追い付く事が出来なかった。
容易く食べる事が出来ると思っていた獲物に、手こずり続ける。
それはワニにとって多大なストレスとなり、その動きは徐々に雑になっていく。
そんな最中、突然罵声が止むと、音に頼っていたワニは、再びポンタの居場所を見失ってしまう。
そしてワニが周囲を見渡していると、左目に何かが突き刺さった。
「ポンポコ獣王拳、殴矛。威力は落ちても、狙いは外さんよ」
「ぎゃがぁあああああっ!」
ワニの目は潰れていないが、眼球に何かが刺されば激痛が走る。
ワニは更に怒りを増し、もはや食う為ではなく、殺す為にポンタを追う。
「怒りは視野を狭める。それは戦場では致命傷じゃぞ、若造」
「ぐぎゃっ!?」
ポンタは森を抜けると同時に、勢いよく跳躍する。
ポンタしか見ていなかったワニは気付かなかった。
そこには足場がなく、崖になっている事に。
その深さは100メートルを超え、落ちればまず助からないだろう。
ワニは左に逸れながら急ブレーキをかけ、何とか左半身を地面に残そうとする。
しかし左前脚を伸ばした先にある足場は、殆ど抵抗なく崩れてしまった。
それは木の葉を変化さして作り出した、偽の地面だ。
「ポンポコ忍法、足元ぽろぽろ。相手が悪かったのう、ワシって最強なんじゃ」
「ぎゃっ!?」
ポンタは飛び出したワニを踏み台にして、崖の上に戻る。
そしてワニは悲鳴を上げながら、崖下に落ちて行った。