夢中になれたら
「何をやっているんだろう……」
明け方の住宅街、白く消えてゆく星を眺めながら、私はため息をつく。
だるく重い身体を引きずるように、とぼとぼと家までの道を歩いていた。
「彼に振り向いてもらいたくて始めた麻雀……なのに、徹夜で打つほどハマるなんて……私、ただの麻雀仲間になってる……」
ちょっと待て、そもそも間違っている。
麻雀する女子が好きな男なんて、けっこう特殊なのではないだろうか。
彼とお近づきになりたければ、もっと女の子らしさをアピールするとか、別のルートがあるでしょうよ!
それを「麻雀」とは……アホだ。若い頃の私、なんかズレてる。
「それにしても、国士無双……あがってみたいなぁ。九蓮宝燈とか……」
まだそれを言うか! 恋はどこ行った! 目的が変わってない?
私は、格好良さげな、凄い手であがりたいとばかり思っている素人で、麻雀仲間……と言うか、教えてくれている先輩方の遊びの邪魔ばかりしていたのだということが、今ならよく分かる。
小さな手であがることを覚えた方がいいと、先輩方に散々言われたものだ。
突然長編を書かず、コツコツとエッセイを書いている今に、その教訓が生かされている……なんてね!
だ、か、ら、結局、恋はどうなったのよ!
あっ、それは、後日告白してアッサリ振られた。
しかも、「麻雀仲間になる前はちょっと意識してたけど、今はそういう目では見てない」とのことで…… 本当に私、何やってたんだか。
私は何でもすぐ夢中になる性格で、四十代になるまでに、大なり小なりいろいろなことにハマってきた。
特にハマったのが、先程話した麻雀をはじめ、本や漫画の読書、友人に誘われて始めたボディボード、夫と出会うきっかけとなったフットサル、株式投資、そして今、文章書き。
この中のどれも特に、得意と言えたり、極めたものはない。
でも、一定期間、夢中になったことは確かなのだ。
もっと自分に向いてる、極められることをやればいいのに……
なんて思ったのだが、考えてみると、案外自分に向いてることって分からない。
この年齢になってもそうなのである。
やってないから分からないのか、分からないからやらないのか。
卵と鶏の理論みたいになってしまう。
広く、浅く、知ってることは多いけど、深い専門知識はない。
こうしてあえて文章にしてみると愕然とする。
「これなら任せて!」なんて、胸を張って言えるものがないなんて……
ちょっと囓ってはやめる。
そういう生き方もあっていいとは思う。
もしかして、私だけじゃなく、世間の大多数がこんな感じなのかな。
むしろ、私は多数派なのかも知れない。
だからこそ、「これしか出来ない!」「これが好き!」と、まっしぐらになれるものがある人生、そういうのっていいなぁ。
そういう人って眩しい!
なんて、今更ながら思うのだった。
文章を書くことには、これから先、どれだけ夢中になれるだろうか。
「なろう」を続けるかどうかは別として。
でも、ここを離れるときが、書くのをやめちゃうときかなあ。
今は、そんなこと考えると寂しくなってしまう……
「書くのが趣味なのよ」と、お婆ちゃんになっても言える人生、いいなぁと思うのである。