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楡と葡萄  作者: 津蔵坂あけび
過去
6/12

依光

 寝室に戻ると、少年が身を布団にくるめた蓑虫となって畳の上に転がっていた。寝かせたはずの敷き布団にはつま先すらも乗っていない。過去に何度か旅の者や宿無しを泊まらせたことはあったが、ここまでの寝相の悪さは中々見なかったものだと顎に手を当てて妙な感慨に浸る。


「いつまで寝ているんだ。さっさと起きろ。朝飯にするぞ」


 ようやく少年は目を開けて大きく口を開けて欠伸を一つ。口元にだらしなく涎を垂らしているのを手拭で拭き取る。初めて会った時は野獣のように牙をむいてきたというのに。弥兵衛は呆れと慈しみを半分ずつ混ぜた笑みを漏らす。


 朝食は普段なら茶漬けを一杯だけで済ませることも多かったが、育ち盛り、それも満足に飯を食えたためしのない少年には物足りないだろうと考え、おかずを付けることにした。真美子がこさえてくれた糠漬けは糠を洗って切り分けて、昼や夕に食べる干物は焼いて皿に盛る。

 用意された湯気の立つ朝食を前に、少年は物珍しそうな顔をする。弥兵衛は少年に「いただきます」を言わせようと試みるも、叶わなかった。やがて、弥兵衛のみが箸を動かして食事を進めても、少年はいっこうに食べる気配を見せない。


 そうか、食べ方が分からないのか。


 弥兵衛はそう思い至って、少年の手に箸を持たせる。これまでの食事は少年にとって手づかみで口に物を運ぶものだっただろうから、箸の使い方を教えなければならない。親指と人差し指の間に片方を挟み、もう片方を人差し指と中指の先に挟んでそれを親指の腹で押さえる。やり慣れている自分がやるのは簡単だが、それを知らない子供に教えて聞かせることの何と難しいことか。


 挟んでみろ、と口では言うが、箸の先が交叉してしまう。行儀が悪いと思いつつも、かちかちと音を立てて拍子を取ったりしてみるが、それを少年が真似れば箸先が空振るばかり。こんな状態で魚の干物を食べさせるなど到底不可能である。茶漬けだけは匙を用意して食べさせたが、いつまでこれが続くのか。弥兵衛は一口二口しか朝食を口に付けないままに、後は少年につきっきりになってしまった。


「兄上、兄上」


 縁側の方で女の声がする。真美子の声だ。顔を上げると硝子戸の向こうで真美子が膨れっ面をしていた。


「朝からどうしたんだ」

「どうしたんだじゃありません。さっきから戸口を叩いているのに、ちっとも出て来てくれないんですもの」


 こっちは子供の躾でまいっているのに、真美子は元気なものだ。心の中で悪態をつくが、弥兵衛は真美子が来てくれたことに安心していた。


「真美子、ちょうど良いところに来た。箸の使い方を教えてやってくれないか。どうも私がやるとせっかちでいけない」

「まあ、近所のお子さんを預かっているのかしら」


 真美子がわしゃわしゃと少年の頭を撫でる。

 初対面であるはずの真美子にも警戒を解いている所を見ると、少年には他人が見せる敵意というものが見えるのか。それとも真美子が子供の扱いが上手いだけなのか。どちらにせよ、弥兵衛にとって真美子の来訪は助け船に他ならない。弥兵衛は少年を拾った経緯をすっかりそのまま話した。


「まあ、それはそれは――」


 真美子も少年の境遇に胸を痛めた。


「この子には善悪も行儀も言葉も何もかもを一から教えてやりたいと考えている。まずは生きていくためにも食事の躾からと思ったが、箸を持たせてやることすら――」

「今日はできなくとも明日があります。明日できなくとも明後日があります」


 弥兵衛が全てを言いかけるまでに、真美子が諭すような口調でそう言った。何を当たり前のことを言うんだ、と弥兵衛は拍子抜けする。


「兄上、私が箸をちゃんと使えるようになるまでも、かなりかかったんですよ。母はそれを数えていて。確か、綺麗にできるまでは一年はかかったと言っていましたわ。それでも兄上の方が時間がかかったと言っていました」


 それを聞いて弥兵衛の耳たぶがかあっと赤くなった。


「そんな与太話は置いておいて、大人の方でも変な癖がついてしまっている方は多いのですから気長にやることです」


 さっき持たせてやったように持たせてください、と真美子が言うので少年に箸を持たせるところまでやってみる。持たせるだけならばできるのだが、その次の物を掴む際に箸先が空振ってしまう。何回か箸を動かしていると、だんだんと箸がずれてくる始末。


「箸が両方とも動いてしまっているので物を掴むときに箸の片方を固定させてください」

「しかし、私が手を貸していては物を食べられないではないか」

「ええ、最初は箸の持ち方を教えるのと食事は別に考えなくては駄目です。食事を目の前に箸の稽古をしていたのでは、食事そのものが憂鬱になってしまいます。食事とは別のところで何度か練習をさせてから、食事の時に使う練習をさせると良いですよ」


 弥兵衛が真美子の助言になるほどと頷いている間に、彼女は匙で少年の口に茶漬けを運び、平らげさせた。そして、「これはさすがにまだ早すぎますよ」と笑いながら干物から身をほぐして少年に与える。

 弥兵衛は、真美子が嬉々として少年に世話を焼く様子を見ながら、思うように箸を持ってくれないだけで苛々してしまっていたさっきまでの自分を恥じるのだった。


     ***


「そういえば、今日は久々に三味線を弾こうとやってきたのよ」


 朝食を終えた後、真美子が思い出したように言った。弥兵衛の邸宅には上物の三味線がある。母がよく弾いていた物で、近くにある瞽女(ごぜ)(三味線弾きの芸をする盲人の女性)が暮らしている屋敷から譲り受けたのだ。真美子は親しくしていた瞽女から三味線を教わり、嫁ぐ前は隙あらば三味線を弾いて長唄や義太夫などを語っていた。


「あの人ったら、貿易商で新しいもの好きですから、三味線など古臭くて聞いていられないとオーケストラばかり聞いていますのよ」


 あの人、というのは真美子が嫁いだ先の斎藤長蔵(さいとう ちょうぞう)のことだ。真美子は別段オーケストラが嫌いということではなかったが、瞽女が語って聞かせた長唄を非常に愛していた。夫の長蔵はというと、ウラジオストクとの交易で得た民芸品やオーケストラのレコードなどを和室のない洋風建築の家に所狭しと飾っているのだった。


「私も洋服は好きですし、オーケストラのヴァイオリンの音も美しいとは思いますし。けれども、たまには畳に腰を下ろして、三味線を弾きたいですわ」


 真美子は長蔵と夫婦仲が悪いわけではないが、何か何まで洋風の暮らし向きをする長蔵に対し、少々不満があった。そのはけ口となっていたのが、こうして弥兵衛の邸宅を訪ねて来るときである。

 しかし、独り者の弥兵衛にとっては、家族である真美子がこうして訪ねて来て、漬物をこさえたり、三味線を弾いたりしてくれるのが嬉しかった。それは弥兵衛が少年を拾って小姓に迎えた今でも、変わらないどころか、よりいっそう有難いことであった。


「そうですね――、この地方では男の子に語って聞かせるなら大江山の酒呑童子退治と決まっておりますわ」


 真美子は撥を手に取り、語り始めた。張りつめた弦を弾くたびに、胴を突くような太く力強い音色。それに合わせて甲高い普段の話し声からは想像もつかない、よく通る低い声を出す。

 酒呑童子は大江山(京都府丹後半島の付け根に所在する連山)に住む、大酒飲みの鬼。京の若者や姫君を攫い、悪行を重ねていた。これを成敗しようと源頼光を装って、酒呑童子のもとに一晩宿を取らせてくれと頼む場面から語りは始まる。


 この地方では、見せ場である源頼光と酒呑童子の立ち合いはもちろんだが、その前段階に当たる源頼光と酒呑童子が酒を酌み交わすくだりも丁寧に語られる。というのも、酒呑童子の生まれは、雪深いこの地方であると語られるからだ。


 言葉の分からない少年に、長唄は退屈かと思ったが、少年は弦を弾く撥を目で追いながら、力強い音色に聞き入っていた。


 そういえば、真美子の長唄を聞いたのは久しぶりだな。


 弥兵衛は少年が大人しくしていることに安心し、目を閉じて聞き入る。いよいよ語りは源頼光と酒呑童子の立ち合いに入る。弥兵衛の脳内に、太刀を引き抜いた源頼光の勇ましい姿が思い浮かぶ。

 源頼光といえば、酒呑童子だけでなく土蜘蛛退治の伝説でも知られる武勇である。しかし、決してただの荒くれ者ではなく歌才にも優れた者であったという。男として生まれたならば、このような人物に憧れを持って然るべきだろう。弥兵衛は真美子の語りに聞き入りながら、そう考えた。


 そういえば、この少年には、まだ名前がない。拾った時は、もともとの名前を知る手がかりがあるだろうと考えていたが、それを見つけることは叶わないまま。――ならばここで名前を付けよう。


 弥兵衛は、少年を『ヨリミツ』と呼ぶことにした。字は『頼光』としたかったが、少年が少しでも早く自分の名前を書けるようにと『依光』とした。

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