天ぷら
依光が立てた手柄を弥兵衛はひどく喜んだ。彼がむしり取った葉には、晩腐病の病斑があったが、ごくごく小さいもの。葡萄園には数百を優に超える数の葡萄が植わっており、そのひとつひとつの葉まで計上すれば、とんでもない数だ。まさに大海の中から、一粒の石を探し出すようなもの。
「依光、これは大手柄だぞ」
わしゃわしゃと依光の髪を撫でる弥兵衛。くすぐったいよと言わんばかりに依光は照れ笑いを浮かべる。二人の様子は、仲睦まじい親子そのものであった。
――ふと、弥兵衛は背中に刺さるような鋭い視線を感じる。振り返ると、紀子が穏やかに、だけどどこかぎこちない笑みを浮かべていた。
「どうして、そこで突っ立っているんですか」
土間に足を踏み入れず、紀子はちらちらと家の様子を覗くのみ。
「いざ、他人の家の土間を濡らすと思うと、申し訳なく思いまして」
「雨の日に濡れない土間はありません。遠慮なさらず」
紀子は小さく礼をして、土間に入った。
この紀子という女に対する遺産目当ての婚約者だとかそういう先入観は、弥兵衛の中ではもう薄まりつつあったが、代わりに言いようのない恐怖が芽生えつつあった。
依光の濡れた身体を拭いている今も、背中に不穏な視線を感じてしまう。
「こんなに広いお屋敷ですと、使用人の方々も結構いらっしゃるのでしょう」
そんな警戒を抱かれているとは知らずに、紀子は弥兵衛が貸してくれたタオルで身体や衣服を拭きながら尋ねる。
「昔はそうだったが、今は殆ど果樹園の世話に回らせています。私のために働くよりも、公のために働く方が幸せでしょうから」
「でも、それでは――こんな広い屋敷の手入れ、一人では大変でしょう」
「そのために依光を小姓とした。私の手も空き、依光も大いに学ぶ」
「子供だけでは頼りなくはありませんか」
紀子の会話は矢継ぎ早だ。弥兵衛が言い終わるまでに、食って掛かるように言葉を重ねたがる。
煩わしい。弥兵衛は口には出さないけれども、そう思わずにはいられなかった。
台所から古新聞を大量に取り出し、玄関から風呂場までの道のりに敷き詰める。それは依光を拾ったあのときとまったく同じ作業で、つい数日前のことだが、なんだか感慨深くなった。
がらり、と玄関の引き戸が開いて、植木屋の半次郎が果樹園から戻って来た。弥兵衛は、これを好機と見て紀子の居心地の悪い視線から逃げるように依光を連れて風呂場に行くのだった。
***
「たしか旦那の見合い相手の――」
「はい、大井紀子と申します」
半次郎は分かりやすい男。紀子は歳も若く、器量も良い娘だ。半次郎は土間で対面するや否や、鼻の下を伸ばした。
「うひゃあ、別嬪さんだ。これは旦那に妬けますなあ。私だったら放っておかない」
「そういう褒められ方は、嬉しくありません」
毅然とした態度で紀子が言うものだから、半次郎は眼を丸くした。
「随分と気が強いんですね」
「大井家を一人で背負う娘です。気が強くなくては務まりません」
歳の割にはしっかりした娘だと半次郎は思った。
「川上さんとはもう長いんですか」
「それはそれは生まれたときから知ってますからなあ」
「好きな食べ物とか、分かりますか」
紀子は、玄関先に敷き詰められた新聞紙の上に腰掛け、一息ついていた半次郎に詰め寄る。顔がくっつくかと思う距離だ。
なるほど、そういうことかと半次郎は察した。
「そうさなあ、天ぷらが好きでたまに市街地の天ぷら屋にふらっと食べに行きますよ」
「天ぷらですか、得意料理です」
両手で握り拳を作ってまで言うものだから半次郎はにやけてしまう。
「そうか、旦那は料理に関してはものぐさで、干物ばかり食ってますからな。手料理でも振る舞えば喜ぶでしょう」
「そうですか、ありがとうございます」と、その返事は歌うように上機嫌だった。半次郎は、紀子の様子を微笑ましく思う一方、弥兵衛の気難しさを熟知していることもあり、その強い恋慕が仇とならなければ良いが――などと考えていた。
しばらくして、弥兵衛と依光が風呂から上がってきた。
湯気に乗って石鹸の香りが広がる。はだけた甚兵衛の襟元から覗く胸板。おざなりに拭いただけでまだ湿っている乱れ髪、首筋。紀子は思わず見惚れてしまった。けれど、それではいけない、と首をぶんぶんと振って自らを鼓舞する。
「あの、台所とエプロンを借りてもよろしいですか」
「構わないですが、何をするのですか」
「言ったじゃないですか、せっかくですから何か作って差し上げます、と」
失礼します、とひっそりとほくそ笑みながら玄関を上がり、台所に向かう。いそいそとエプロンを付け、鼻歌交じりに支度を進める。
「天ぷらがお好きだそうですね。少しお時間と食材をいただきますね」