濡れ女
見合いの数日後、弥兵衛は母の入院する病棟まで見舞いに来ていた。病棟は緑の深い山奥にぽつんと佇んでいる、所謂サナトリウムというものだ。
「兄上はここに来るときは、いつも不機嫌な顔ですね」
顔をしかめながら窓の外で揺れる木々を見つめる弥兵衛に、真美子が言った。
弥兵衛はこの場所に来ることが嫌いだった。それこそ、真美子に誘われでもしない限り、訪ねることがないくらい。
新鮮な空気を与えて自然療法を施すなどと気持ちの良いことを謳っているが、それにどれだけの効果があるのやら――と口をへの字に曲げて思案する。決して口には出さない。
この場所に連れて来られるということは、医者もお手上げで、自然に任せるしかないということ。弥兵衛の母親もそうだった。
病室に入ると母親が一つ咳をした。
「近くには来なくていい」
敷居を跨いだところまででいい、といつも母親は言う。弥兵衛も真美子もそこで突っ立って、背伸びをして覗き込むような格好で母親と話す。
そこで弥兵衛は、母親から「相手の印象はどうだったか」、「品のいい人だったか」などと質問攻めにあった。
相手の紀子の印象は、確かに悪くなかった。嘗ての名家から落ちぶれたという卑しさは微塵も感じられず、実に品のある女性だった。おまけに器量もいい。
「そこまで言っておいて、どうして次に会う約束をしなかったんだい」
母親は、弥兵衛の奥手ぶりに少し語気を強めた。
「初めて会うというのに、自分のことばかり話してしまったものですから。それも仕事のことばかり。きっと、つまらない人間だと思われたことでしょう」
澄ました顔で弥兵衛が答える。しばしの沈黙の後、母親と真美子が同時にぷっと噴き出した。ついでに母親が咳き込むものだから、弥兵衛は慌てた。
「ごめんなさいね。あまりにも初なこと言うものだから、つい……」
弥兵衛にとっては、笑われたことよりも母親の咳がひどくなってしまったことへの心配の方が大きかったが。母親の「久しぶりに笑った」という一言に胸を撫で下ろす。
「あなたはもう少し女性に慣れるべきね。今はしばらく様子を見ておくけれど、私は諦めないからね」
そう言って含み笑いを漏らす母親が、少しだけ病室に入った時よりも元気になったかのように思えて、弥兵衛も真美子も笑顔を返した。
サナトリウムから出ると、待機していた運転手が車から降りて礼をした。
「奥様、川上様。お待ちしておりました」
彼は真美子の嫁ぎ先である斎藤家の使用人だ。真美子に連れられて見舞いに行く際は、いつも彼の運転する車に乗せてもらっている。
「もう幌も乾いたところです。とはいってもこれから麓の雨で濡れるのでしょうが」
車の中にまだ残る雨の匂いを嗅ぐと、弥兵衛は口を歪めた。この時期の雨は、激しくなることが多い。家に残して来た依光のことが心配だから急いでくれ、と運転手に促した。
「兄上の心配性だこと。依光の面倒は、半次郎さんが見てくれているではありませんか。あの人なら、兄上よりも子供の扱いが上手ですから、心配することはないでしょう」
そういう問題ではない、と反論する弥兵衛を真美子が子煩悩の父親みたいだと笑った。否定すれば否定するほど、図星だとられると悟り、弥兵衛はへそを曲げて窓の外に視線を移した。
ぽつ、ぽつ――と幌で防ぎきれなかった雨粒が車中に降り注ぐ。幸い、横殴りではないが、坂を下っていくごとに雨脚は強くなっていった。
道もひどくぬかるんでいたが、馬力の強いT型フォードは難なく進んでいく。悪路を下ること数十分ほどで、弥兵衛の邸宅の近くまで着いた。
「今日は、うちには寄って行かないのか」
「あんまり兄上の所に出入りしていると、あの人の機嫌が悪くなってしまうものですから」
苦笑いする真美子に別れを告げ、弥兵衛は和傘をさしてすっかり川のようになってしまった道を歩き始めた。途中、壊れて捨てられた蝙蝠傘が打ち捨てられているのが目に入った。確かに雨は強いが、傘が壊れるほどの風は吹いていない。
突風でも吹いたのか、と思って通りがかった人に尋ねたが、「今日は雨は強いけれども、風はずっと穏やかだった」と。余計に壊れた傘の不自然さが増すばかりだった。詮索しても雨に濡れるばかりだと諦めて、ひとまず家に戻ることにした。
道が開けて家が見えたところで、弥兵衛は目を疑った。家の軒先で雨宿りする人影が――どうも見覚えがある。そう思って、目を細めながら近づいていく。やがて、それは確信に変わった。
彼女は、近づいて来る弥兵衛に気が付くと、ひっそりと笑った。
弥兵衛は、どうして彼女がそこにいるのか、全く理解ができなかった。――てっきり、もう会うことはないだろうと思っていたから。
「大井さん、何故ここに」
戸惑う弥兵衛の問いにはすぐに答えず、跳ねるような足取りで軒先から出て、雨に濡れることなど何の気にもしないままに弥兵衛のもとまで走って来た。そして、半ば押し入るようにして、傘の中に入り込んで来た。
「傘が壊れて、雨に降られてしまったのです。――でも、あなたをこうして迎えることができて好都合です」
濡れてしまった衣服を擦りつけるかのように近づいて来るが、自分がさす傘の中では逃げ場がない。彼女の匂いが感じられるほどの至近距離、思わず背がしゃんと伸びてしまう。
「たまたま近くまで来ていたものですから。あなたのところの軒先を失礼ながら、お借りしておりました」
ハイカラなワンピースは、じっとりと濡れていて、スカートの裾からは水が滴っていた。乱れた髪が首元に絡みついていて、寒さに震えた声と相まって妖艶であったが、弥兵衛にはその色気が、薄気味悪いものに感じられた。
弥兵衛の邸宅は、市街地からは少し離れており、周りには弥兵衛の持つ葡萄園と醸造所、公衆電話――これも市街地の物で事足りるはず――を除けば、何もないに等しい。彼女が、たまたまこの場所を通りがかるというのは、ひどく不自然だからだ。
けれど彼女を無視することは、弥兵衛にはできなかった。軒先で雨に降られて濡れている人を放っておくことなど。
結局、弥兵衛は家の門を開け、彼女を中に入れることにした。
「ありがとうございます。お礼に何か作って差し上げます」
門の内側に入るや否や、彼女は後ろ手で鍵を回した。