アイリス
王都のヘイズ邸、犬舎の前の陽だまりで犬達が群がっているのは、豊かな赤い髪をひとくくりにした愛らしい少女だった。クリクリとした瞳を輝かせながら、一匹一匹の毛並みを丁寧に梳いて行く。少年のようなシャツとズボンに身を包み、何事かを犬達に話し掛けている。
「ジョン……ちょっと待っててね。ここが絡まってるから……わっカムイ!悪戯しないの!今はジョンの番なんだから、カムイは最後……!」
カムイがそこでピン!と黒い三角の耳を立てて動きを止めた。そしてパッと後方へ駆け出して行く。ジョンを梳く手を止めて振り向くと、案の定其処にはすっかり灰色に染まった髪を短く刈りこんだ厳つい男がいた。
「イーグル様、お帰りなさい!」
パッとジョンを解放して立ち上がったアイリスは、絡みつくカムイをしゃがみ込んでワシワシと撫でているイーグルに駆け寄った。
「熱心だな」
「はい」
アイリスが彼の前に同じようにしゃがみ込むと、彼は厳つい顔を和らげて赤い髪に手を伸ばした。同じようにワシワシと撫でてやると、アイリスはニコリと嬉しそうに笑う。まるで褒めて褒めて!と絡みつくカムイと同じだと、イーグルは彼女を撫でる度に思う。
「ウォン!」
「わふっ!」
イーグルの存在に気付いたミラとジョンも軽やかに走り寄って来る。その後からゆっくりとやや年配のマルとムイが歩み寄って来て、鼻をクイクイとイーグルに押し付け始めた。イーグルは群がって来た犬達の顎を、順にがしがしと乱暴に搔いてやる。
アイリスはそれをニコニコと見守っている。犬達はイーグルが大好きなのだ。きっと群れのリーダーだと思っているに違いない。しかしアイリスにいたってはよく何処かへ遊びに行ってしまって犬舎を留守にする群れの末っ子か、若しくはいつもの飼育員の見習いくらいにしか、思われていないのかもしれないけれど。
王立女学院には男子が通う王立学院と違って寮は存在しない。王都に屋敷を持つ貴族令嬢はみずからの屋敷から女学院に通うのだ。それ以外の者も使用人を引き連れ、母親や親戚筋の女性などと王都に屋敷を借りて通う。其処までの財力が無い家の令嬢であれば親戚や知己を頼ってそちらに身を寄せる場合が一般的だった。
男子の通う王立学院は少数ではあるが優秀な平民にも門戸を開いている。それはもともと王立学院の目的が王宮を支える文官や騎士団に必要と思われる人材を養成する為のものであるからだ。しかし最近は財力を頼みに有力な商家の息子が人脈を作る為に入学する事例も増えているらしい。
一方王立女学院は基本的に王立学院と性格が異なり、貴族子女が必要な教養を学ぶために存在する。言わば花嫁修業の場所としての役割を担っているため、余分な自由や知識を与えるのはよろしくないと考えられていた。だから監視の目の十分に届かない寮などに娘を預けようなどと考える親はいないのだ。
フォーンが王立学院に入学し、寮暮らしを始めた後もアイリスはヘイズ邸へ出入りを続けた。彼女は実家通いを良い事に、フォーン不在の間も婚約者と言う大義名分を行使して幼い子供の頃の習慣を続け週二回ヘイズ邸を訪れている。勿論長い休みにはフォーンもヘイズ邸に帰ってくる為、その間は昔と変わらず彼女はフォーンと一緒に犬を構い、お茶をして近況報告と称しておしゃべりに興じるのだ。
イーグルは二年ほど領地に引き籠っていたが、その後王都のヘイズ邸に身を寄せるようになった。領地に引き籠ってから一年後、妻であるアイビーがイーグルに見守られる中息を引き取った。イーグルは葬儀の後も体調不良や領地対応など、なんのかんのと理由を付け王都からの呼び出しを避けまくっていたが、結局戦友達や元部下達の懇願を受けて渋々王都に戻って来たのだ。
英雄イーグルの名声は未だ衰えない。王宮からも公式に伺候するよう再三要請が届いているのだが、面倒だからと断り続けている状態だった。カリスマを備え、ゴールド国を率いて諸国の平定に導いた偉大な前国王が数年前に崩御し、27歳の賢明ではあるもののまだ年若い国王をいただく王宮は彼の求心力を再び利用できないかと考えていた。しかしイーグルにとってはもう、自分が敢えて出て行かねばならない程の火急の必要性があるとは思えなかった。諸国の平定と言う大役を全うし、その為に無理を強いた妻に寄り添い見送った後、さほど情熱を抱けない仕事に興味は無かった。熱烈なアプローチが王宮や派手好きな貴族からある度『老体ゆえ、ご辞退申す』の一筆で通して来た。と言ってもイーグルと対面した誰もが彼を見て『老体』を連想する事は無かったのだが。
今回ばかりは息子であるディアの説得も功を奏しなかった。まだ王都に出て来る気になってくれただけ、マシだとディアは父親を公の場に引っ張り出す事を諦めた。むしろどうしようも無いトラブルを収集する為の切り札になってくれれば良い、彼の身柄が王都のヘイズ邸に存在するだけでも周囲に対する十分な圧力となり得たから。
と言う訳でイーグルは若者に稽古を付け現役の元部下や戦友の相談に乗り、渡りを付けて欲しいと要望があれば、気に入った案件だけ知己へ一筆付けたすくらいで表に出る事は一切しなかった。気の向くまま自己の鍛錬をしては犬と馬の手入れをし、空いた時間は新しい諸国の書物を翻訳して毎日を過ごしていた。
勿論その日々の中で週二回現れる可愛い赤毛の孫娘(仮)と接するのは彼の貴重な癒しの時間となっていた。ヘイズ家の面々にとってはフォーンとアイリスの婚約は正式な届けを出していないだけで最早それは確定案件である。それ以外の選択肢など考慮に入れる必要も無いのだ。十六歳のフォーンも子供の頃からの希望通りイーグルのような騎士を目指し、修練に邁進している。英雄である祖父に追い付き追い越せと、立派な騎士たらんと真面目に励んでいるようだった。
フォーンとアイリスは仲睦まじく気の置けない関係を維持していたし、政略結婚とは言え一部の色事にだらしのない貴族のように愛妾を置いたりする事はあり得ないだろう。何よりアイリスを孫娘とも思っているイーグルがそれを認めない。更には父であるディアも、友人で戦友とも言えるバードの娘をそのように扱うことを許さないから。
この国では正式に一夫多妻が認められるのは国王のみであり、国王に実子が得られず更に他の王族にも子供が生まれない場合のみ、例外的に他の王族に側室を娶る事が許されているだけだった。その規則を運用により拡大解釈して王族が側室を得た時代もあったが、基本的には原則この国では王族も一夫一婦制であり、現王も王太子もそれを遵守している。つまりそれに倣い臣下である貴族達も一夫一婦制である事が良いとされていたし、愛妾を持つ貴族は大きな声でそれを吹聴するのは恥とされていた。
しかし相変わらず、と言うかますますフォーンと縁談を望む貴族は多かった。
イーグルのように軍神や魔王と畏れられるほどの迫力は無いものの、剣術の成績も良好で実技以外の科目でもフォーンは優秀な成績を収めていた。武官にも文官にもなり得て、更にはその栄達も約束されたものと思われている。更にかつて美少女と見まごうほど美しかった容貌は年を経るごとに冴えわたり、フォーンは予想通り立派な美男子に成長した。公に開かれた剣術試合では黄色い声援が上がり、夜会に参加すれば常に若い女性の注目の的で彼の周りには人だかりができるようになっていた。
アイリスが女学院に入学してからは、合同の催し事は全て彼女をエスコートして来たが、常に彼女と離れた隙を狙ってダンスを申し込まれたいと思う女性陣がぞろぞろとフォーンの目の前を意味ありげにうろつくのが常だった。
アイリスはいつも同級の令嬢たちから羨ましがられたが、幼い頃から家族のように気の置けない付き合いをしているフォーンの美貌は見慣れていたので、特に優越感を抱く筈も無く、フォーンを褒められれば「そうですね」と肯定しお礼を言うにとどめていた。
アイリスにとってはフォーンはフォーンで。
英雄イーグル=ヘイズとは別個の存在で。宰相候補筆頭のディアとも違う。
勿論『憧れの貴公子』なんて言われている存在とはかけ離れている。
とは言え彼女はイーグルも大好きだし、フォーンも大好きだし、ヘイズ家で犬達を構いながらイーグルやフォーンとお茶をする時間は宝物であった。そしてフォーンも同じように思っていると感じていたし、実際フォーンもそう思っていたのだ。
あと一年弱もすれば、フォーンは成人し学院を卒業する。
そうなればディアはフォーンの再度の申し出を受け、二人は正式な婚約の届けを提出する事になり、その一年後にはアイリスの卒業を待って正式な夫婦になるだろう。
それはヘイズ家とペイトン家両家の皆には当然の決まりきった予定であり、フォーンとアイリスもそうなるだろうと、この時は信じて疑わなかったのだ。