仮の婚約
アイリスに弟が生まれた後、フォーンは父親にアイリスとの婚約を申し出た。ディアはその申し出に「考えてみる」とだけ返答したが、その後アイリスの父であるバードと話し合い、前向きに検討すると言う事で合意に至った。
「お前たちはまだ子供だ。大人になってもその気持ちが保てるようなら、考えても良い」
「大人って……成人してからってこと?成人前に婚約している人達もいるよね?」
確かに身分の高い貴族子女は、特に女性の場合は成人前に婚約の届けを済ませてしまう者も多い。しかし八歳と九歳、と言うのは早過ぎだった。早くても十二、三歳、通常は成人である十六歳手前から成人後二~三年と言うのが一般的なのだ。
「お前が立派に学院で修業して、ひとかどの人間になれたら考えても良い」
そう言って突き放したものの、バードがオレアを娶ると決めた頃からディアはこの縁組の可能性について検討し始めていた。
英雄イーグル=ヘイズを祖父に持ち、将来の宰相候補と言われる父を持つフォーンに既に目を付けている貴族は大勢いる。
上は十五歳、下はそれこそ三歳児の娘を持つ貴族からフォーンに対しての茶会への誘いや誕生会への招待が湧いて来るほどあった。皆『縁談』と直接口には出さないものの、その笑顔の裏側に下心がありありと浮かんでいるのが見えるようだ。
財政状況の苦しい身分だけが取り柄の貴族や、勢いはあるが名誉や歴史を金を出してでも買いたい、と言う新興貴族まで。要するにフォーンを青田買いしたい、そうする事で英雄イーグルの虎の威を借り、王宮で力を持ちつつあるディアに近付き、自分達に有利な政策をして貰おうと―――計算している輩が多いのだ。
縁を結びたいとこちらが思えるほどの家の場合は、売り込みをかけてくる事は無いし、むしろそちらもヘイズ家と同様であちらこちらから引く手数多な状況だ。
その点、ペイトン家はヘイズ家の縁談相手として申し分ない。
まず、家格が釣り合っている。それから領地の立地上、都合が良い。
ヘイズ領には二つの街道がぶつかる結節点に存在し、戦後一層商いが活発になり賑わうようになった。ペイトン領はヘイズ領を通る河川が注ぎ込む港町にあり、婚姻関係となればペイトン領に存在する港に集まる海産物や交易品が、よりスムーズにヘイズ領に運ばれる事になり、更なる繁栄を互いの領内にもたらすことだろう。
そしてフォーンの縁談相手とあるアイリスは、事情があって積極的に周囲に露出せず、更には家督を継ぐ予定であったため、積極的に縁談に絡む話を持ち掛ける相手がこれまでいなかった。
何よりディアとバードは戦友と呼べるほど長年苦労を共にしてきた。アイリスとフォーンも兄妹のように仲が良い。腹を探る必要のない信頼できる相手との縁組は、他人の裏を読むことが日常となっているディアにとっては何にも代えがたい価値があった。
しかしだからこそ簡単に頷いてはならない、とディアは自らを律したのだった。
祖父と親の七光り、鳴り物入りで学院に入学するフォーンは周囲から持ち上げられるか、若しくは嫉妬や羨望の的になるだろう。そうして苦労を知らないまま成長すれば―――いずれ簡単に甘言に惑わされたり、小さな苦境で折れたりする人間になってしまう。
戦争の混乱が終結し、国は太平の世に向かいつつある。そんな世の中で大事な跡取りが甘やかされてしまっては困るのだ。やわなお花畑思考のお坊ちゃんに、ヘイズ家とヘイズ領の領民を任せる訳にはいかないのだ。
つまりディアはアイリスとの結婚を餌に、フォーンに試練を与えることにしたのだ。祖父の後を追って騎士になるのも良い。自分の実力を知り、夢破れて文官になるのでもどちらでも構わない。―――だが望んだからと言って、何でも簡単に手に入るものではないのだと、息子に学んでもらいたかった。
フォーンは少々楽観的に過ぎる部分がある、とディアは感じていた。
それは子どもであれば可愛らしい、愛すべき性格なのだが。男として、領主としては一筋縄でも二筋縄でも行かない人物になって貰いたい、貰わなければ困る。そんな危機感と考えがあっての対応であった。
こうして、アイリスとフォーンは仮の婚約者となる。
しかし実は本人達以外の両家の人間は皆、この二人の仮婚約がほぼ確約したものであると承知していたのだった。