木登り
アイリスはいつも通りフォーンと犬達と遊んでいた。犬達と夢中で戯れていたため気が付くのが遅くなった。フォーンがいない。
「あれ?フォーン……」
キョロキョロと周囲を伺っていると、フォーンが彼女を呼ぶ声がした。
「アイリス、おーい!」
それは思いも寄らぬ所から降って来て、アイリスは頭上を振り仰いだ。すると木の上に立ったフォーンが、得意げに彼女を見下ろしていたのだ。
「フォーン!」
「ここから見ると、王都が良く見えるんだ」
王都にあるヘイズ家の屋敷は、少し小高い所に位置していた。フォーンは使用人や父母の目を盗んでここに登り、王都の様子を眺めるのが好きだった。
犬達を纏わり付かせたまま、アイリスは羨望の眼差しを浮かべる。
「いいなぁ、私も登りたい!」
「えー……。それは駄目だよ」
すると思いも寄らず拒絶の反応が返って来たので、アイリスは目を丸くした。
「何で?」
「アイリスは女の子じゃないか。女の子が木登りなんて」
アイリスはムッとして腕組みをした。
「いつも私のこと『弟』扱いしているくせに!第一、男と女で何が違うって言うの?ドレスならともかく、今の服は男の子と一緒なんだから問題はないでしょう?」
「……うーん……」
確かにそう言われればそんな気もしてきた。それにこの極上の景色を弟分であるアイリスに見せてあげたい、と言う気持ちも無い訳では無い。フォーンはしぶしぶ頷いた。
「じゃあ、登っておいでよ。でも怖くなったらすぐにそこで止めるんだよ」
「うん!分かった!」
こうしてアイリスは木をよじ登り始めた。フォーンの心配を余所にスルスルと登り終え、とうとうフォーンの手を取って隣の木の股に足を掛ける所まで辿り着いたのだった。
「うわぁ」
キラキラと瞳を輝かせてアイリスも絶景を見渡した。
「スゴイスゴイ!ヘイズ家ってこんな高い所にあるのね」
「有事にすぐ情勢を把握できるようにって王様からこのお屋敷をいただいたそうだよ」
「ディア様がいただいたの?」
「ううん、おじい様が賜ったそうだよ。おじい様は偉い騎士様だからね。軍の最高司令、大将軍だから!」
「軍神イーグル=ヘイズのことね?」
幼いアイリスも、その名は耳にした事があった。
「ああ」
フォーンが得意げに胸を張る。折に触れて彼は自慢の祖父の事をアイリスに語って来たのだ。その所為でアイリスも『イーグル=ヘイズ』の活躍にはなかなか詳しくなった。
「でも、フォーンはおじい様にあまり会った事が無いんでしょう?」
戦時下、諸外国の平定に走り回っている王立騎士団の大将軍は、ここ数年王都のヘイズ邸に戻っていない。フォーンの父親であるディアは仕事上連絡を取り、稀に顔を合わせる事もあったが、それでも半年か一年に一度王宮などで政治的な遣り取りをするくらいだ。もう三年もフォーンは尊敬する祖父と会っていなかった。それゆえに憧れもつのった。
「うん、だけど父上のお話ではそろそろ戦争が終結するらしいから、おじい様も王都に戻られるそうなんだ」
「へぇー良かったわね」
「ああ、おじい様はお忙しい方だけど……帰ってきたら僕の剣術の腕前を見て欲しいんだ。その為に頑張って来たんだからね」
キラキラした瞳で語るフォーンの横顔を見ながら、アイリスも胸を高鳴らせた。
「フォーンは騎士様になりたいのよね」
「ああ!おじい様みたいな立派な騎士様になるんだ」
「私は犬舎のお世話をする人になりたいなぁ……」
するとフォーンがアイリスの顔を覗き込み、目を丸くしていた。アイリスは頬を染めて言い訳を零した。
「なっ……分かっているわよ。お仕事にするのは無理だから、せめて大きくなったらフォーンみたいに犬を飼いたいなぁって思っているくらいで」
アイリスも幼いながら伯爵令嬢である。一度家庭教師にその夢を語ったら、苦笑され諭されてしまった。
「家庭教師にも言われたわ。世話をする仕事は平民の仕事、犬を飼いたければ理解のある殿方をお婿さんに迎えるべきですって」
「ふーん……じゃあ、さ」
フォーンがニコリと微笑んだ。
「僕と結婚すれば良い」
「え?」
「僕ならアイリスが男の子の格好で犬と遊ぼうが気にしないよ。立派な犬舎もある事だし」
「……」
サラサラの黒髪を風になびかせながら、フォーンは水色の瞳を細めた。
「そうするといいよ、僕もアイリスのこと好きだしさ。アイリスはどうなの?」
「え?私も……フォーンのこと好きよ」
「ジョンやミラやカムイよりも?」
「う……でも、お嫁さんに貰ってくれるなら一番好きになる!」
口籠るアイリスをフォーンは疑わし気に見やったが、やがて笑って頷いた。
「じゃあ決まり!でも俺が騎士になってからだからまだ先の話だけど。騎士はか弱い女の子を守り、願いを叶えるものだからね。あ、でもアイリスは『か弱い』とはちょっとばかり違うかもしれないけど……」
「あら、私だってか弱いわよ?……だって」
途端にふにゃりとアイリスの表情が歪んだ。
「今頃……足が震えて来た……」
今更ながらに高さを実感し始めたアイリスは、そう絞り出すように言うと木の幹にしがみついた。こうなると一歳年上の男子とは言え、幼いフォーンの手に負えなくなってしまう。
「アイリス、今助けを呼んで来るから待ってろよ……!」
スルスルと慣れた動作で木を降りたフォーンは、そう彼女に言い含めると屋敷に向かって走り去ったのだった。




