ディア
「父上!」
広いテーブルの端に座り悠々と夕食を取っているイーグルのもとに、手紙を握りしめたままのディアが勢いよく飛び込んで来た。
「ディアか、早いな。最近の王宮は暇なのか」
ワインを一口含み、チラリとディアを一瞥しイーグルは意外なものを目にしたように眉を上げた。この時間帯にディアが館に帰って来るのは非常に稀なことである。しかしつい先日同じようなことがあったばかりだ。揶揄いを含んだ台詞にディアは憤慨した。
「『早いな』じゃありませんよ!『王宮が暇』などと下らない戯言を言っている場合ではありません。これですよ!一体どういうことですか……!」
「『どういう』?書いた通りだ、目を通したのなら分かるだろう?」
「はぁ?!父上、気でも違ったんですか?『アイリスと結婚』なんて……悪い冗談はやめてください。あり得ない……!」
イーグルの手紙を目にしたディアは、取る物も取りあえず王宮を後にしたのだった。抜けられない仕事は山積していたが、有言実行を常とするイーグル=ヘイズを放って置いたら大変なことになる、手を打つなら一刻も早く打たねばならない。ひょっとして手紙の内容は何かの暗喩である可能性もある、それか何かを企んでいる可能性も―――その真意を確かめずにはいられなかった。文面通りに物事を進めるには、あまりにも突飛で不可解な指示だったのだ。
「年の差はあるが、あり得ないとまでは言えないだろう」
イーグルとアイリスの年の差は三十四。事例はそうそうないかもしれないが、規律で禁じられている訳では無い。イーグルは冷静に指摘した。しかしそうは言っても、これほどの年の差の後添えや愛妾を迎えるのは、のっぴきならない事情を持つ政略婚かその男が余程好色であるか……そんな特殊な場合に限られるだろう。少なくとも外野はそのようにしか判断するまい、とディアは慌てた。
「『年』もそうですが!そもそも孫の婚約者を娶るなど―――本当にあり得ません!」
ディアは柄にもなく声を荒げた。しかしイーグルは素知らぬ顔で嘯く。
「婚約者ではない、『元』婚約者だ。それにもともと正式な手続きを踏んだわけではなかろう」
「この場合については同じようなものです!世間はどう見るとお思いですか?それにアシュリー家との醜聞も広まっているんですよ。下手をすると、父上が先にアイリスに手を出したから、フォーンが余所見をしたのじゃないかと面白おかしく邪推されるかもしれません。しかも孫ほどの年の差の娘に手を出すなんて―――英雄『イーグル=ヘイズ』の名誉が地に落ちてもおかしくない。なんてことを言い出すんですか!」
「俺の評判など、どうでも良い。些細なことだ」
眠たげに目を細めて面倒そうに呟く姿に、思わずディアはカッとなった。
「これは父上だけに留まることではありませんよ。伝統あるヘイズ家にも、泥を塗るおつもりですか?」
「別に汚れたってかまわんだろう、こんな家」
「父上……!」
伝わらないことに苛立ちを覚えるディアに、冷や水を被せるように静かにイーグルは言い切った。
「そんな事より、アイリスの人生の方が大事だ」
「―――」
これには流石にディアも口を噤むしかない。柔らかな笑顔で邪魔者を足蹴にする冷血漢―――と配下の者に畏れられるディア=ヘイズも、多少の罪悪感は持ち合わせている。罪のないアイリスを引き合いに出されると弱かった。
「フォーンの為に……ヘイズ家の為に何の咎も無いアイリスの人生を台無しにするようなら、こんな家潰れたってかまわんだろう?俺の名がなんだと言うんだ。若い娘を犠牲にして守るような名誉など、何の意味もない。それを言うなら孫の不始末は俺の不始末だ。―――アイリスは領地に連れて行く。今の王都の風はあの子には酷過ぎる。だから俺の囲いの中でゆっくり養生させることにした。若い身空で修道院になんか行かせられるか。」
「それは……ただ、アイリスだってそのうちフォーンのことを忘れるでしょう?」
そう言いつつも今回その件で大揉めに揉めたことを、バードから聞いてイーグルに伝えたのはディア本人だった。幼い頃からアイリスとは接しているが、正直多忙なディアは彼女の気性を深く把握しているとは言い難い。今回頑なに引き籠ってしまったアイリスを説得する為に、彼女を良く知るイーグルが直接説得に向かったのだ。その彼が駄目だと判断したものを覆す根拠を、所詮外野でしかないディアが持つ筈が無い。このため、少し声の調子が弱まってしまう。
そんなディアの微かな弱気を嗅ぎ取っているであろうイーグルだが、攻勢に転じること無く落ち着いた調子で返答した。それが既に彼の中で、決意が固まっていることの表れであることを示している。
「俺もそう思う。ただ自暴自棄になっているアイリスをこのままにしてはおけん」
「……それはそうですが……」
しかしディアは反論を口にせずにはいられなかった。どうにか踏みとどまって貰いたい、という気持ちがそうさせたのだ。同時に諦めも感じていて、自然と頭の中では二人の婚姻が明らかになった後の世間の反応や、先々の政務に対する影響についての試行が始まってしまう。危機に対面した時、意識するとも無しに頭の中で様々な条件を天秤に掛け始めてしまうのはもうほとんど、ディアの習性みたいなものだった。
「もうバードとオレアには話は通した。アイリスも乗り気だ」
「は……まさか」
優秀な同僚であり慎重な友人でもあるバードがこんな馬鹿げた婚姻を認めるなどあり得るだろうか?と疑問視しつつも、しかしディアは目の前の父が一旦口にした事は、これまでそれが例えどんなに困難に見えようとも成し遂げられて来たのだと言う事実を思い返さずにいられない。
失望が入り混じった諦念が彼の体に浸透して行くにつれ、ディアの声も徐々に落ち着きを取り戻した。目の前の父が前言を翻す可能性が全くないのだと、渋々理解したディアはフーッと大きな溜息を吐いた。
「……しかし父上、ヘイズ家の当主としてはそんな無茶はやはり認められませんよ。あなたはもう引退したんだ。当主のサイン無しで事が進められるなどと簡単に考えていただきたくない。あなたにとっては『こんな家』かもしれませんが、私にとっては家名と言うのは政治を進めていくうえで大切な切り札なんです。―――私の父であるあなたの権威や栄光もね」
しかし実力行使で目の前の男に敵わないことを、ディアは嫌になるほど十分理解している。が、ディアにも譲れないものがある。王国を安寧に導く為のあの政策もこの事業も―――ヘイズ家の家名とイーグル=ヘイズの威光があってこそ、円滑に進めることが可能になるのだ。そうでなければ自分など、ただの小利口な役人に過ぎない。根回しや弱みを握ることで物事を動かすのには限界がある。人の心を―――とりわけ民衆の心を掴み、動かす動機にはやはり『救国の英雄』の威光と求心力が、まだまだ必要なのだ。
「要求はなんだ」
口元をナプキンで乱暴に拭い、イーグルは立ち上がった。身長はさほど変わらないのに、特別製のバネで出来ているようかのように鍛え上げられた肉体と鷹のような視線からの威圧感に、ディアはいつも本能的な恐怖さえ感じる。一体幾つになったらこの偉大な父親の優位に立てるのだろうか?と詮無い事を考えたのは一瞬のことだった。
イーグル=ヘイズは既に『そうする』と決めたのだ。おそらく目の前の男は前言を撤回することなど、全く考えていないだろう―――ならば、選択肢は一つしかない。
この機会を千載一遇のチャンスと捉え、出来得る限り自分に有利な条件を引き出すしかない。ディアは目まぐるしく脳細胞を働かせて、無欲な英雄を最大限に利用する術をあれこれ検討し始めたのだった。




