初めての反抗
疲れきって隈で縁取られた瞳に、鋭い光が灯っていた。
「恋をした事が無いお方にこの気持ちは分からない。甘くて幸せで……苦しくて痛い。理性も常識も全てどうでもよくなってしまう。周りの事も―――頭ではこうすべきって分かっていても、体が全て拒否してしまう。自分がコントロールできなくなる怖さ……恋をしなければ、それは分かろう筈もありません」
キッパリと言い切る彼女の瞳は、これまでにないほど挑戦的だった。
パッと視線を逸らし、肩に乗ったイーグルの大きな手を振りほどくようにクルリと背を向けてしまう。その背は全てを―――イーグルを含めたこれまで彼女が受けいれて来た筈のもの、全てをも拒絶する背中だった。
イーグルはその時、狼狽えたバードの気持ちが分かるような気がした。いつも明るく他人を気遣う、春の木漏れ日のように愛らしい笑顔を見せていた彼女からの拒絶には、正直胸を抉られるような気がした。
「……アイリス……その」
いつもイーグルに素直だった少女の突然の反抗に、イーグルは言葉を失う。迷った末にイーグルはこう言った。自分には分からない『色恋』について譲歩の言葉を発する。
「今は……そうだろう。けれどもお前はまだ若い。―――つまりまだ狭い世界しか見えていないんだ。もっと年を取って見渡せば、時が経てば……また好いた相手が出来るかもしれん」
小さな背中の向こうから、小さいけれどもキッパリと力のこもった声が響いて来る。
「―――私はもう、この先……恋なんてしません」
若いとは愚かと同義なのかもしれない。
けれども一笑に付せるような余裕は、今の二人の間には無かった。
「アイリスがどうしても今は縁談に乗り気になれないというなら、バードを説得すれば良い。俺も口添えしよう。時間を置けば今はダメだと思い込んでいても、お前の考えが変わる事も十分あり得るんだ。……早まって修道院に行くなどと考える必要はあるまい?」
彼女は今恋に盲目になるあまり、自棄になっている。それを許すバードではないだろうが、あまりの頑なさにこのまま健康を損なったり、若しくは本当に父親の反対を押し切って本当に修道院へ走るようなことになれば―――彼女はいつか、その若気の至りを後悔するのではないか、イーグルはそれを恐れたのだ。
彼の目から見れば、孫のフォーン以上の独身男など、この国にはたくさんいるように見える。
確かに今回の不祥事が無ければフォーンは満点の孫であったが―――性格も良いし努力家で、学業も剣術においても優秀で見栄えも良い。若い女性にとっては十分恋心を抱くべき優良物件と言えるだろう。しかし人生の終わりも視野に入ったイーグルにとっては、彼は未だ『実践未満』の学生に過ぎない。男は社会に出てからが本番なのだ。前評判など評価の対象にもならない。フォーンが本当に優良物件なのか、信頼するに値する『男』に育つのかは分かるのはこれからなのだ。
現在活躍中の文官の若いのにも、イーグルが目を掛けている武官の中にも孫のフォーンなど足元にも劣らない実力者で、財力や家格もヘイズ家以上で、尚且つ性質も容姿も良い人間も実際数多く存在する。つまりペイトン伯爵家の令嬢にして英雄イーグル=ヘイズのお気に入りであるアイリスに相応しい、フォーン以上の男などすぐに見つかる筈なのだ。
彼女はずっとフォーンしか見ていない。ヘイズ家の一員になるのだと、そればかりしか考えていなかった。それはとてもイーグルにとって嬉しい事だったが……それに拘ってしまうと、きっと数年後冷静になった時、彼女は確実に後悔する。その光景が、彼の目に浮かんでいたのだ。
「分かりました」
するとイーグルの説得を受けて、アイリスが背を向けたまま漸く頷いた。
「……何処にでも嫁ぎます。イーグル様が私に嫁げと言うなら、何処にでも」
アイリスはそのまま顔を覆ってしまう。その悄然とした佇まいに彼は胸を強かに抉られた。
「だからもう帰って下さい……!私が我儘だったんです―――そうですよね、恋とかそんな気持ち、貴族の娘には必要ない……そんなものは忘れて生きるのが当たり前なんですから……!」
震える小さな肩を目にし、イーグルはそれ以上何を言って良いのか分からなくなってしまった。しかし自分が何か、踏んでは行けない脆い足場を踏み抜いてしまった事だけははっきりとわかった。きっとアイリスには、イーグルに言われたくない言葉があったのだ。それが何なのか―――イーグルには分からない。
だがイーグルはこの時、あることを思い出したのだ。
自分はつい先日、彼女に約束したばかりでは無かったのか?イーグルに『誰にも言わないから、本当の孫だと思っていても良いか』と尋ねる少女に、こう答えた筈だ。
『お前は私の大事な孫だ。今までも、これからもそれはずっと変わらない』
―――と。そしてこうも言った筈だ。『何かあったら俺の名前を出せば良い。俺の孫を虐める奴がいたら、このイーグル=ヘイズが黙っていないと言ってやれ』とも。
なのに今、彼女を追い詰めているのは―――その、当の自分なのだ。




