説得
西日が入る部屋はオレンジ色に染まっていた。窓を背に立っているアイリスの表情は、部屋の戸口に立っているイーグルにはハッキリと把握できない。彼女が泣いているか、怒っているのか―――その時点では彼には判断できなかった。
「イーグルさま……」
擦れた声には明らかに力が籠っていない。イーグルはツカツカと少女に歩み寄り表情が見える所まで近づいた。それから華奢な顎に軽く握った拳を優しく添えて持ち上げ、じっくりと検分する。
以前顔を合わせた時よりも明らかに痩せている。この二日間の絶食だけが原因ではないのかもしれない、とイーグルは考えた。振り向かずに去っていく小さな後ろ姿を思い出す―――無理して作った笑顔の下にどれほどの気持ちを押し込めていたのか。
フォーンとアイリスが出会ってもうすぐ十年になる、その想いが一月やそこらで吹っ切れる物だと何故決めつけることが出来たのか。若い心は葦のように折れやすいが、しかし持ち直すのも早いのだと考えたいのは、大人の勝手な希望なのだと今改めて思い知った。
アイリスはヘイズ家だけではなく、ここペイトン家でもきっと太陽のような存在だったのだろう。その太陽が翳る様子を見ていることに耐えられなくなったのは、周囲の大人達だったのだ。アイリスの心に寄り添えば―――無理矢理気を取り直すことを押し付けるような真似は出来なかっただろうに、とイーグルは想像した。ゆっくりと、気持ちを持ち直してくれるのを待たなければ。
「アイリス、痩せたな」
「……」
「皆、お前を心配している。オレアもお前の弟も―――それから、お前の父も」
アイリスは溜まらず俯いてしまう。イーグルの遠慮ない視線から逃れるように、単純な絨毯の模様を瞳に映す。イーグルはそんな彼女の肩に手を置いて、諭すように続けた。
「縁談の話に驚いたのだろうが……決して急ぐ話じゃない筈だ。バードだってお前のことを思って……」
「―――イーグル様も……私を嫁がせたいのですね」
震える声は聞き取るのがやっと、というほど低い物だった。尋ねられた意味を咀嚼するのに時間が掛かって返答が遅れてしまう。するとアイリスは視線を落としたまま両手を胸の前で握り込んだ。
「私もそうすべきだと―――思います。いつまでも拘っていては駄目なんだって」
「なら……」
そう、アイリスは周囲の気持ちを慮れる人間だった。なぜ頑なになってしまったのか?イーグルにはそれが分からなかった。アイリスがつらい気持ちを押し込めているということを、先日痛いほど感じたばかりだ。しかし彼女は我儘な性格ではない。縁談が嫌だからと言って衝動的に『修道院へ』と主張したのは何故なのか?まずそれを彼女の口からきかなければ、と考えたのだ。
「だからお父様の言う通り……縁談の話を前向きに考えなけりゃって思って……でも」
アイリスは疲れたように顔を上げた。
「お話を聞いている内に……無理だって声がして。フォーンじゃない人と家族……夫婦になって……ずっと一緒に暮らして。ヘイズ家じゃない方々と家族になるって想像した途端、耐えられなくなってしまって。もうこの先何処にも嫁ぎたくないって……そうお父様に伝えたら『そんな訳には行かない、今はつらくとも新しい男性と接していれば好きになるのは可能だから』って。それに名門のペイトン伯爵家に年頃の少女が居れば、周りは放って置かないものだって、そうおっしゃって。―――だから修道院に行かせて欲しいって言ったんです。そうすれば、縁談を受ける必要はなくなるから」
彼女は受け入れようとした。しかしだからこそ一気に抑えつけている気持ちが爆発してしまったのかもしれない。理性では分かっていても感情が付いて行かない、そう言うことだったのだろう。だからつい売り言葉に買い言葉で『修道院』などと口走ってしまったのだ。
疲れ切って表情の抜け落ちた少女の顔を、イーグルは見つめていた。彼女が胸を痛める理由は理解した……しかし、彼にはその辛さに寄り添う機能がもともと備わっていないのだ。政略結婚の何が悪い?イーグルにはやはり理解出来そうもない。イーグルと妻のアイビーは政略結婚だ、しかし彼にとって妻のアイビーは申し分ない尊敬すべき妻であった。
若い彼女は『政略結婚』を耐えられないことだと、色恋と結婚を分けられるものではないと自分を追い詰めてしまっている。その頑なな心を何とか解さねば、そう考えた。
「アイリス……俺には正直、お前の気持ちは分からん。政略結婚でも愛情と尊敬があれば、良い夫婦にも家族にもなれる。色恋や惚れた腫れたなんてものは、一時期の気の迷いだと後になって分かる。……そんなものが無くとも、幸せな家庭を築けるはずだ」
現に周りを巻き込んだ大恋愛の末の格差婚が―――見るも無残な結果になった例を目にしたことがある。結婚には生活水準のバランスも大事だ。お互いの常識が違えばすれ違いと不幸を産むことも大いにあり得る。むしろ色恋が絡まない方が、穏やかな家庭を築けるのではないかとさえ、イーグルは思うのだ。それを何とかアイリスに伝えたかった。
しかしアイリスの返答は―――彼の予想のしない方向から降って来たのだ。
「イーグル様に……私の気持ちが分かるはず、ありません」
アイリスの擦れた声には、思いもよらぬ力がこもっていた。




