アイリスとイーグル
漸く泣き止んだアイリスを、イーグルは応接室へ招き入れようとした。
「ゴート、飲み物の準備を。あとアイリスの好みの菓子も準備するよう伝えてくれ」
「かしこまりました」
「待ってください……!」
素早く指示を実現しようとし一歩下がったゴートをアイリスは制した。ゴートはピタリと足を止め、慎重深くアイリスの次の言葉に耳を傾ける。イーグルは不思議そうに彼女を見下ろした。
「どうした?アイリス」
「あの、私お屋敷の方には……入れません」
遠慮して首を振るアイリスを、イーグルはしっかりとした口調で窘めた。
「アイリス、フォーンを気にしているのか?だったらいらん心配だ。奴は部屋に籠っているから顔を合わせる心配はない」
アイリスは首を振った。
「ならディアの事を気にしているのか?俺が良いと言ってるんだ、当主のディアだって駄目だとは言わないだろう」
「違います……あの、ローズのことが」
震える声でそう呟き。
それから俯いて、更に小さな声で言い直した。
「あの、フォーンの婚約者になる方に……申し訳ないので」
「アイリス」
咎めるような低い声に、アイリスはハッとして顔を上げる。それから弱々しい微笑みを浮かべた。
「あの本当は私……カムイ達に会いに来たんです。そしてイーグル様とゴートにも……一目会って、出来たらお別れが言えたら良いって思って。だから屋敷の中より、いつも通っていた『ここ』が良いんです」
何処か懐かしそうな表情で、何の変哲もない開けた場所を彼女は眺めた。するとイーグルはそんなアイリスの頭に手を乗せる。それからポンポンと安心させるように二度ほど頭を撫でた。
「ゴート、用意を」
「はい、承知しました」
すると心得たように頷いたゴートがサッとその場を去る。不安気にイーグルを見上げるアイリスに「心配するな」と呟き、いつもしていたようにその柔らかい赤毛を彼の大きな手で梳いたのだった。
やがてゴートは簡単な屋外用のテーブルとイスを抱えた青年を伴って現れた。黒髪の青年は犬達に纏わりつかれながらイーグルの傍らに立っているアイリスを目にすると「あっ」と言って声を上げた。ゴートは口元に人差し指を立てて首を振る。その仕草にハッとしたように口を閉ざし、青年は頷いてゴートと一緒にテーブルとイスを設置し始めた。作業をテキパキと終わらせると、静かに後ろに下がって頭を下げる。
「ありがとう、スクイラル」
「アイリス様……」
名前を呼ばれて青年がパッと伏せていた顔を上げた。
「ほれ、呆けておらんでお茶を用意せんか。他の者には他言無用じゃぞ」
「はい」
青年は照れくさそうに頷いて、イーグルとアイリスにもう一度頭を下げると屋敷の勝手口へと去って行った。イーグルに勧められてアイリスはやっと腰を下ろす。ゴートは「では私は犬達の世話がありますので、失礼いたします」と彼女に微笑み、犬達に声を掛けて犬舎の方へ戻って行った。その背中を見守っていたアイリスに、イーグルは優しく声を掛ける。
「アイリス、随分と久し振りだな」
彼女の緊張を和らげるようと、何事も無かったように藍色の瞳を細めて彼は微笑んだ。
「はい。いつもの時間に居ていただいて嬉しかったです。お会い出来ないままになるかもしれないと覚悟していましたので。でも出来たら一目こっそりでも、見られればいいなぁって隠れていたのに―――直ぐに見つかっちゃいましたね」
アイリスもイーグルの意を酌むように柔らかく微笑みを返した。だからイーグルは揶揄うような口調で笑った。
「カムイの耳と鼻を見くびっちゃいかん。あれは特別性だ。もしも戦場に出ていたら一番に活躍しただろうな」
そう目を細めるイーグルは、既に戦場で失った優秀なカムイの父を思い浮かべていた。アイリスはクスリと笑って首を振る。
「イーグル様とディア様が戦争を終わらせてくれたお陰で、私はカムイと出会う事が出来ました」
「戦争を終わらせたのは俺では無い。戦地で亡くなった兵士や犬、馬達だ。俺やディアはその手助けをしただけだ。生き残ってしまったと言うべきか……」
穏やかな口調で遠くを眺める英雄をアイリスは見つめた。その苦悩を若い自分は完全に理解する事は出来ないだろうと想像する。そしてスッと息を吸い込んで、勇気を振り絞るように両手を握りしめた。
「本当は私……『何とかなるかも』って思っていたんです」
アイリスは俯いたまま、そう呟いた。そこにはいつもこの場所で、木漏れ日のようにキラキラと笑っていたあどけない少女はいない。何処か大人びたように見えるのは、その憂い顔の所為なのか。
「ディア様がペイトン家にいらっしゃって『婚約を無かった事にして欲しい、フォーンもそれを望んでいるから』って―――そうおっしゃったとき、物分かりの良い振りをしたんです。だってディア様が……お父様もすごく困った顔をなさっていたから」
イーグルは舌打ちしたくなる気持ちをグッと堪えた。十五の子供に気を遣わせるような態度を取った大人達を叱りつけたくなったからだ。しかしイーグルだって同罪なのだ。成人一歩手前とは言え、孫のフォーンの不始末を監督し損ねた。それはフォーンを一人前だと認め、信頼していたからに他ならない。その上訳の分からない態度を貫くフォーンを、一度約束したからと言って放置している。結局自分の見る目が無かったのだと、諦めるしかないと自分を納得させたのだ。しかし―――
フォーンの気持ちを認めると言うことは、孫とも思って可愛がっていたアイリスの気持ちを踏み躙るのと同じなのだ。一旦こうと決めた事を覆す真似を滅多にしないイーグルだったが、流石にアイリスの憔悴した表情を見ると胸がグラついてしまう。こうして近くで改めて彼女の表情を観察すると、ツヤツヤとはち切れんばかりだった薔薇色の頬はこけて色褪せ、目が落ちくぼんで見えるくらい隈が出来てしまっている。
寄ってたかって上は五十から、下は十六までの男達が、彼女をそうしたのだと思うと胸が痛む。
「アイリス……すまん」
「あ、謝らないでください!そう言うつもりじゃなくて……イーグル様の所為じゃないんです。私が……」
アイリスは其処まで言って、唇を噛んだ。
「私、どうにかなるって思っていたんです。たぶん。だってフォーンもローズも何も言わないから……何か事情があって言えないだけで、本当は二人の間には何も無かったかもしれないし。今はペイトン家の体面を慮って婚約を無かった事にって言ってくれているけど―――きっとそのうち誤解が解けてフォーンと一緒になれる、ヘイズ家に嫁いで来られる。ここで暮らして……イーグル様とカムイ達と一緒にって……時間が掛かってもきっとそうなるって、そんな風に心の底では思っていたんです。でも……」
ギュッと再び唇を噛むアイリスに危機感を抱いて、イーグルは彼女の頬に手を当てた。
「アイリス、唇を噛むのはやめなさい。傷になる―――」
「……もう駄目なんですね。女学院でも噂になってて……お父様に尋ねたら、本当のことだって」
テーブルを正拳で叩き割りたくなる衝動を抑えるのがやっとだった。
何も手出しをしないと、イーグルはそうフォーンに約束した。それは殴られても蹴られても、決して屈しなかった少年の気持ちを汲んでのことだった。しかし目先のことしか考えず、自分達の利益の為に浅はかな噂を流したであろうアシュリー家とそれに与する輩を放置してはいけなかった。心無いその行いでこんなにも傷ついてしまう少女が、目の前にいるのだから。
頬に当たった武骨な手に、アイリスの小さな手が触れる。
その氷のような冷たさに、イーグルは息を飲んだ。
「ローズのお腹にはフォーンの子供がいるんですよね。だからもう私がここに、ヘイズ家に嫁ぐ可能性は無くなってしまった。どんなに希望に縋って待っても……私の居場所はもうここには無いんですよね……?」
声は震え、その頬は指先と対照的に燃えるように熱い。アイリスが泣くのを堪えているのが分かり過ぎるほど分かるから―――イーグルは、その決まりきった答えのある問いに、どうしても答える事が出来なかったのだ。




