ゴート
イーグルは犬舎の前で年老いた使用人と一緒に、犬達の毛をブラシで梳いていた。犬舎の世話をしている年配の老人はゴートと言い、イーグルが生まれる前からこのヘイズ家に仕えて主に犬や馬の世話に従事していた。山の中で修業を重ねた仙人のように白い髭を長く生やしている。
そのゴートが、イーグルの気持ちを代弁するように呟いた。
「アイリス様、お元気ですかのぉ」
「……」
「カムイがアイリス様がいらっしゃらないことが気になって、落ち着かないようです」
イーグルもそれについては既に気が付いていた。しかしどうにもならない事など世の中には幾らでもある。
「寂しいですのぉ。まるで屋敷の中は火が消えたようです」
使用人といえども十歳年上のゴートは、幼いイーグルに犬の扱いを一から教えてくれた教師のような存在だった。戦場でイーグルが活躍できた一因に、犬の扱いを熟知していたと言う事がある。幾つもの窮地を人間より優れた嗅覚と聴覚、そして素早く静かに駆け回る能力を持つ彼らに救われて来たし、相手を陥れる為の重要な駒として遺憾なく彼等が働いてくれたからこそ、イーグル=ヘイズと彼が率いる軍隊が敵国に魔王と恐れられるほどの凄まじい戦果を上げる事が出来たのだ。つまり元を正せばゴートはイーグルの命の恩人であるし、この国の恩人でもあると言う訳だ。
ゴートに指摘されるまでもなく、何とかしたいのはイーグルも同じだった。しかし事態は悪化の一途をたどっている。
何より肝心のフォーンにアイリスとよりを戻す意思が無い。しかもローズ=アシュリーに懐妊の兆候があるとの報せが入っている。しかし経過日数からまだ腹も膨らんでいないのは目に見えている。実際これから何かが起こったとしてもおかしくはない。だからまだどう転ぶか今の段階で決めつける事は出来ないが―――少なくとも良くはなっていない、と言う事は断言できる。
この報せの後、ディアはアシュリー男爵ことラクーン=アシュリーから、今後の事について相談したいとより一層強く申し込まれているそうだ。のらりくらりと躱して時間切れを狙うつもりだったろうが、息子はかなり追い詰められているようだ。そんな助けを求める恨めしい視線を、イーグルは十分過ぎるほど逞しい背中に感じることもある。
しかし一旦手を引くと宣言したイーグルには、フォーンの意志に任せると言う選択肢しか残されていない。どちらにせよヘイズ家の現当主はディアで、引退した老兵には何も出来る事は無いのだ。
「領地に帰るか……」
やる気なさげな溜息と共に呟いたイーグルに、ゴートは尋ねた。
「イーグル様、犬達はどうされるのですか」
「連れて行く。改修した山城の周囲は良い運動場になるだろう。もう王都の人間には飽き飽きした」
半ば吐き捨てるように言うと、ゴートは肩を落とした。
「アイリス様は―――寂しがられるでしょうね。ここなら……何かあればいらっしゃることも出来ますから」
確かに距離の面からはそう言えるだろう。
しかしローズを娶る事にフォーンが頷いた後、アイリスがここに足を踏み入れる可能性は皆無だ。だとしたらイーグルがここにいる意味は『何もない』と言える。
「ここにアイリスが訪れることなどもう―――」
「あっ……!」
老人が、何かに驚いたかのように声を上げた。ポカンと口を開けたままイーグルの肩越しに一点を見つめている。
「アイリス様……」
あり得ない呟きに反射的にイーグルは振り返った。その視線の先にはまさしく、一月以上前なら週に二度ほど目にしていた出で立ちの彼女、男装して赤い髪を三つ編みで一つに纏めたアイリスが……目立たないフードを被って林の間に身を潜めるように立っていたのだ。




