発熱
アイリスが珍しく体調を崩した。夜会に参加するその当日、急に熱を出したのだ。既に主催者には出席を報告しているため、取りあえずフォーン一人で夜会に参加する事となった。アイリスがヘイズ邸にあて謝罪の言葉を綴った手紙を預けると、手紙を預けた若い使用人がフォーンの返事を手に戻って来た。
『挨拶だけして早々に退出するよ。心配しないでゆっくり休むんだよ』
やはりフォーンは優しい。アイリスは熱い吐息を吐きながら、フォーンに和らげて貰った罪悪感の欠片と共にゆっくりと眠りに落ちて行ったのだった。
その翌朝、ぐっすりと眠ったアイリスはすっかり元気を取り戻した。
用意された消化の良い食事を平らげ体を洗い、締め付けの少ないドレスに着替えてゆっくりと過ごした。異変がもたらされたのは、すっかり体調も落ち着いたその夕方のことだった。
「アイリス、バードが呼んでいるわ」
「え?お父様が?今日は随分お帰りが早いのね」
通常であればアイリスが眠った後に帰宅する筈の父が、もう帰宅したと言う。しかも呼び出しに現れたのは、義母であるオレアだ。通常であれば使用人や侍女が訪れる筈なのに。
不穏な空気を感じアイリスの胸はざわついた。アイリスを伴い歩くオレアの表情も硬い。何事か重大なトラブルが起こったのは明白だった。
「お父様、参りました」
オレアと共に訪れたのはバードの書斎では無く、応接室だった。驚くことに滅多にアイリスと顔を合わせる事が無かったフォーンの父、ディアがそこにいた。バードとディアはアイリスを見とめると、直ぐに椅子から立ち上がる。
「アイリス、久し振りだね」
「はい、お会い出来て嬉しいです」
ディアはバード以上に忙しいようで、アイリスがヘイズ邸を訪れる時間はおろか朝になっても帰らない事も多いようだった。実際王宮に泊まり込む場合もあるらしい。領地は妻に任せ、息子のフォーンは長期休暇以外は学院の寮住まい。王都のヘイズ邸では引退した英雄イーグルヘイズが、犬と馬の世話をしながら悠々自適の生活を送っているばかり。
バードのように妻と二人の子供に会いに帰るなどと言う動機も無いので、仕事ばかりする独り身のような生活をしているのだった。だからアイリスとは数ヵ月に一度、顔を合わせるくらいだ。と、言っても幼い頃からの長い付き合いなので、フォーンやイーグルほどの近さは無いが、お互い距離を取りながらも良い信頼関係を築いて来た。
「アイリス、その……」
アイリスはこれまでディアの落ち着いた堂々とした態度しか目にした事が無かった。そのディアが口籠っているのを目の当たりにして、アイリスはパチクリと瞬きを繰り返す。そしてそのまま、ディアは言葉を継げずに押し黙ってしまった。
言い淀むディアと、二人の膠着状態に口を開こうかどうか迷っている様子のバード。立ち竦む三人に助け船を出したのは、オレアだった。
「バード、まずはディア様とアイリスに席に座って落ち着いて貰ってはどうかしら」
その言葉に我に返ったバードは、まずディアを座らせその向かいに自らもオレアと、アイリスを挟んで腰を下ろした。オレアの指示で運ばれてきたお茶が皆の前に配られるのを待って、まずは、とそれを皆に勧める。
アイリスもお茶に手を伸ばし、カップを口に運んだ。いつもならその芳香をウキウキと楽しむところだが、不穏な空気にザワザワと胸がざわめきそれどころではなくなってしまう。
長い沈黙の末、とうとうディアがカップを置き膝に手を置いて大きく溜息を吐いた。アイリスもバードやオレアに倣ってカップをテーブルに置き、膝に手を揃えてディアの言葉を神妙に待つ。
「アイリス……今まで私は君を家族同然に思って来た。やがては娘になるものと思っていたからだ。いや、もう娘同然だと思っている。それは私の父も一緒だ」
「はい、本当に感謝しています」
ヘイズ家のアイリスへの厚遇は破格のものだった。それを実感したのは女学院に進学した後だ。正式な婚約届を出す前にこれほど大事に扱ってくれる婚家がある事に、皆が驚いていた。それ以前も彼女は自分がヘイズ家に大事にされている事は理解していたのだが……家格や政治的な関係を考慮した縁談でこのように家族同然の扱いをしてくれるのは極めて稀なのだと、同級の女生徒達と接する事で知る事が出来たのだ。
「それは君がフォーンの婚約者で、やがては息子のもとへ嫁いで来る事になるからと言うのが大前提にあって……その」
胸の中に生まれた嫌な予感だグルグルと体中に拡がっていく。
アイリスは息を詰めて、ディアの口元を見つめていた。
「昨日の夜会で、フォーンがある令嬢とトラブルを起こしてね。そちらの家から責任を取る事を求められてしまったのだ。その……正式な婚約者がいないのだから、娘を引き取って欲しいと……アイリス?」
ディアはアイリスの顔をのぞき込んだ。アイリスが顔を伏せてしまったからだ。
オレアがそっとアイリスの肩に手を添える。バードはソワソワとどう対応すべきか出方に悩んでいた。
ディアの問いかけに応えて、アイリスはゆっくりと顔を上げた。さきほど応接室に現れた時、ディアが目にした薔薇色に染まった血色の良い頬は、今は青白く色を失くしている。いつもニコニコと浮かべている笑みが掻き消え、不安に瞳が揺れていた。
その様子を目にして―――大人達は胸を痛めた。特にバードは……かつて幼い彼女が母親を失い、心を失くしたように無表情になってしまった頃を思い出して胸を鋭い爪で鷲掴みにされたような衝撃を受けた。
「……私……フォーンと結婚できないの……?」




