夜会
長期休暇明けのある夜会に出席した時のことだった。
「アイリス!」
連れ立って主催者であるバニスター侯爵に挨拶を終えた後、フォーンから飲み物を取りに行く間待っているように言われ、壁際の椅子でアイリスは着飾った人の群れを眺めていた。すると華やかな出で立ちのローズが笑顔で近づいて来た。
「ローズ、わぁ……素敵ね」
いつ見てもローズの装いは洗練されていて、目を瞠るほど美しい。その装いに負けない可憐な顔立ちも素晴らしい。彼女が通ると賞賛の視線が花道のように次々と向けられるのだ。
「ありがとう。アイリスも良く似合っているわ」
「そうかな?ローズにそう言って貰えると有難いけど」
アイリスはローズに比べて装飾の少ない自らの衣装を見下ろした。装飾の多い衣装はあちこち引っ掛けないか気を遣うので苦手だった。義母であるオレアの見立ては確かで、アイリスの要望を叶えながらも仕立て屋と綿密に打ち合わせ生地選びとラインには拘っている。一見地味に見えるが着心地も良く動きやすくすっきりしたラインも綺麗だし、アイリスとしてはこの衣装を気に入っている。だからファッションセンスで学院の耳目を集めるローズに褒めて貰えることは純粋に嬉しかった。
「ローズって本当に綺麗よね。しかもお洒落で見ているだけでも眼福だわ」
「まぁ、アイリス!嬉しいことを言ってくれるのね」
ローズは微笑みでアイリスの言葉に返答したが、一転してふっと苦笑を漏らす。
「でもこれは安価な生地でも見栄えがするように工夫しているだけ。貴女のドレスのように余計な装飾が必要ないくらいの品質であれば、お洒落に気を遣う必要はないのよ。私から見ると貴女のドレスの方がずっと素敵だと思う……羨ましいわ」
アイリスはローズの謙遜に目を丸くした。彼女はドレスの値段など考えた事が無かったからだ。特に贅沢なドレスにも宝石にも執着が無かったため、与えられる分を受け取っているだけだった。アイリスが自分から要求する事と言えばヘイズ邸に通って犬の相手をすること、そしてフォーンとイーグルとおしゃべりをしたいと言うくらいのささやかなことだ。使用人にも今時手が掛からない珍しい令嬢だと呆れられ、侍女頭などはもっと伯爵令嬢らしく装いに気を遣い、たおやかな趣味に興じて手間を掛けさせてくれと苦言を呈されるくらいだった。
ローズの台詞を理解しかねるアイリスが言葉を選んでいる所で、彼女はローズの背後からグラスを両手に持って人の波を縫って近づいて来るフォーンを見つけた。美しい青年に成長しつつあるフォーンの通り道には、さきほどのローズの花道と同じのように周囲からの視線が自然と集まる。知合いと軽口を交わしながらアイリスの下に辿り着くと、彼はホッとしたように微笑みグラスを差し出そうとした。
「アイリス、待たせた……」
そこで漸くフォーンはローズに気が付いたようだ。
ハッと息を飲んで口を噤む。
「……フォーン様、お会いできて嬉しいです」
ローズは花が咲いたような笑顔で背の高いフォーンを見上げた。するとフォーンは何故か表情を曇らせ、視線を逸らす。含みを持たせるように彼女はフフフと笑う。
「……こちらこそ」
「?……フォーン?」
様子のおかしいフォーンにアイリスが首を傾げると、フォーンは魔法から解けたばかりのように瞬きを繰り返した。そして優雅に口元を綻ばせ、飲み物を微笑みを浮かべたままのローズに差し出した。
「どうぞ、飲みませんか」
「……ありがとうございます」
ローズはフォーンに視線をピタリと張り付かせたまま、それを受け取った。フォーンもしっかりと彼女と視線を合わせて、もう一つのグラスを何故かテーブルに置く。
てっきりアイリスは優しいフォーンが自分の分をローズに譲った上で、もう一つのグラスを自分に手渡すのだと思っていたから拍子抜けしてしまった。
「アイリス」
するとフォーンが真剣な瞳でアイリスを振り向き、彼女の腕を取った。
「はい」
「行こうか」
「え?」
「それではこれで。僕達は失礼いたします」
慇懃過ぎるほど慇懃に、フォーンがしっかりと頭を下げてローズに辞意を示した。
「……」
ローズは黙然としたまま、ニッコリと口元だけで微笑んだ。
フォーンはスイッと視線を外し、アイリスの腕を半ば強引に引っ張り歩み出した。アイリスは驚き、慌てて腕を引かれるまま振り返る。
「ローズ、またね!」
「ふふ……またね、アイリス。フォーン様」
ローズは気を悪くした様子も無く、可憐に微笑んだ。その声は決して大きなものでは無かったけれども、確実にフォーンの耳にも届いていた筈だ。なのに声を掛けられたフォーンは返事もせず、振り向く事なく歩みを進める。
歩き続けてテラスにまで出てしまった。すると漸くフォーンが歩みを止めて振り返る。
「フォーンどうしたの?」
「アイリス……」
ハッとしたようにフォーンはアイリスの腕から手を離して、その手を取った。そして掴んでいた部分を優しく擦って眉を下げる。
「ごめん、痛かった?」
「ううん……大丈夫。あの……ローズと何かあった?」
アイリスがおずおずと尋ねるとフォーンは押し黙り、アイリスの体を引き寄せた。するとポスリと広い胸にアイリスの体が収まってしまう。柔らかく抱き締められて、アイリスは唐突な仕草にパチクリと瞬きを繰り返す。
「どうしたの?」
ハーっと頭の上で溜息が聞こえ、アイリスは顔を上げた。フォーンの水色の瞳が、せつなげに細められているのが見える。フォーンは視線を逸らし、アイリスの頭を掌で包み込んで胸に彼女の顔を押し付けた。
「何でもない……アイリス」
「うん」
「あの女には、もう近寄るな」
「え?」
『あの女』と言うような粗雑な呼称をフォーンが用いるのを初めて耳にしたアイリスは、最初誰の事を言っているのか分からなかった。
「頼む」
それでも切羽詰まったフォーンの声に頷く。
「うん、分かった」
そこで漸く『あの女』がローズのことだと胸に落ちる。
やはりフォーンとローズの間に何かトラブルがあったのだろう。だけど女学院ではいつもローズからアイリスに話し掛けて来るのだ。上級生から話し掛けられて、あからさまに避けるような態度を取るのは難しいかもしれない、と考え直し言葉を選ぶ。
「ええと……出来るだけ頑張る。それで良い?」
「ああ」
ホッと安堵の息を吐いたフォーンがアイリスの頭を撫でて体を離した。
「それで良いよ」
微笑むフォーンはもうすっかり元の『フォーン』だった。
理由を尋ねるべきかどうか、アイリスは逡巡したがそれ以上追及するのは止めることにした。フォーンの瞳の奥に何か切羽詰まったような物を感じ取ったような気がしたからだ。
いつも余裕のある彼の、そんな様子をアイリスは初めて目にしたのだ。




