静謐な死の匂い
わたしはどうしてもこの場所が好きになれなかった。
消毒液の匂いが立ち込める、生と死が同居するこの場所が。
視線の定まらない老爺が徘徊し、訳の分からない叫び声をあげている老婆。それと同時に白衣を身にまとった看護士たちが忙しなく廊下を行き来している。わたしは鼻をつく嫌な匂いを嗅ぐまいと、鼻での呼吸をやめて、歩き慣れた廊下を歩いていた。
一人の看護士が職務時間を終えたのだろう、周りの看護士たちに、お疲れ様でした、といって回っている。彼女もこの後家に帰れば、友人たちと他愛ないお喋りに心弾ませ、好きな男の話でもするのだろう。そう想像すると、何だかこの異質な空間が更に異質なものに思えてくる。わたしはそんな看護士たちを横目に、父のいる病室へと向かった。
「何だ、来たのか」
父はテレビを見ている最中だった。その姿を見て、無性に悲しくなった。父は随分と小さくなっていた。この間見舞いに来たときは、もう少ししっかりしていたような気がする。
細くなった目を開けて、父はわたしが座れる場所を空けてくれた。息がつまる。こんな風になるまで、わたしは父ときちんと向き合ったことがなかったような気がする。
「次はお母さんを連れてくるね、欲しいものとか何かない?」
突然いたたまれない気持ちになって、わたしは次々と優しい言葉をかけた。もともと優しい表情の父が、更に優しくなった気がした。ありがとうよりも先に、父はごめんな、と呟いた。迷惑かけて、ごめんな。舞にばかり迷惑をかけるね、と父はいつだって、他人への気遣いを口にする。
わたしは首を横に降って、しょうがないよ、と呟いた。父の姿を直視出来なかった。
父は二年ほど前に胃癌を患った。胃を摘出し、事は無事に終わったつもりでいた。その後すぐに、肝臓に転移している事が分かり、父はすぐに抗がん剤治療を始めた。肝臓と近くの大きな静脈に癌はくっついていた。手術での摘出が難しいと聞いたとき、父は全く取り乱さなかった。寧ろ母の方が取り乱し、泣いていた。父は母の背中をさすり、大丈夫、と笑った。
俺はいつ死んでもいいから、が父の口癖だった。
「バナナと甘いイチゴが食べたい、あと、お兄ちゃんに会えたらもう何もいらないよ」
わたしは、父の願いを聞くことにした。わたしの兄は地元から離れた場所にいた。今日の夜にでも呼び戻そうと決めた。ただこの季節にイチゴはないかもしれないな、なんてそんなことを考えた。
しばらく、父の横に座っていると、父がわたしの手を握ってきた。そして、また言うのだった。迷惑ばかりかけてごめんね、と。
父の手は酷く冷たかった。
次の日、兄も帰ってきて、母を病院に迎えに行った。母は統合失調症と呼ばれる病気で長い間入院していた。父が入院するまで、父は母の病院に毎日足を運んでいた。癌になってから仕事を辞めて、父と母はずっと共に過ごしてきた。わたしはバナナを買って、父の病室へと向かった。やっぱりイチゴはどこを探しても見つからなかった。
病院に着くと、消毒液の匂いが鼻をついた。やはりわたしはこの場所を好きになれそうになかった。母の乗った車椅子を押しながら、父の病室へと向かった。
父は昨日よりも酷く衰弱していた。
目に見えて父の死期が近いことを感じた。それなのに、わたしはまだ父の顔を直視出来なかった。
「お父さん、」
母と兄が呼び掛けて、父はようやく反応を示した。弱々しい反応だった。
「おかあさん、勇くん、」
父は辿々しく二人を呼んだ。わたしからしてあげられる、最後の親孝行だった。父は嬉しそうに二人の手をとった。そして、家の水道管が故障しているから、水道管を閉めておいてくれないか、と言った。でないと水道代が大変なことになるから、と父はそんなことを気にしていた。
わたしは、そんな父を見て悲しくなった。決して裕福ではなかった。父はいつもお金のことを気にしていた。
わたしが大学に通い始めると、わたしはバイトと奨学金の中から半分を両親に渡していた。授業料は免除されていた。兄は昔から、家庭の事情を省みない性格で、さっさと都会へとでてしまった。たまに仕送りを依頼してくる始末だった。そんななかで、父も母もわたしの収入を当てにするようになった。わたしはそれが堪らなく気に入らなかったが、お金を渡すことで親孝行をしているつもりになっていた。自分のことには一切口出しさせなかった。就職してからは給料から五万を渡し、ボーナスになれば、十万を渡した。給料のいい大手の保険会社に勤めていることもあって、わたしにとってその援助はさほど苦しいものではなかった。
しかし、今になって、父が幸せだったのか幸せな人生だったのか不安になっている。お金のことばかり気にして、それに加えて病気の母の面倒を見るだけの日々。親しい友人もおらず、これといった趣味もなかった。そんな父は何が楽しかったのだろう、とたまらなく不安になった。今更そんなことを気にしても仕方がないのはわかっていたけど、どうしても気になって仕方なかった。
次の日、また三人で見舞いに行った。父はもっと状態が悪くなっていた。吐血し、わたしたちのことも分かっていないようだった。父が欲しがったスイカを買ってきたのに、父は二口ほどしか食べられなかった。
じわじわと悲しみがわたしの心を支配していった。お父さん、と呟いたら、涙が零れた。
その日の夜、父は死んだ。
わたしたちが家に戻ってすぐのことだった。明日から病院に寝泊まりしようと話していた矢先だった。
わたしの携帯に電話が入り、呼吸が停まりました、とその言葉だけが頭のなかをリフレインしていた。わたしはビールを飲んでいたにも関わらず、運転し、病院へと向かった。また息を吹き返しているかもしれない、なんて甘い期待が心のどこかにあった。薄暗い病院へ着くと、看護士にこちらです、と案内された。
父は深い深い静かな眠りについていた。
涙が零れた。
もう二度と会えないという悲しみより、これまでの父の人生に対する悲しみの方が大きかった。
もっと娘としてしてあげられることがあったのに、と後悔が胸一杯に広がった。喉の奥がじわじわと痛む。涙があとからあとから零れるのに、わたしは拭わなかった。
父の表情は穏やかだった。いつも他人の事ばかり考えていた父が、最後に自分の死に際を家族に見せなかったのは、父の思いやりのような気がした。確かにそんな人だった。そう思うと、何だか笑えてきて、わたしは泣きながら笑った。
そして、わたしは父の冷たい手をぎゅっと握り締めて呟いた。
「ごめんね、ありがとう」
父が微笑んで許してくれている気がした。
やっぱりわたしはこの場所がどうしても、好きになれなかった。消毒液の匂いが立ち込める生と死の同居するこの場所が。
駄文失礼致しました。
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