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小望月

作者: 後藤修治

昔から月を見るのが好きだった。

 月はいつも僕を見守っていてくれたし、そのまるで処女のような純白の美しさ。どんな罪でも大きな光で包み込んでくれるような優しさに僕は惹かれていた。

 それは、僕がまだ学生だったときから今に至るまで、ずっと続いている。

 もしかしたら、自分もあんな風に綺麗に生きれたらどれほど充実した日常を送れたのかな、なんて叶わない想像をしていたのかもしれない。


 僕が自分のことをわかり始めたのは高校生ぐらいの頃だった。

 僕はそのころ何にもやる気が起きず。学生グループや、サークル、部活など何にも入っておらず、まるで孤独だった。

 寂しいという感覚を味わったのはその頃で二度目だった。

 一度目は中学生の頃、なぜかいじめられてしまって孤独だった。だけど、いじめられたといっても何かされるわけでもなく、ただ空気のような扱いだった。

 何もいない扱い。

 それは意外にも僕の心には堪えた。

 寂しかった。

 誰も声を掛けてくれなかったし、家に帰っても家は共働きなので誰もおらず、孤独な毎日だった。

 確かに充実していなかったわけではない。家はどちらかというと裕福で両親にお願いさえすれば何でも買ってもらえた。

 だから、他の人に比べて言えば、そういうところはとっても充実していたと思う。

 でも、お金で買えない充実。これが足りなかった。

 毎日、毎日、親の帰りを玄関で待っていた。

 玄関から出ると、親に寂しいと悟られてしまう気がしてそれは嫌だった。

 僕は親が好きだ。優しかったお母さん。僕が幼い頃は理不尽なことで怒ったりしたけど、最終的に間違った事を言わなかった父。

 好きだった。毎日、本当はお母さんの胸に飛び込みたかったし、怖かったけどお父さんにも色々褒められたかった。

 でも、その時は両親も忙しく毎日帰ってきて疲れていたので幼いながらも心の隅っこで遠慮をしていたのかもしれない。


 二度目は最初に言ったとおり、高校生ぐらいの頃だった。

 僕は何に関しても面白みが持てず、何もしていなかった。

 だけど、孤独感、何かを無くした喪失感、焦燥感。全て寂しさから来ているような勘定に苛まれることが多かった。

「自分で孤独になったんでしょ」母が言った言葉だ。

 その言葉は僕の心に深い傷をもたらした。

 確かに一見、他人目線から見て言えば自分から望んで孤独になったように見えたのかもしれない。でも僕は、本当はみんなの友達みたいに騒いだり、楽しんだりしたかった。僕のことを心から理解してくれるような人にも出会いたかった。

 でも、出来なかった。

 何が悪いのかって問われたら、きっと僕が悪いのだろう。

 僕は他人と交わるのをあまり得意としなかった。それはすぐに落ち込んだりしてしまう自分の性格自身のせいでもあったのだろう。

 自分としては努力していたとしても相手に理解されなければ意味の無い事だ。

 仕方がないと思った。

 僕はこういう人間で、孤独が似合う男なのだろうと、どこかで自分を嘲笑しながらまたどこかで泣いていた。

 それからはもう自分を殺した。

 それからは、こんな人生でも死ぬ勇気は無かったので、なるべく他人や親に迷惑を掛けずに生きていこうと努力してきた。

 親はこんなダメな僕を大学まで進学させてくれた。とっても感謝している。

 親にも本当は親孝行したい。しているつもりだがまだまだ僕がもらった“幸せ”には到底及ばないと思う。

 自分なりに自分の人生を今まで自分の出来る限り全力疾走で走ってきた。

 でも結局、自分のことはまだ分からずじまいだ。

 確かに、もう今となって分かったとしても仕方がないことなのかもしれない。でも、今年をとり、少し心に余裕が出てきたので少しずつ自分のことを考えたいと思っている。

 自分は何を求めていたのか。

 自分は何を失ったのか。

 きっと答えなど無いのだろうと心のうちでは了承しているけど、まだ僕の幼心は残っているようだ。

 「今日も月が綺麗だ。」

 一人煙草を吹かしながら僕は空を仰いだ。


 見知らぬ女性から手紙が届いたのは次の日の午後だった。

 近藤晴子という女性だった。この女性に憶えは無く、誰か分からなかった。

 どうでも良い手紙ではあったが一応中身を確認する事にした。

 「栄純さん。お元気ですか?私のこと覚えていますか?覚えてくれていたら嬉しいです。今度、久しぶりに会えませんか?もしよろしかったらお電話下さい。」

 その後には、晴子さんの電話番号であろう数字が刻まれていた。

 僕の身に憶えはないのだけれど、自分の名前を知っている人なのできっと知り合いなのだろうと思った。

 それにしても自分の名前を呼ばれたのは何年ぶりぐらいだろうと思った。

 会社で苗字を呼ばれる事はあっても、名前を呼ばれる事は滅多にないし。会社以外でしゃべる人なんていなかった。

 久しぶりのせいなのか少し心が高揚している自分がいた。

 結局夜まで僕は迷っていた。何で今更誰か分からない人が手紙なんてよこすのだろう。深く考えていたわけではないのだけれど、疑心暗鬼に陥っていた。

 今日の月は満月には少し足りない月だった。

 ほとんど完成体に近い月。それがまるで自分のように見えたのか、電話を掛ける決心は簡単についた。

 手紙に記されていた番号に掛ける。

「もしもし、藤原ですが。手紙を受け取り連絡先に電話をしたのですが。」すぐに答えが返ってきた。

「あ、藤原君。久しぶりだね。元気にしてた。」彼女の声は明るく元気だった。

「うん、元気だけど。ごめんね。僕君の事覚えてないんだ。」本当に申し訳ないと思った。

「藤原君のことだからそうだと思ったよ。昔から藤原君には色んな子が言い寄っていったから、こんな私見たいな人なんて覚えてないよね。」少し悲しそうだった。

「本当にごめんなさい。」本心を言った。

「良いよ。気にしないで。」元気に返してくれた。

「僕に手紙を出してくれたってことは多分どこかで知り合いなのだろうけど、どうして僕なんかに手紙を出したの?」

「会いたかったの。私たち歳をもうだいぶ取ってしまったけど、だから今なら互いに吹っ切れていると思うの。だから連絡したの。会いたいなって。」

 僕が女性に会いたいなんて言われたのはいつ振りだろうか。昔からまったく女性と係わり合いをもたないということは無かったけれど。大人になってからは自分から避けるようにして女性に接していたと思う。

「もし良かったら会ってくれないかな。」彼女が言った。

僕はここで、自分らしからぬ選択をしてしまった。

「良いですよ。誰か分からないけど、知り合いなら久しぶりに楽しめるのだと思うので。会ってみたいです。」

 この女性に会うことで今までの日常が少しでも変わるような気がした。彼女の声がそうさせたのかもしれない。

「じゃあ、今度の土曜日。あなたの家に行きますから。」彼女の声はとても楽しそうだ。

「分かりました。楽しみにしています。」

僕の家なんて決して広くはないけれど大丈夫だろう。だが女の人が男の人の家に来るというのは色々と危険なのでは無いだろうかと思ったけど、知り合いという事なので僕を信頼してくれているのかもしれない。

「じゃあ、またその時に。さようなら。」晴子さんらしい声が最後を告げた。

「さようなら。」僕も同じように終わりを告げた。

 何か変わるかもしれないと思い、間違った決断をしてしまったのかもしれない。でも、不思議と後悔は無かった。

 今日も月は僕を見守ってくれていた。


 彼女が呼び鈴を鳴らしたのは午前11時ぐらいだったと思う。

 その日僕はとってもウキウキしていた。僕にしては気持ち悪い形容だけれど、本当にそんな気分だった。

 ピンポンと効果音がなったとき僕の緊張は一気に頂に達した。これから会う女性はどんな人だろう。僕との関係は何だったのだろう。期待に満ち溢れていた。

 玄関で彼女と初めて、いや、本当は何度目か分からないけれど顔を合わせた。

「こんにちは」晴子さんが言う。

「こんにちは」僕もなんとか固まりながら言った。

「お久しぶりですね、栄純さん。」

 晴子。僕は彼女のことを完璧に思い出した。


 彼女と初めて会ったのは僕が中学生の時だった。ちょうど僕が皆にいじめられる一年前ぐらいの時だった。

 晴子はまだ小学生高学年で僕の友達の妹だった。

 僕がいつも晴子の兄貴の直哉の家に通っていた頃だった。

 直哉とは多分、僕の中では一番仲が良かった友達だった。色々な遊びを二人でしたし、色々なところに二人で行った。

 でも、二人と言ってもどこかに行くとき、遊ぶとき。いつも晴子は直哉についてきていた。僕は別にそんなの気にもしなかったし、みんなが楽しめればそれで良いと思っていた。 

 僕が彼女を“一人の女性”として意識し始めたのはそれから三ヵ月後ぐらいのことだった。

 直哉に晴子はもしかしたら栄純のことが好きなのかもしれないと言われたからだ。僕は好きな人もその時は出来た事が無かったので、女性と付き合うということがどういうことかまったく分からなかった。

 でも、興味本位で付き合って相手を傷つけてしまった人は意外にも見ていたので、僕はそんなことはしないぞ、なんて見栄を張っていた。

 それからも僕たちは三人で遊んでいた。

 でも、直哉の一言があの初心な僕の心を揺さぶっていた。自分は晴子を意識し始めていたのだ。

 相手がまだまだちびっ子なら良いものの。思春期に入ってきて自分も色々と悩みも増えて、心の中は悶悶しているし、女の子のことを考えてしまう時間も多くなっていた。

 彼女の色んな部分の変化にも自分は悪い意味で惹かれていたのだ。

 その頃から僕と晴子は二人で会うようになっていた。二人で会っているうちに僕はやましい気持ちだけではない、本当の晴子の魅力に惹かれていった。

 晴子は優しく、僕の話を何でも聞いてくれた。そのころの僕は直哉ぐらいしか話相手もおらず、でも直哉は僕のことは否定的だったので直哉では納得してくれないことも、晴子は聞いてくれた。

 晴子が僕の話を否定した事は一度も無かったと思う。

 晴子はいつも頷いてくれて、返事を返してくれた。その時の僕にはこんな普通の事がとっても嬉しかった。

 晴子は自分のことはあまり喋らなかった。僕はもっと晴子のことを知りたかったのだけれど晴子にもっと自分のことを喋りなよ、と言ったら。

「私の考えは栄純さんと一緒ですから。」と言われた。

 覚えている。鮮明に記憶に刻み込んだからかな。僕はきっとそこで晴子に惚れてしまったのだろう。

 あぁ、もう惚れてしまったからしょうがないと思った。

 優しさだけではなく、決して美人とは言えないかも知れないが整った顔立ち。澄んだ目。まだ少女のあどけなさを感じる華奢な体。

 その一言で晴子の全てが愛しいと感じてしまったのだ。

 その後の僕はもう晴子に夢中だった。家にも学校にも居場所が無かった僕に初めて安心して甘えられる“晴子”という居場所が出来たのだ。

 多くのことを喋った。晴子の横顔を何度も美しいと思った。晴子の仕草が全て愛しく感じた。

 それから僕と晴子は互いに求め合った。僕たちはまだそんな大人のような関係なんて無知で全然分からなかったけれど、幼いながらも互いにお互いを欲しあったのだ。

 半年後に唇を重ねた。あれが僕の“初恋”だった。


「本当お久しぶりですね。栄純さん。」彼女が笑って言う。

「久しぶりだね晴子。」僕も本当はとっても嬉しかった。だけれど、ものすごく時が経ったので晴子のことが全然分からない。もしかしたら結婚しているのかもしれない。と、嫌な想像ばかり浮かんでしまう。

 でも、こんなに時が経っていても晴子を目の前にしたらあの時の記憶がフラッシュバックしてしまう。

 僕は言葉に詰まった。

「栄純さん、今は何してるの?」

「今は普通にサラリーマンしてるよ。」僕は残念そうに言う。でも、今は正直に言うしかなかった。

「晴子は今何しているの?」僕は少しの期待を込めて聞いた。

「私も栄純さんと一緒だよ。普通に働いている。」

「そっか。」少しだけ嬉しかった。

 どんなことを喋れば良いのか本当に気が動転していた。そう思っていたら彼女が喋り始めた。

「栄純さんはもう結婚したの?」彼女が尋ねる。

「してないよ。これからもしないと思う。する相手もいないしね。」苦笑いしながら答える。

「実は私もしていないよ。」彼女の顔つきが少女のものになる。

「晴子なら容姿端麗だから相手なんていっぱいいるでしょ。」この言葉に嘘偽り等ない。彼女は成長したのだ。

 昔の彼女の面影はあるものの、色々なところが変わったようだ。体も顔つきも。そして僕の手からは程遠い存在になってしまったのだと感じた。

「確かに言い寄ってくる男はいるけれど、やっぱりダメなのよ。みんななんか顔つきというか下心が見えみえというかね。」

「そうか。そうだよね、晴子は女性としての魅力があるから。」

「栄純から見てもそう思う?」悪戯なことを聞いてきた。

「うん、本当にそう思うよ。」本心を忠実に答えた。

 彼女は笑顔で“ありがとう”なんて呟いた。

「ねぇ、久しぶりに一緒に歩きましょうよ。」彼女が言った。

「うん。」純粋に嬉しかった。


 僕たちは昔、よく一緒に散歩をする事が多かった。僕には特に趣味等無かったし、みんながやっているようなゲームとかにもあまり興味が無かった。

 その頃からもしかしたら僕はみんなと相成れない道を歩んでいたのかもしれない。でも、そんなつまらないことに晴子は何も言わずに着いてきてくれた。僕が何か呟くと、彼女もそれに応えてくれる。

 他人から見れば、全然面白みも無い事が僕にはとっても嬉しくて大切なことだった。彼女は散歩している時も何をしている時も“楽しい”とか“嬉しい”とかあまり口に出さなかったけれど、いつも着いてきてくれた事を思うと決して嫌ではなかったのだと思う。

 そんな小さいことが僕には大切な日常だった。


 僕たちは川沿いを歩く。なんてことはないことだ。ただ昔二人で歩いた川沿いを思い出す。ここは昔の川沿いではない。まったく関係ないところだ。それでも、やはり晴子と歩くだけで僕は自分の中で何かが変わっていくのが分かる。

「栄純君の散歩のルートって昔から変わらないね。」まるで変わらない事が良いことのように彼女は笑った。

「うん。川沿いが好きでね。あと何にもない原っぱみたいなところが好きなんだ。」僕も自然と笑顔になった。

「変わらないね何も。」彼女が言った。

「うん。」

 二人の間に寂しげな時間が流れる。二人とも思い出しているのかもしれない。昔のことを。


 僕たち二人はそれからもずっと一緒にいた。

 晴子は僕のことを否定したことは一回も無かったから喧嘩になることもなく、実質付き合っていたのだろう。

 でも、実際に“付き合おう”なんて口にしたことは互いに一度も無かった。何かそれを言ったら全てが壊れてしまうような気がしたのだ。

 二人が違和感を感じ始めたのはそれから半年後のことだった。ちょうど僕が中学二年生に上がったときだ。

 そう。丁度、僕が空気に成り始めた頃。

 僕が学校や家で浮いて、あまり良い様に思われていないというのに晴子だけは変わらず僕に接してくれていた。

 僕は寂しさ、みんなからの視線、焦りによって今までに無く、もっと晴子を愛した。自分でも何が気に食わなくて、何に腹が立っているのかも分からなくて、もう晴子を愛すること以外は分からなかった。

 自分の考えていることで、自分の周りのことを考えると頭は混乱でいっぱいだった。そんな自分を晴子は何も変わらず受け入れてくれた。

 時には直に肌と肌を重ね合わせて抱き合った時もあった。唇を重ねる回数も徐々に増えていった。

 でも、なぜか“セックス”という発想だけは無かった。

 なぜか、したいと思わなかった。決して晴子に魅力が無かったわけではなく、何か足りなかった。きっと足りなかったのは自分のほうだったのだろう。

 何もかも受け入れてくれる晴子は僕の中では女神のようだった。だから同時に自分には吊りあっていないと思った。

 晴子には自分よりもっと良い男性がいるのではないか。僕なんかと一緒に晴子がいたら晴子がダメになってしまう。そんな気がしていたのだ。

 直哉も相変わらず僕がどんな目にあっているか分かっているのに、いつも通りに接してくれた。それが嬉しくて直哉とももっと仲が良くなった。

 直哉と遊んだ後、晴子と重なった後、なぜか僕はとっても罪悪感を感じるようになっていた。

 自分にはもったいないのではないだろうか。僕と付き合うことで、だんだん晴子に不幸を与えてしまっているのではないだろうか。

 空気扱いをされているせいもあったのだろう。僕はだんだん自分が嫌いになっていった。

 僕はいつの間にか自分から晴子や直哉を避けるようになっていた。本当は触れ合いたい、遊びたい、話したい、共に歩きたい。

 でも、自分が感じる罪悪感は日に日に増していったのだ。

 そして、僕は二人と会わないことにした。自分を殺したのだ。学校にも行かなかった。クラスの連中としてはいじめられて学校に来なくなったと思っていたらしいが、決してそういうわけではない。

 悲しかったのだ。こんな情けない自分で。晴子を愛するなら自分は関わってはいけないと思った。

 ただただ悲しかった。本当はもっと触れ合いたかった。

そう。自分が悪いのだ。そう言い聞かせた。

 当たり前のことだけれど、晴子たちとは縁がだんだん無くなっていった。望んだわけではない。ただ仕方なくやったことなのだ。

 だけれども、みんなはこういうんだ“望んだことだろ”と。

 どうしても他人から見てしまうと望んでやったことに見えてしまうらしい。でも、本当の心はそんなこと思ってないのだ。

 僕が学校に行かなくなり一ヶ月ぐらい経った時に晴子が僕の家まで来た。今まで呼びに来てくれた事は何度もあった。

 呼び鈴を二回ならして「栄純さん、大丈夫ですか。」まるで僕が病人みたいだ。

 なぜ分からないのか。

 本当に晴子は僕がなぜ晴子たちと関わらないのか分からないみたいだ。伝えてもいないなら誤解されても仕方が無いという概念は僕の中には元々無かった。それは僕の性格の欠如の一つなのかもしれない。

 けど今回の晴子の呼び方は普通じゃなかった。何回も呼び鈴を鳴らした。今日は何か特別だったのかな、晴子に特別つらいことがあったのかな、とも考えた。けれども、自分に出来ることは何も無い、とまた自分から引いてしまった。

 でも、なぜか玄関のドアを開ける音がした。まさかとは思ったけど、晴子が勝手に入ってきてしまったみたいだ。

 僕は焦った。大好きな晴子に会えるという嬉しさと、僕なんかがあったらという自閉な感情が交じり合ってパニックだった。

 階段を駆け上ってくる音がする。

 僕の部屋は二回の一番階段側にある。晴子を家に呼んだことは一度も無かった。部屋に呼ぶと自分の欲望で晴子を穢してしまいそうで嫌だったからだ。

 僕にはどうすることも出来ない。悟った。

 僕の部屋のドアが開いた。そこには晴子がいた。

 僕は視線を晴子に移すことが出来ず俯いていた。でも、何かが変だった。顔を上げたら晴子が泣いていた。

 なぜなくのだろう?不思議に思ってしまった。

 晴子はただ立って泣いている。僕はそれを呆然と眺めていた。

 互いに交わす言葉を見つけることが出来なかった。僕にはどうしようも出来なかった。

 いつか聞いた言葉を思い出した。“抱きしめる”分からなかったら抱きしめるという言葉を思い出した。

 僕にはどうすることも出来ない。きっと晴子が泣いているのは僕のせいだって分かっているけど、それは晴子のためでもあるから今更弁解する必要も無い。

 だから抱きしめた。

 抱きしめると晴子がとっても華奢だってことに気付いた。久しぶりに抱きしめた晴子の体は震えていた。

 彼女は何に耐えているのだろう。彼女は何を怯えているのだろう。

 小柄な僕の体でも胸の中に頭がおさまるほどに小さい体。もう少し力をいれただけで折れてしまいそうな体。

 今更、僕は何をしているのだろう。僕は決めたはずなんだ。もう離れるって、僕といてはダメだって。でも、こっちの身のほうが持たない。

 僕の心はもう晴子を愛すことでいっぱいだ。これ以上我慢することは出来ない。僕は優しく晴子を撫でた。

 それが僕たちの最初で最後の繋がりだった。それからはもう互いに干渉することを辞めた。

 僕の行動から読み取れたのか、それとも勝手に嫌われたと思ったのかは分からないが、それからはもう会わなかった。

 そして、中学三年の夏に近藤一家は引っ越していった。東京の高校へ直哉が行くらしい。あそこの家族らしくみんなで仲良く引越しらしい。

 不思議と涙は出なかった。悲しくなかったといえば嘘になる。

 悲しかったけれど、これで絶対僕と会うことはなくなると思うと、不思議な安心感が生まれたのだ。

 引越し当日の日、僕は見送りに行った。

 不思議なことではない。直哉とも晴子とも仲が良かったのだ。見送りに行くのは当然だと思った。

「東京行っても色々と頑張れよ。」少し寂しい気持ちになった。

「あぁ。大丈夫だよ。辛いのは栄純も晴子も同じだろ」彼の目に何か見える。

 晴子は栄純の後で俯いていた。

「じゃあ、遊びに来いよ。栄純またな。」直哉は車に向かった。

 なぜか晴子は僕の前で立ちすくんでる。晴子は何か持っていた。晴子が持っていたのは何か封筒。

「晴子、東京に行ったらもっと幸せになるんだよ。」優しく諭すように言った。

 晴子は俯いていた。

 僕は晴子に封筒を渡された。何か分からなかったけれども、しっかり受け取っといた。きっとこれが最初で最後の恋になるだろうとも思っていた。

 晴子は一瞬だけ顔を上げて何か言った。

 丁度車のエンジンを掛けたときと重なって何て言われたのか分からなかった。

 わかったことは晴子が号泣していたことだけだった。彼女は走って車の元へ行ってしまった。

 これで本当に何もかも終わりなんだね。そう自分に言い聞かせた。

 車が発進する。後部座席からは直哉と晴子の後頭が見える。

 最後に見たのは晴子が一生懸命何かを伝えようとする姿だった。

 終わってしまえばあっけのないことだった。自分はこのときにも同じことを思った。

 結局、自分が何を求めて、何を失ったのかが分からなかったのだ。

 でも、良かったことはちゃんと涙が出たことだった。


 二人で川沿いを歩いていると不思議なことに気持ちが晴れていった。こんな気持ちが良くなるのはいつぶりだろう。

 僕はきっと後悔したのだ。あの日。本当は行ってほしくなかった。本当はもっと多くの時間をともにしたかった。

 思ったことは伝えなければ相手にはわからない。そんな当たり前のことを分かっていながらも実行に移せなかった自分が卑しい。

 なら、今度は行動に移せば良い。もう自分で小さくなっていてはダメなのだ。実行に移さなければ何も始まらない。

 自分で僕を変えるんだ。

「手繋いで良いかな。」晴子に問いかける。

「え、良いよ。」晴子はいきなりだったのでビックリしたみたいだ。

 そのまま時が流れる。手の感触はやわらかくてとても暖かかった。

「晴子良い景色があるんだ。着いてきてくれるかな?」

「うん。」晴子の笑顔がとっても可愛く思えた。

 川沿いを歩いていくと大きな公園に出る。

 そこには綺麗な花が一面と咲いていて、その中央に沈み行く太陽が輝いていた。

「うわぁ、綺麗。」晴子が声を上げた。

「綺麗だよね、ここの景色。辛いことがあった時とかはここに来るんだ。そうする、なんてちっぽけなことで悩んでいたんだろうと思うからね。」

「もう、太陽が沈みそうだね。」彼女の横顔が太陽に照らされて綺麗だ。

「晴子、なぜ君が僕を訪ねてきたのかは分からないけれど。良かったら僕と付き合ってくれないか。」言葉は素直に出た。

「うん、良いよ。」少しはにかんだあと、晴子はにこりと微笑んだ。


 Ep


 あの日から僕たちは付き合いだした。でも、何も変わってはいない。付き合い方は僕が中学生、晴子が小学生のままだ。

 何も変わってなんかいない。

 僕の悩みも結局まだ何の解決もしていない。

 僕はこれからも悩み続けるだろう。きっとこれは僕の性格の運命であり、一生背負っていかなければならない荷物でもあるのだろう。

 でも、これが無ければ感じれないこともあっただろう。こんないらない複雑な感情があるからこそ僕は今まで色々な人を大切にしてこれたのかもしれない。

 直哉も晴子も家族も。

 僕の隣にはすやすやと寝ている晴子がいる。僕はこれからどうなるのだろう。晴子と仲良くやっていけるのだろうか。

 晴子とのことはあんまり心配してないけれど、今度こそしっかり晴子を捕まえていられるよう頑張っている。

 僕は僕にしか出来ないことをしよう。

 大丈夫。何も変わっていない。僕が愛する心。僕を信頼してくれる心。

 髪を優しく撫でる。晴子の髪は艶々だった。見た目で見てしまうと僕はだいぶ歳をとってしまったようだな。

 晴子の手を握ると、握り返された。

 ベランダ越しに煙草を吸う。

 月明かりに晴子の顔が照らされる。

 愛しい。

 月明かりをたどると。

 今日は完璧な満月だった。


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