海と毒と少女。
世界を滅ぼす術を持ったなら、
自分を殺める術を持ったなら、
少女は美しく生きていける。
彼女の買い物に付き合わされるのは今日で何回目だろう。
真剣に香水を選んでいる後ろ姿をぼんやりと見て、そんなことを考える。
綺麗だと無感動にしか思えない色水の群集。
その中で彼女の迷う指が不意につまみ上げたのは青い小瓶。
その鮮やかな海色に記憶の扉が開いた。
――教えてあげる。この中にはね……
少女の声で過去が甦る。
瓶の向こうから覗く瞳と鈴のような声を思い出す。
「……海の小瓶」
「え?」
ほとんど無意識に落とした言葉に彼女が振り返った。
その表情を見てはっとする。
しまったと思うがもう遅い。
彼女は敏感に何かを感じ取ったらしく、笑みを浮かべて僕に近づく。
「海の小瓶って?」
「えっと、大したことじゃないよ」
「教えてよ」
「いや、本当にどうでもいいことで」
「私は聞きたいな」
崩れない笑みに、結局観念して両手をあげる。
我ながら格好悪いが、この流れで僕が彼女に勝てたことなんて一度もない。
「話すと長くなるよ?」
「じゃあ、カフェにでもいこうか」
せめてもの抵抗も空しくかわされ、僕は自分の不甲斐なさにため息を零した。
紅茶が運ばれて来ると、すぐに彼女が手を伸ばしてカップに角砂糖を落とした。
その手際の良さに少し呆れる。
話しを聞きたかったのではなく、お茶にしたかっただけではないのかと疑いたくなる。
「そっちが聞きたいって言ったんだから、飽きずに最後まで聞けよ」
「はいはい。前置きはよいから、話す話す」
紅茶に口をつけながら、彼女が意地悪く促す。
僕の口が重いのを楽しんでいるのだと気づいて、やや膨れる。
それでも、好奇心の星いっぱいの瞳には逆らえなくて語りはじめる。
海の小瓶を持っていた少女のことを。
8歳の時、同じ教室に一人の少女がいた。
そして、その子はいつも大事そう小さな瓶を持っていた。
「それ、なあに?」
「教えてほしい?」
尋ねれば、小首を傾げ尋ね返された。
少女はその歳ですでに、整いすぎた顔と神秘的な雰囲気を備えていた。
僕はどきどきしながら、うなづく。
「うん。教えて」
「じゃあ、教えてあげる」
僕がねだると、少女は目の前に小瓶を持ち上げた。
中の青い液体が水音を立てる。
それを覗くようにして、少女が僕を見る。
「この中には海が入っているの」
少女はくすりと笑う。
楽しそうに笑う。
「これは私の海。世界を沈めることが出来るの」
「なら、どうして開けないの?」
理解できずに聞く僕に、少女は当たり前のように言葉を紡ぐ。
「だって私はまだ世界が好きだもの。使わなくても、必要なくても、持っているだけで満たされるものってあるのよ」
愛おしそうになぞられた瓶を見つめる。
この中に海が入っている。
僕は小さく口をつぐむ。
言葉が気持ちに追いつかなくて、溺れたように苦しい。
黙り込んだ僕に少女が囁く。
「蓋を開けたら、青い波がすべてを壊して世界はまっさらになる。そうノアの洪水みたいに。でも、今度はみーんな死んじゃう」
私も君も――――――少女の鳥が囀るような声音に、やっと答えを見つける。
「嘘つき」
何の躊躇いもなく放った言の葉は、見事に効果を見せた。
少女はきょをつかれたように瞳を瞬いて、壊れた機械のように動きを止める。
「嘘つき。海はそんな小さな小瓶には入らないよ。それに海は君のものじゃない」
「そんなことない。私の海よ。蓋を開けたらみんな無くなっちゃうのよっ」
何かを恐れるように少女が叫ぶ。
かぶりを振って、両手で小瓶を抱きしめる。
少女の嘘を暴きたくて僕はむきになった。
「なら、開けてみてよ」
手を伸ばし、少女から小瓶を奪う。
青い小瓶。
海の小瓶。
嘘つきの小瓶。
「止めて、開けないでっ」
短い悲鳴と、少女の手と、どちらが早かったか。
僕は覚えていない。
ただ、気がついた時には瓶が割れていて、床には小さな水溜まりが広がっていた。
微かな潮の香りが空気を染める。
無我夢中で伸ばされた少女の手が、小瓶を叩き落としたのだと理解する。
飛び散った透明な破片。
綺麗な深海色の水溜まり。
戻らないのはすぐわかった。
どうしようもない罪悪感に、少女の顔色を伺えば。
少女は泣くでもなく、怒るでもなく、静かにその惨状を見つめていた。
微かに唇が震え、言葉を形作ることさえ出来ずに吐息だけを零す。
ネジの回りきった人形のような少女を前に僕は何も言えず、破片を集め、白いハンカチで床を拭いた。
白いハンカチはたちまち海に染まり、それに破片を包んで縛る。
そして、少女の手に載せた。
ごめん。
そう言おうとした。
ごめん、悪気はなかったんだよ。
そう言えなかった。
言いたいことが言えないことが、もどかしかった。
伝えられないことが悔しかった。
責めてくれたら、怒ってくれたら謝れたのに、少女はそのどちらも選ばなかった。
結局、僕は逃げ出した。
そして、それから少女と言葉を交わすことはなかった。
「そっか」
話し終えての一言めは、ずいぶんと想像と違っていた。
てっきり、酷いだの、最低だのと罵られるのを覚悟していた僕は拍子抜けした。
静かに紅茶を啜る彼女は憂い気味で、逆に慌てる。
「怒らないの?」
「怒らないよー。だって、実際に嘘つきだったのはその子だし」
苦笑しつつ、彼女はたださーと頬杖をつく。
茶色の髪が瞳を隠すように流れる。
「同じ少女としてはわからなくないの」
「少女?」
「私は毒だったよ。例えば、飲めば一息で死ねる毒みたいなの。その子は海だった。世界を滅ぼす術。そういうのがあると少女はきらきら綺麗に生きていけるの」
少女は毒を持つ。
僕にはよくわからなくて戸惑う。
そして、そんな僕を彼女は笑う。
「わからない?」
「わからないよ」
「だよねー」
けらけらと今度は心底たのしそうに笑って、彼女は紅茶を飲み干す。
それから、机に手をついて身を乗り出す。
「ねぇ、さっきの香水、なんだか欲しくなっちゃった。買い行こうよ」
「え、もう行くの」
席を立った彼女に慌ててコーヒーを飲む。
話しを聞いていた彼女はともかく、話しをしていた僕はろくに休んだ気がしない。
それなのに、またあの人混み歩くのか。
考えるだけでぐったりする。
「早く早くー」
人の気持ちも知らないで、無邪気な声で僕を呼ぶ彼女。
それでも、その笑顔に負けるのをしょうがないと思う僕は馬鹿なのか。
スキップ気味の彼女を追いながら、いろんな人とすれ違う。
不意に鼻孔をくすぐったのは潮の香り。
あの日の海の香り。
思わず、振り返る。
流れていく人混みはまるで波のよう。
あの子はまだ少女のままなのだろうか。
それとも毒を捨てて大人になったのか。
「どうしたの?」
いつの間にか隣には彼女がいて、心配そうに僕を見上げていた。
何かを言おうとして、口を開き、何も言えずにまた閉じる。
沈黙する僕の手を彼女が両手で握る。
「私は毒を捨てたよ」
ひそやかな声が泡のように耳朶を叩く。
波の中、立ち止まった僕らを沢山の雑音が包んでも、その声はよく聞こえた。
まっすぐに僕を見つめる瞳は、静かな海を讃えるように揺らがない。
「一人では生きていけなくなったから。だから、私は毒を捨てたよ」
「ごめん」
ぽつりと呟く。
あの日、口に出来なかった一言が心を空にする。
僕はあの子が好きだった。
だから、あんな小瓶に縋って生きてほしくないと思ってしまった。
自分勝手にもそう願った。
「ほら、行くよ」
優しく手を引かれて、歩いていく。
波に紛れて潮の香りがする。
いつか二人で海に行こう。
そう思った。
そして、また話そう。
海を、世界を滅ぼす術を、確かに持っていた少女の話しを。
そして、次は聞こう。
毒を、一息に死ねる術を、確かに持っていた少女の話しを。