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後編

姉小路がやって来る日まで二日あった。

村岡は二日で面を仕上げようと、ただひたすら一心不乱に打ち続けた。文音は身の回りの整理を終えると、神棚に向かって手を合わせ、祈った。村岡は寝食も忘れ面を打った。桜の木材は少しずつ面の形になっていく。だいたいの形になると、細かい部分を彫刻刀で彫る。まぶたや唇の細やかな部分を彫り終えると鑢で表面をすべらかになるように磨く。

次に彩色だった。大きめの刷毛に胡粉をつけ、地塗りする。唇は朱を入れ、髪は漆を塗った。そして最後に銘を入れ、面は完成した。戸の開く音で文音は顔をあげた。疲れきった表情で父が現れた。

「出来たよ…」

村岡は弱々しい声で言い、面を見せた。見事な小面の面だった。

「父上…」

文音の言いたいことが村岡にはわかった。文音はこれでもう、何も思い残すことはないと思ったのだった。

姉小路良政が牛車と大勢の侍女と供を連れてやってきたのは、次の日の朝であった。

「面は出来たようだな」

姉小路は村岡の顔を見るなり、そう言った。村岡は紫色の布に包んだ面を渡した。包みをほどいて面を見た姉小路は、思わず息を呑んだ。「見事だ。こんな見事な面は見たことがないぞ」

村岡はその言葉に対し、礼を言うかのように頭を下げた。姉小路は供の男に合図を送ると、その男は懐から金の包みを出して、村岡の前に置いた。

「約束の金だ。では、娘を連れていく」

文音は悲し気な表情で父を見つめた。

姉小路に促され、彼女は牛車に乗り込んだ。

「その方も婚礼に出席するか?歓迎するぞ」

姉小路がそう言うと、

「いえ…。ここで娘の幸せを祈りとうございます」

と、村岡は答えた。

「さようか。それでは、出発だ」

牛車がゆっくり動き出した。村岡は、一行が小さくなるまで見送っていた。

父と娘は二度と生きて会うことはなかった。

姉小路は途中で友人の公家の邸宅に立ち寄り、翌朝、京の都へ向けて出発した。数日かけて京の都に辿り着いた一行は、真っ直ぐに姉小路の邸宅へ向かった。文音は牛車からそっと京の都を見た。通りを大勢の人々が行き来し、賑いを見せている。都の様子に心奪われているとふいに牛車は止まった。姉小路の邸宅に着いたのだ。

「疲れただろう。今日はゆっくりお休み。明日は婚礼なのだからね」姉小路は優しく声をかけた。侍女に案内されて部屋に入った文音は小さく溜め息をついた。明日の婚礼を考えると気が重い。もう、後へ引くことは出来ないのだ。

姉小路良政と村岡文音の婚礼は、次の日の夜行われた。邸宅の大広間には客が大勢つめかけていた。一足先に台座に坐っている姉小路は、客達の相手をしていた。

「妻になる女は面打師の娘だそうですな」

「ええ。美しい娘でしてな」

そのように話をしていると、盛装した文音が現れた。ざわついていた広間はたちまち、しんとなった。侍女達の手で化粧された文音の清らかな美しさに、誰もがみとれていたのである。文音は無言で姉小路の隣りに坐った。姉小路は出席した客達に次のように挨拶した。

「今宵は多くの方にお集まり下さり、誠に嬉しく思います。さて、皆様、わたしは夫婦の杯を取り交わす前に、能を舞いましょう。この晴れの日のために」

客達は姉小路が能好きなことは知っていた。中庭に特別に設けられた舞台に囃方が坐り、小面をかけ、唐織着流の装束を身に着けた姉小路が立つ。笛の音が静かに流れ、三番目物

「井筒」

が始まった。「井筒」

とは、伊勢物語を材にとった世阿弥元清の作品である。

在原業平に別の愛人ができ、河内の高安へ通うようになった頃、夫の身を案じた有常の娘は、


風吹けば 沖つ白波龍田山

夜半にや君が独りこゆらん


…どうぞご無事であるようにと、優しい心で詠んだ歌である。それから曲は進み、二人がまだ幼かった頃のことも語られる。互いに隣家同士で、よくいっしょに遊んだものだが、いつしか成長して大人らしくなると、男は女に恋歌を寄せる。


筒井筒 井筒にかけしまろが丈

生ひにけらしな妹

見ざるまに


女は返歌を次のように詠む。


比べこし 振分髪も 肩過ぎぬ

君ならずして誰かあぐべき


有常の娘は

「井筒の女」

とも呼ばれていた。僧は自分の前に現れた女は、有常の娘の亡霊であろうと思い、古寺に一夜籠ることにする。夜もふけ、さきほどの女の霊が、今度は男装して夢の中に姿を現わす。


あだなりと 名にこそたてれ桜花

年に稀なる人を待ちけり


と詠んだのはわたし。そのために

「人待つ女」

と言われたのです。こうして業平の形見のものを身に着けて、業平になったつもりで舞いましょう。月の澄み切って明るい中、亡霊は静かな美しい舞を舞い始める。


月やあらぬ 春や昔の春ならぬ

わが身一つはもとの身にして


と業平が詠んだのは、いつの頃だったのか。

「筒井筒 井筒にかけしまろが丈」

と思い出の歌を口ずさみながら、女は舞い続けた。

そして、曲も最高潮に達した時、予想しなかった事が起きたのである。姉小路は妙に息苦しくなってくるのがわかった。動悸が激しくなり、目まいがした。見物していた客達や文音もこの異変に気づいた。姉小路の足取りはおぼつかなくなり、とうとうばったりと倒れてしまった。

広間は騒然となり何人かの者が倒れた姉小路のもとへ駆け寄った。

「姉小路さま!どうなされました!」

一人が面をそっとはずした。公家の表情はぐったりして、顔色は土色に変わっていた。

姉小路良政は死んでいたのだ。

「死んでいる…姉小路さまは死んでいる!」

これを聞いた途端、文音は広間を飛び出していた。姉小路は死んだ。死んだのである。

自分もいっそ死んでしまおう。どこをどう走ったのか。文音はいつの間にか足を止めていた。ふと顔をあげると桜の木がある。村はずれの丘にあった桜より、はるかに貧弱な木だ。

花はもう散り始めている。文音がじっと見つめていると、桜の木に重なるようにして、あの桜の精が現れた。

彼は優しく文音に問い掛けた。

「わたしといっしょに来るか?」

文音は目に涙を浮かべ、微笑みながら、

「行きます。どこへでも」

と、答えた。桜の精が手を差し伸べると文音はその手に自分の手を重ねた。

人々が文音を追ってきた時には、もう彼女の姿はなかった。ただ、目の前にある桜だけが前にも増して、花を散らしているだけだった。人々は姉小路が死んだのは、村岡が面に呪いをかけたのだと言い合った。武装した何人かが京の都から休まず、馬を飛ばして村へやってきた。荒々しく村岡の家に入り込むと彼らは呆然となった。

村岡一柊は自害して果てていたのである。

胸を短刀で一突きだった。村岡の冷たくなった表情は語っていた。自分は今まで色んな木で面を打ってきたが、この桜はこの世で最高の木だった、と…。

…何年かがすぎ、一人の村人が使いの帰りに桜の丘を通った。

そこで村人が見たものは、桜の切り株から萌え出ようとしている若芽の姿であった。


《完》

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