中編
穏やかな日差しがふりそそぐ午後…。
桜の精は、小高い丘の上から回りの景色を眺めていた。空は青く澄んでひばりがさえずっている。遠くの山々は霞み、平野に目をやると農夫らしき者が野道を歩いていくのが見える。
久方の光のどけき春の日にしづなく花の散るらむ 紀友則
彼は自分の命の炎が、少しずつ弱まっていくのを感じていた。
その頃…。村岡一柊は地主の家を訪れていた。村岡は今まで起こった事を地主に話した。
「そうでしたか。あの桜で面を彫れと…」
村岡はうなづいた。
「あの桜については祖父さまから聞いた事があります。祖父さまも、そのまた祖父さまから聞いたそうです」
「古えの代から、あの桜はこの地にあった訳ですか」
「その通りです」
「もうお帰りですか」
「ええ。桜の木を見ておきたいと思いましてな」
「村の衆にはわたしからよく話しておきましょう。皆、わかってくれるはずです」
「何から何まで…かたじけない」
村岡は頭を下げると地主の家をあとにした。自宅へ帰る途中、村岡は桜の古木がそびえる丘へ立ち寄った。
見れば見る程、見事な桜だった。
無数の枝に花を咲かせ、天へとのばしている。これがもう枯れ行く桜とは思えなかった。
桜の古木に吸い寄せられるように歩み寄った村岡は、途方もなく大きな幹にそっと触れた。なかなかしっかりした幹だ。これなら、きっと立派な面が彫れるだろう。
「村岡殿…」
ふいに頭上から声がしたので、村岡は顔をあげた。古木と重なるようにして桜の精が見下ろしている。
「わたしを切る決意をして下さったか」
「ああ。そなたの幹はしっかりしている。きっと素晴らしい面が出来るだろう」
村岡がそう言った時、桜の精の表情に、一瞬陰りがよぎったように見えた。
「文音はどうしている」
桜の精が切り出した。文音はここ最近、桜の精のもとへ来ていなかったのだ。
「文音は家に閉じこもって、外へ出ようとしない」
彼はそう答えた。村岡は、ぼんやりと外を眺め、時々涙を流す娘を見て不憫でたまらなかった。
「自分達を不幸だと思っているのか?」
その問いに対し、村岡は、
「いや、そうは思ってはおらぬ。人間というものは皆、宿命を持って生きているからな。そなたもだろう」
と答えた。村岡は丘の上から見える景色を見つめ、ひとりごちた。「ここは変わらんなあ。よく亡き妻とこの丘へ来たものだ。そなたも知っているだろう」
桜の精は黙っていた。
「わたしはそろそろ失礼するよ。地主殿がそなたを切る手筈を伝えてくれるだろうから」
そう言って村岡は丘をあとにした。桜の精はいつまでも彼を見送っていた。
家に帰ると地主が村岡を待っていた。地主は村の者達に桜を切ることを話したと言った。村人達のほとんどが反対したが、地主が訳を話すと、人々は承知したとのことだった。
公家に逆らえばどうなるか、人々は知っていたのだ。自分達に親切にしてくれた村岡が、罰せられるのを見たくなかった。
桜を切るのは明日の朝決まったと、言って帰った。村岡は、障子の向こうで自分達の話を聞いていた文音のことを考えていた。
翌朝、桜の丘に地主と村人達が集まった。村岡がやってくると人々は彼の方へ近付いてきた。彼は人々に、
「皆、本当にすまない。皆が大切にしている桜を切ることになってしまったのは、わたしのせいだ」
と頭を下げた。
「何をおっしゃるのです。あなたはわしらが病気になったとき、助けて下さったではありませんか。わしらはあなたに恩返しをしなければならんのです」
村人の一人が言った。人々の思いは皆同じだった。
「では、そろそろ」
斧を持った二人の村人が前へ進み出た。
二人は桜の根元に近付いて行った。
そして一人が最初の一振りを幹に入れた。コーンという音がして辺りに響き渡る。巨木の桜を切るには、かなりの時間がかかった。村人達は交替で切り続けた。
太陽が真上に昇った頃、桜はようやくその身を傾け、地面に倒れたのだった。村岡は面を打つのに丁度良い部分を選んで、それを切り出してもらった。その他の部分は神主に祈祷して燃やしてしまうことにした。村岡は残った桜の根をしばらく見つめていたが、木材を大事に抱えて帰路についた。家に帰ると文音が出迎えた。
「あの方にお会いになられましたの?」
文音がそう訊いてきた。
「いや、わたしの前には現れなかったよ。それよりこれを見てごらん」
村岡は桜の木材を板敷きの上に置いた。
文音は愛しそうに手を触れて、
「父上、心おきなく面打ちに励んで下さい。わたしは、姉小路さまのもとへまいります」
と目に涙を浮かべて言った。
「文音…」
村岡は言葉につまり、それ以上言うことが出来なかった。
「さあ、もうあまり日はない。さっそく今夜から作業にかかろう。支度をしておくれ」
「はい」
文音は奥の箪笥から白装束を出し、村岡はそれに着替えた。そして、神棚へ向かい、一心に祈りを捧げた。後ろで文音も一緒に祈った。村岡は自分の仕事場へ入ると珍しく戸を閉めてしまった。
特に大事な仕事の時は、彼は誰も中に入れず、面打ちするのだ。
机の上に彫刻刀を並べ、自分の前に桜の木材を置いた。村岡は木槌とのみを取った。
のみを叩く音が静まり返った辺りにこだまし、面打ちが始まったのであった。