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前編

秘すれば花なり

秘せずば花なるべからずとなり


世阿弥『風姿花伝』京の都から遠く離れたある村に一人の男が住んでいた。

男の名は村岡一柊。能面を打つ事を生業としている面打師であった。彼の作る能面は気品があり、彫刻的絵画的な美を放っていた。そのため、注文客のほとんどが能楽師や能好きな公家達で、彼らは大金を持って面を作ってくれと頼みに来るのである。だが、村岡はこんな大金はいらないと言って受け取らない。

しかし、客は無理にでもと置いていく。仕方なく村岡はその金を村人の病気見舞いにと、一人娘の文音に持たせてやるのだ。

そんな大金をもらっても、二人は贅沢はしなかった。この小さな村で細々と暮らしていくのが父娘にとって最高の幸せだったのだ。その日も、村岡はいつものように仕事場で面を打っていた。

「父上、お茶が入りました」

文音が盆を持って入ってきた。

「うん、ありがとう」

村岡は手を休めて茶を飲み、文音の顔を見て次のように言った。「文音。そろそろそなたも嫁に行かねばならぬな」

「父上、わたしは父上を置いて行けません。わたしがお嫁に行ったら、誰が父上の世話をするのですか」

文音は困ったような顔で言った。

「自分のことは自分で出来るさ。そなたはわたしの仕事を心配しているのではないのか?」思わず、文音は口をつぐむ。

「心配はいらないよ。実は弟子を取ろうと思っている。こんなわたしの所に来てくれる者がいるといいのだがね」

「父上……」

村岡は黙って娘を見つめた。文音の母親は都の女で、二人は駆け落ちするようにしてこの村へやって来ると夫婦になった。

母親は文音を産むと間もなく死んだ。文音は母親似で色が白い、美しい娘だった。

村岡の所へ来る注文客の中にも、何人かの者が文音を妻にしたいという者がいた。しかし、文音の気持ちは動かなかった。

(その内、わたしが文音にふさわしい者を見つけてやろう)

村岡はまた仕事に戻った。文音は父が仕事を始めたので、たのまれていた仕立物を届けに、地主の家へ出かけた。彼女は手内職をして暮らしの生計を立てていた。

地主の妻は彼女の織った着物を見てこう言った。「いつもながら文音さんの丁寧な仕立てには感心しますよ」

「ありがとうございます」

文音は深々と頭を下げた。地主の妻から次の仕立物を受け取り、彼女は帰って行った。

妻が見送っていると奥から地主が出て来た。

「今のは、村岡さまのお嬢さんでは?」

「はい。そうですわ」

「もう嫁に行く年頃だな」

「ええ。早く良いお方が見つかるといいですわね」このように地主夫婦も文音の事を心配していたが、文音は父を一人にさせたくない思いでいっぱいだった。いや、もしかすると今まで出会った男の中に、彼女の心を動かす男はいなかったのかもしれない。だが、ついにこの日、文音に運命の出会いが巡ってきたのだ。黄昏の中、いつもの道を歩いてあると、どこからともなく笛の音が聞こえてきた。その笛の音はどこかしら、はかな気で、哀しみがこもっていた。文音はふと足を止めて笛の音に聞き入った。

(まるで胸がしめつけられるような哀しい音色だわ。いったい、誰が吹いているのかしら)

文音は笛の音に導かれるように歩き出した。笛の音は村はずれの丘から聞こえてくるようであった。丘の道を登って行くと、桜の巨木の下に一人の若者が笛を吹いていた。白い着物を着た若者は、完全な美貌の持ち主であった。ふいに、若者は笛を吹くのをやめて文音の方に顔を向けた。彼女はハッとなってこう言った。「邪魔してごめんなさい。あまりにも哀しくてきれいな音色だったから…」

「いや、かまわない」

「あの、どうしてそんなに哀しい音色なのですか?」

若者は立ち上がって、山を見つめると言った。

「わたしはもうすぐ死ぬ」

「え…?」

「娘よ、わたしはこの桜の木に宿る桜の精なのだ」

文音は言葉をなくして若者を見つめる。「何百年もの間、わたしはここで時の移り変わりを見てきた。だが、それももう見ることはない…」

若者の目は淋しげに沈んだ。

「せめて最後にこの景色を覚えておこうと、ここで笛を吹いていたのだ」文音はこの桜の精が哀れに思えた。彼女は少しでも長く生き長らえる方法はないものかと考えた。桜の精には文音の心がわかるのか、静かに笑みを浮かべて、

「無理だよ。わたしの命は下弦の月までなのだ」

と、言った。

「では、わたしが下弦の月の夜まであなたの笛を聴いてあげましょう」桜の精は驚いたように彼女を見つめた。

「そうしたら、淋しくないでしょ?」

文音は真剣だった。桜の精はフッと笑ってこう言った。

「優しい心を持っているのだな。名前は?」

「文音」

「文音か。良い名前だ」

「わたしは毎日、地主さまの所へ仕立物を届けに行くの。その帰りにここへ来るわ。ではまた、明日会いましょう」文音はそう言って帰って行った。

翌日から、文音は家の帰りに桜の精の笛を聴くため、丘へ通い始めた。

下弦の月の夜まであと七日あった。桜の精は彼女が来ることを楽しみにしていた。文音も桜の精といっしょにいる時間が楽しかった。そうして、いつしか二人の心に淡い思いが芽生え始めていた。ある日、文音は桜の精の笛を虚ろな気持ちで聴いていた。桜の精は彼女のようすが妙なのに気付き、笛を吹くのをやめた。「どうしたのだ?元気がない」

「あなたはあと四日でいなくなってしまうのね」

「文音…」彼女の目から涙がひとしずくこぼれる。

「離れたくない」

桜の精はそっと文音を腕の中へ抱き寄せた。彼も今、文音と同じ気持ちになっていた。

「わたしもだ。このままずっと、お前といっしょにいたい」

「どうしてもっと早く会えなかったのかしら」文音は桜の精の胸に顔を埋めてつぶやいた。

「運命のいたずらというものだろう。桜の精というこの身がうらめしい。人間の男であったなら、お前を妻に出来たのだ」

桜の精は文音を抱く力をこめた。文音はふと目を開けた。陽が西へかたむき始めている。「もう帰らなければ」

「また明日来てくれ、文音」

「ええ。明日ね…」

文音は辛い気持ちを抱えたまま、丘をあとにした。家の前まで来ると村岡が戸口に立っていた。村岡は文音を見ると、心配そうに言った。「お前の帰りが遅いので、迎えに行こうかと思ってたんだよ」

「ごめんなさい、父上。すぐに夕餉の支度をしますわ」文音は厨へ入って行った。村岡は娘のようすがおかしいのに気付いていた。縫い物をしていても、何か、他のことを考え込んでいるようであった。問いただそうとしても何も答えてはくれないだろう。次の日、文音が出かけたあと、村岡は考え事をしながらのみを動かしていた。この日、村岡の家に見知らぬ訪問客が訪れた。「誰かおらぬか」

この声に村岡はもの思いから冷め、表の戸口へ行った。そこには二人の男がいた。一人は金糸銀糸の贅沢な着物を着た公家で、もう一人は家来であるらしかった。

「そなたが面打師の村岡一柊か?」

公家が彼を見て口を開いた。

「はい。どちらさまでしょうか」「わたしは姉小路良政。京の都の者だ。そなたに面を打ってもらいたい」

「喜んでお引き受け致します」

姉小路は満足そうにうなづいた。

「小面の面を打って欲しいのだが、木はこちらで選んだもので打ってくれるか?」「はい。どのような木でしょうか」

「あれだ」

姉小路はすっと指さした。村岡が指さす方を見ると、村はずれに立つ桜であった。

「あの桜を使うというのですか?!」

彼は思わず叫んだ。「そうだ。なかなか見事な桜よ。あれで打った面は素晴らしい面となるに違いない」

「出来ません。どうかそれだけはお許し下さい」

「何故だ」

姉小路は眉をあげた。

「あの桜はわたし共がこの村へ来る前からある神木です。神木を切り倒したら、神の怒りにふれます」

村岡の言葉に姉小路はせせら笑った。

「下賎の者の世迷言だ。それに、あれはかなりの老木。切る前に倒れてしまうわ」

「姉小路さま・・・」

「よいか? 必ずあの桜で面を打つのだ。それともうひとつ。そなたには娘がいるそうだな」

村岡の顔色がさっと変わった。

「京女の血を引く美しい娘だそうだな。さっき村の者から聞いたぞ。ぜひ、その娘をわたしの妻に迎えたい」

「文音を妻に・・・」

そのとき、足音が聞こえて村岡は顔を上げた。文音が帰ってきたのだ。

文音は家の中にいた姉小路と目が合い、軽く会釈した。

「そなたが村岡一柊の娘、文音か?」

「はい」

姉小路は目を細めて微笑むと言った。

「なるほど。聞きしに勝る美しい娘だ。村岡、わたしはこの娘との祝言の席で能を舞いたい」

文音は一瞬耳を疑った。

「父上・・・」

父のほうを見るとその顔は暗く沈んでいる。

「わたしに背かぬほうがよいぞ。もし背けばどうなるわかっておるだろうな」

村岡は黙っている。姉小路は家来を従えて表へ出た。

「では、また来る。文音よ。そなたのために今度、御所車を連れて来よう」

そう言い残して姉小路は馬に乗り、去っていった。文音はしばし茫然と見送っていたが、父の傍らに近づいてこう言った。

「あの人は誰なのです。それに祝言ってどういうこと?」

「あのお方は姉小路良政さま。わたしに面を売ってくれと頼みに来た。村のはずれにある桜の木で面を打てとな。そして、お前を妻にしたいと望んでおられる」

文音の胸に衝撃が走った。彼女はくずおれるように膝をついた。

「文音・・・?」

「お許しください・・・父上。わたしは、桜の木の精を愛しているのです」

文音は今までのことを全て父に話した。村岡はしばらく何も言わなかった。泣き伏す娘の肩に、そっと手を置いた。どうすることもできない父娘の傍らを風がすーっと通り抜け、次のような声が聞こえてきた。

〈わたしを切って面を打つがよい〉

声の主は桜の精だった。

〈わたしはもうすぐ死ぬのだ〉

「いやです! あなたを離れたくありません!」

だが、声はもうそれっきり聞こえなかった。

空の色が茜色から少しずつ紫色に変わると、いくつかの星が瞬き始める。

下弦の月の夜まで、あと三日であった。


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